ハート/ネグリの『帝国』を読む

生命の生産−−バイオポリティクスの諸理論


ただしハート/ネグリは、この管理社会やバイオポリティクスの概念にこのままでは満足できない。これらの概念を作り出した理論家の仕事に不満を感じているからだ。まずフーコーは、アンシャンレジームの主権国家から、近代の規律社会に移行するには、資本主義におけるバイオポリティクスが重要な役割を果たしたこと、個人に対する社会の管理が、意識やイデオロギーだけを通じてではなく、身体において、身体によって行われたことを強調していた。しかし著者が不満に感じるのは、フーコーが構造主義的な認識論から離れられなかったことだという。もしもフーコーにこの時点で、システムを動かしているのはだれかと尋ねても、答えはなかっただろうと著者は考える。フーコーはバイオポリティクス的な社会の生産の真の力学を把握できなかったというのが、著者の批判だ。

フーコーと比較すると、ドゥルーズ/ガタリはバイオの権力についてポスト構造主義的に把握しており、社会的な生産の存在論的な実質に注目しているという。マシンは生産するからだ。しかし著者はドゥルーズ/ガタリにも不満を感じている。ドゥルーズ/ガタリは、社会的な再生(創造的な生産、価値、社会関係、情動、生成することの生産)を発見したが、これをカオス的なものとして、表面的で一時的なものとしてしか分節できなかった。

著者が注目する第三の源泉は、現代のイタリアのマルクス主義的な理論家であり、「大衆の知性」「非物質的な労働」「一般的な知性」などの概念で、生産的な労働の新しい性格とその発展を考察している。これはぼくには馴染みのないところなので、少し詳しく著者の説明に耳を傾けてみよう。この研究は二つの研究プロジェクトからスタートした。一つは、生産的な労働の最近の変化と、それが非物質的な性格を強めている問題を研究するプロジェクトである。以前は剰余価値を生産するのは、大量生産工場の労働者だったが、現在では知的で、非物質的で、コミュニケーションにかかわる労働者が剰余価値を生産するようになっている。このプロジェクトから示唆されるのは、現在では搾取の中心にあり、叛乱の中心にるあのは、この種の労働者であるということだ。

第二のプロジェクトは現代の資本主義社会において生きている労働者の社会的でコミュニケーション的な次元を考察するものだ。搾取と革命的な可能性において、新しい主観性の問題が登場しているという。新しい価値の理論について、新しい主観性の理論が必要であり、これは知識、通信、言語によって表現する必要がある。

これらのプロジェクトは、社会的な構成におけるバイオポリティクスのプロセスの内部での生産の重要性を再び確認するものだったが、あまりに理想的なレベルで純粋な形で考えられすぎているという。非物質的な労働のような新しい生産的な力が発見されたかのように語っており、言語とコミュニケーションの分野だけで提示される。バイオポリティクスの新しい労働慣行が、知的で非身体身体の全体性と考えられる傾向があるのが、こうした理論家の第一の欠点だという。著者は身体の全体性と情動の価値も、中心的な役割を果たすことを強調する。

著者は現代経済における非物質的な労働について、三つの重要な側面があると考える。情報ネットワークでリンクされるようになった工業生産の通信労働、シンボルの分析と問題解決をインタラクティブに実行する労働、そして情動の生産と操作のための労働である。この第三の労働は身体的な側面にかかわるものであり、現代のバイオポリティクス的な生産において極度に重要な意味をそなえているという。

このあたりは概略的すぎる感じがあるが、著者はバイオポリティクス的な生産の可能性を認識しながら、集合的なバイオポリティクスの身体の新しい姿を明確にすることを目指す。この身体は逆説的であり、矛盾したものである。まずこの身体は、みずからを活気づける創発的で生産的な力を否定することではなく、これを認識することで構造となる。次にこの身体は特異性の複数性であり、関係を求める複数の身体を決定するものとして、言語になる(科学的な意味での言語であり、社会的な意味での言語である)。

この身体は生産であると同時に再生産であり、構造であると同時に超構造である。十全名意味での生命であり、本来の意味での政治だからだ。「わたしたちの研究は、集団的なバイオポリティクスの身体が提示する生産的で矛盾した決定のジャングルへと降りていく必要がある」(30)。これについては、ハート/ネグリがあげている二つの批判がわかりやすいだろう。

一つはこれを国際関係論の枠組みに閉じ込める理論である。国際的な秩序や新しい世界秩序の「乱流」についての理論(J.G.Ruggie)では、資本主義的な関係の矛盾した性格が無視される。国家間の国際的な力学の結果だけが検討され、国際関係の学問分野の内部で、乱流が規範的なものとされてしまう。この方法では社会的な闘争と階級闘争が隠蔽されるというのが著者の批判である。

もう一つは世界システムに対する批判で、システムのサイクルと危機をとくに重視するウォラースタインなどの理論では、世界と歴史を主観性なしで描き出してしまう。この理論では、生産的な生(ビオス)の機能を考察できないし、資本とはなんらかののようなものではなく、社会的な関係、対立的な関係があり、複数性の生産的な生によってこれが活気づけられといるという側面を無視してしまうという。

著者たちは、国際関係論や世界システム論のような現実を捨象した純粋の学問のレベルではなく、「経験の濃密な複雑さ」のうちで、分析を進めることを目的としているのである。