ハート/ネグリの『帝国』を読む

多国籍企業とコミュニケーション論


こうした分析において取り上げられるのは国連を中心とした超国家的な組織だけではない。IMF、世界銀行、GATTなどを含めた国際組織は、たしかに帝国の法的な組織となるものであるが、それが重要なのは世界秩序のバイオポリティクス的な生産の力学のうちで眺める限りである。著者は、これらの組織が現代の世界で正統性を確保しているのは、古い国際的な秩序において果たしていた機能のためでなく、帝国の秩序の象徴としての機能だと考える。この秩序の外部では、これらの組織は効果を発揮しないし、新しい帝国のマシンを運営する人々を教育し、帝国のエリートを「調教」する役割しか果たさないだろうという。

それよりも注目に値するのが、国家の境界を越えた巨大な法人であり、こうした多国籍企業は、バイオポリティクス的な世界を連結する基本的な組織として重要な役割を果たしている。資本は最初から地球全体へのまなざしをもっていたが、地球の領土をバイオポリティクス的に組織し始めたのは、20世紀の後半になってからのことである。

たとえばアリーギ『長き二〇世紀』のような著作では、一九世紀のヨーロッパの帝国主義から、二〇世紀のフォード的な生産方法にいたる資本主義の初期の発展段階で、さまざまな植民地システムと帝国主義システムが占めていた位置を、こうした法人が占めるようになったとして、連続的な見方をしている。著者はその正しさをある程度は認めながらも、新しい資本主義の現実によって、法人が占める位置が大きく変わっていることに注目する。

多国籍企業は、領土と住民の構造と分節を直接に規定するようになっているからである。こうした企業にあっては、国民国家というものは、商品、通貨、住民の流れを記録する「装置」にすぎない。こうした法人は、さまざまな市場を越えて直接に労働力を分配し、資源を機能的に割り当て、世界の生産分野を階層的に組織している。「投資を選択し、財および金融的な操作を指示する複合的な組織は、世界市場の新しい地理を決定しているのであり、現実に世界の新しいバイオポリティクス的な構造を作り出している」(32)のである。ここで著者たちがとくに注目するのは、金融市場である。「いかなるものも通貨から逃れるものはない」(32)からである。アジア危機も、このことをよく示していた。

こうした産業と金融の巨大パワーは、商品を生産するだけでなく、主観性そのもの、人間の身体と心を作り出す。人々の欲望は、ひとつの市場、ひとつの国家に限定されることなく、地球大の規模をもっている。アラブの子供たちもポケモンに熱狂しているように。この地球的なネットワークはぼくたちの目にとどかないところまで張り巡らされているといっても、決して誇張ではない。

その意味でインターネットを中心とする通信ネットワークのもつ力はおおきい。現在の世界に神経網のようにはりめぐらされた通信ネットワークは、新しい世界秩序の登場と「有機的な関係」があるという。「通信は、グローバリゼーションを表現するだけでなく、組織する」のだ(32)。

ぼくたちの想像力と欲望は、この通信ネットワークによって導かれ、作り出される。近代の権力論では、権力とは生産と社会的な関係の外部に超越的に存在すると考えられることがおおかったが、現代ではこの権力は内部にある。うちなる権力である。そして新しい秩序と権力の正統性は、外部から付与されるのではなく、内部から構築されるのである。

もちろんこの正統性の問題はとくにハーバーマスが提起した問いであるから、著者たちはハーバーマスの「コミュニケーション的理性」の概念を取り上げて、それがもはや時代遅れになっていることを指摘する。コミュニケーション的な生産と帝国の正統性の構築は同時に進行するのである。ハーバーマスのコミュニケーション的な理性の概念にあった超越的な要素、静的な要素は意味を失う。新しいマシンはオートポイエーシス的な機能を果たすのである。