ハート/ネグリの『帝国』を読む

道徳的な介入の逆説


 この正統性の新しい枠組みでは、正統な権力の行使が新しい形態になり、新たに分節されるようになる。この新しい権力が正統的なものであるためには、その力の行使が効率的なものであることを、みずからの権力の行使の場において示す必要がある。

 この新しい権力は、これまでの国際秩序とはまったくことなる形で行使される。その特徴は、権力の行使の領域に境界がないこと、行使される場所は単一化され、象徴化されること、抑圧的な機能が社会のバイオポリティクス的な構造のすべての側面に結び付いていることにある。著者はこうした特徴を「介入」という言葉で呼ぶ。

介入といっても、独立した法的な領域に現実に介入するわけではなく、生産とコミュニケーションの構造によって、統一のない世界で機能するにすぎない。すでに指摘された通貨と金融操作と、通信が正統性に及ぼす影響は、こうした介入の実例であり、どれも政治的な意味をそなえているのである。

こうした介入には、軍事的な介入、道徳的な介入、法的な介入などのさまざまな形態がありうる。著者は帝国の介入は、死を与える軍事的あるいは法的な介入よりも、道徳的な介入として機能することが多いことを指摘する。この道徳的な介入を実行しているのは、メディアや宗教組織だけでなく、非政府団体(NGO)である場合が多い。NGOは政府のコントロールの外にあるために、倫理的または道徳的な掟も基づいて行動する傾向があるからだ。

ここで考えられているNGOは、人権団体であるアムネスティ・インターナショナル、「世界の貧困と不正と戦う」オクファム、国境なき医師団などである。こうしたヒューマニズム的なNGOは、新しい秩序のもっとも強力な平和維持の武器となっていることを著者は指摘する(これは参加者の意思とは独立した評価である)。「これらのNGOは武器もなく、暴力も使わず、国境もなく、正義の戦いを実行している。中世のドミニコ会、近代の初頭のイエズス会のように、これらのグループは普遍的なニーズを確認し、人権を擁護しようとする」(36)。

これらのグループは、欠如を「悪」として、敵を「罪」として認識する。著者はこれがいかにキリスト教の悪の理論と類似しているかを指摘しながら、こうした人権グループの活動が帝国の道徳的な介入の「最前線」となっていると考えるのである。昔からの国際的な政治学者たちがNGOに魅惑されるのは、そのためだという。政治学者たちは、NGOのこうした道徳的な介入が、世界の秩序を予兆のように示すものであることに、目を向けることができない。

実はこうした道徳的な介入は、その後の軍事的な介入を準備するものとなることがおおい。こうした軍事的な介入は、国際的に認可された警察活動という形をとる。著者は、現在ではこうした軍事的な介入が、国連などの国際組織のイニシアティブで生まれる傾向が低下しつつあるとみている。アメリカ合衆国が一方的に決定し、同盟国に軍による包囲や帝国の(テロリスト)の抑圧を求める傾向がある。

介入において、とくに予防的な措置と抑圧の関係が明確に示されるのが民族的な紛争である。こうした紛争では、既定の国境に基づいた政治的な組織とその活動が攪乱され、新しいアイデンティティが生まれる。インドネシアのチモール問題のように、それまでの国軍が突然に機能を停止し、あるいは抑圧的な機能に転化する。帝国の内的な編成をゆるがす上で、この民族的な闘争は非常に効率的だということができるだろう。予防的な活動を通じて準備される抑圧の第二の実例として、ドラッグの取引に関与する事業グループ(マフィア)にたいするキャンペーンがある。これらの「正義の戦争」は、「道徳のポリス」を通じて支えられているのである。

この道徳的な介入を準備段階として実行される軍や警察の介入は、法的な介入を先取りするものである。国際的な裁判所は、こうした介入の「リード」に従うことを求められる。軍や警察が先取りして作り出す「正義の規則」に、国際的な裁判所も従わざるをえなくなってくる。帝国が完成した場合には、帝国の裁判所が引き受けるはずの正義の規則の構築は、今の段階では警察や軍が担当しているといわざるをえないのである。

この例外の状態は、現在では永続的なものとして現れる。これはカール・シュミットが言うとおりだろう。介入は、軍の行動であっても、つねに秩序を維持する警察の行動という形をとる。しかも同時のこの行動が秩序を内的に作り出す。ベンヤミンの語った暴力の二つの形が、もはや区別できないものとして登場するというわけだ。帝国の奇怪な暴力。


王の特権

主権のもつ王の特権がここで新たに再生されているようにみえる。著者は、これが議事的な超国家が形成されているという印象を与えることを認めるが、このように解釈したのでは現在の状況を正確に分析できないという。王の特権は帝国においてまったく新しい形をとるのである。

それはなぜか。主権の行使の重要な一部である軍事活動を考えてみよう。現在でもたしかに軍事的な展開は、国民国家が実行しているようにみえる。しかしそれは例外状況にあてはまるものとして、警察行動として実行されている。自国の外部で、警察として機能する国民国家の軍とはなにか−−実に奇妙な存在ではないか。

さらに主権の重要な一部を構成する課税と正義の実行も、国民国家の枠組みを外れたところで行われていると言わざるをえない。国民国家の「不正」を咎める行為を、他の国民国家が、そしてNGOが担当しているのは、日本の最近の事例からも明らかだろう。そして海外に進出した企業は、その国で税金を納め、親会社と子会社の間の不公正に取引は「脱税」として、厳しく追及されるのである。帝国において重要なのは、中心なのか、それとも周辺なのか、理解しにくくなってきた。権力はほとんどヴァーチャルなものにみえてくる。

しかしこのように権力がヴァーチャルな性質のものだとしても、この帝国の権力には合理性が存在している。著者はウェーバーの権力の三つの類型論を借りながら、新しい権力には次の三つの要素が予見できない形で混ざっていると考える。一)伝統的な権力に典型てきにみられる要素、二)バイオポリティクス的な権力にふさわしく作り直される官僚的な要素、三)カリスマによって定義された合理性。

この新しい権力の論理は、数学的なものというよりも機能的なものであり、帰納的または演繹的というよりも、リゾーム的で波動的なものとなるだろう。