ハート/ネグリの『帝国』を読む

帝国のバイオポリティクスの社会


さてハート/ネグリは、第一章では法的な視点から新しい帝国の誕生を検討してきたが、この視点だけでは十分ではないのは明らかである。この章では、フーコーのバイオポリティクスの視点に依拠しながら、帝国の問題を検討しようとする。そして規則のパラダイムが、物質的なレベルでどのように変わりつつあるかを探ろうとする。

著者は、フーコーの著作は多くの側面で、帝国の規則の物質的な機能を検討するための場を準備したと指摘している。その第一の側面は、社会の側面が「規律の社会」から「管理の社会」に移行したことの歴史的な分析だ。この移行を明確に示したのは、ドゥルーズの『フーコー』と、「管理社会への後書き」という文章だ。

周知のように、ドゥルーズはこの文章で、フーコーの「規律社会」の概念よりも、「管理社会」の概念の方が、現代にはふさわしいと指摘しているのだが、すでにフーコーはこのことをさまざまな文章ではっきりと指摘していた。規律社会とは、習慣、風俗、生産的な慣行を作り出し、規制する装置の分散したネットワークによって、社会的な命令が構築される社会だ。『監視と処罰』はこの社会の誕生をまざまざと示していたはずだ。

この社会では、社会の成員が自発的かつ強制的に社会の規則に従うようにするために、規律的な制度(監獄、工場、収容所、病院、大学、学校など)を利用する。これが社会的な領域の構造を決定し、規律の「理性=理由」にふさわしい論理を作り出す。フーコーは古典主義の時代とアンシャン・レジームをその代表的な社会として描いているが、著者は資本主義的な蓄積の最初の段階はその全体がこの権力パラダイムで支配されているとみているし、これは間違いのないところだ。

これに続く管理社会とは、近代の最後に登場し、ポストモダンの時代を通じて主流になっ社会である。命令のメカニズムは「民主的」なものとなり、市民の身体と脳を通じて分散される社会的な場のうちに内在している。こうした社会の主体は、外部の権力から命令され、規律を与えられるというよりも、秩序を内面化する傾向がある。秩序を維持するのも、命じられて維持しているのか、自主的に維持しているのかがわからなくなるのが、この社会の特徴だ。

この社会の権力は、通信システムや情報ネットワークなど、頭脳を直接に組織するマシンを通じて、福祉システムや監視された活動における身体を直接に組織するマシンを通じて交渉される。主体は自己の生の意味を実感できず、みずからが秘める創造性を欲望することもなく、いわば自律的に、自主的な自己を疎外する。規律社会と同じように人々は規範と正常性への偏執に支配されているが、規律社会とは異なり、社会的な制度を通じて支配されるのでなく、自らが自主的に作り出したネットワークによって支配されているのである。

さてフーコーの理論の第二の側面は、新しい権力パラダイムがバイオポリティクスという性格をもつことを明らかにしたことにある。この権力では、社会を一つの身体のようにみなしながら、社会を構成する住民の生命を維持し、再生することそのものを目的とする。これは管理する社会に固有の権力であり、他の社会ではこの権力が自立的なものとなり、社会の全体を貫く権力として行使されることはなかったのである。このポストモダンの権力は、同時に福祉社会の権力でもあり、現代の新しい帝国にふさわしい権力なのだ。

著者たちは、この規律社会から管理社会への移行は、マルクスが労働が資本に形式的に包括される状態から、実質的に包括される状態への移行という概念で表現したものに等しいという。ぼくはマルクスの概念を、バイオポリティクスの社会に適用するのは、あまり適切ではないと考える。それこそ時代の思考する枠組みが違うからだ。もちろん著者のように敷衍することは可能だが、著者はマルクス主義の用語で考え始めると、急に左翼主義的に硬直して思考をみせることがあるのに注意しよう。マルクス主義の概念よりも、著者が依拠しているように、ドゥルーズ/ガタリの概念を使う方がはるかに有効ではないだろうか。

この地球の身体としての社会を管理するバイオポリティクスとポリスの概念は、帝国の司法的な概念としっかりと結び付いていると著者は考える。これに関連して著者が強調するのは、全体主義という概念は無効であり、帝国には適用できないということだ。全体主義に関する著作は本棚から一掃すべきだ(笑)と主張するほどだ。全体主義批判はイデオロギー的な批判につながり、バイオポリティクスとバイオの権力の「生産的」な側面を考察することができないからだ。ハート/ネグリはフーコーとともに、権力は創造的なものだと考える。