フッサールのオルガン
(中山 元)

 月はつねに地球に同じ顔を向けているという。ぼくたちは地球にいる限り、月の裏側を眺めることはできないのである。これは人間の視覚の特徴そのものでもある。ぼくたちが一本の樹木を見る時には、その樹の表側しかみることができない。これは神のような鳥瞰的な視点をもたない人間の視覚に固有の制約である。

 しかし人間はこのような制約にもかかわらず、それを一つの立体的な事物として、裏側をもったものとして眺めることができる。大森荘蔵は「面体分岐」という概念で、これを表側にすぎないものとして見るか、すなわち、人間にとってみえる限りのものとして眺めるか、見えないはずの裏側を含む立体的なものとしてみるかの分岐が、認識論的な重要な違いをもたらしていることを指摘したことがある。このいかにも面妖な(笑)概念は、大森さんらしくて、ぼくは好きだ。

 前回は、人間が身体をもつことの意味を、世界の分節という視点から考えてみたが、今回は、人間がこのように立体的な把握をすることができるのは、人間に身体がそなわっていること、そしてこの身体が動くことで、実際にその樹木の裏側を認識する可能性がそなわっていることによるものであることを指摘したフッサールのキネステーゼという概念に注目したい。

 人間が知覚するものには、その位置によって認識される要素と、その内容によって認識される要素がある。樹木はある場所に、一つの種類の樹木として認識されるのであり、たとえば庭の隅にある桜の樹は、垣根の向こうのミモザの樹とは、その位置(これは位置与件と呼ばれる)と種類の違い(これはアスペクト与件と呼ばれる)によって識別されるのである。

 そして人間の視野においてさまざまな事物がこの二つの要素に基づいて認識されるためには、人間の側に特定の能力が必要であると考えられる。これは人間が実際に身体を動かして移動することによって、人間の視野に与えられる与件がつねに変化しながらも、ある不変性を維持することによって生まれると考えることができる。庭を歩くと、桜やミモザの樹は、つねに見え方を変えながらも、それが桜であることとミモザであることは変わらないのである。この可動性と不変性の関係が、人間の視覚の可能性の根底にある。

 すると人間がさまざまな事物を認識できるためには、人間の側に一つの運動性の要素がそなわっている必要があると考えることができる。フッサールはこれをキネステーゼと呼ぶのである。これは運動を示すギリシア語キネーシスと、感覚を示すギリシア語アイステーシスの合成語であり、運動としての知覚を示す用語である。
  (物体が現象として意識されるのは)運動感覚[キネステーゼ]としてて
  作動している身体性、あるいはここでは固有の活動性と習慣性において作
  動している自我とともにである。身体はまったく無比な仕方で、たえずま
  ったく直接的に知覚野のうちにある。しかもまさしくオルガンという言葉
  によって示される存在意味においてある(フッサール『ヨーロッパ諸学の
  危機と超越論的現象学』)

 事物が大森荘蔵のいうように、単に表象される面としてではなく、立体的な「有体性」として感受されるには、知覚する自我が身体とその運動性を働かせていることが条件なのであり、身体はこの有体性の知覚のための「器官(オルガン)」として機能するのである。
 フッサールはこの身体の重要性に着目しながら、このオルガンとしての身体性に基づいて、他我認識が発生すると考えている。ぼくは身体をもつものとして表象する自我であるが、この自我が表象する視野の中には、同じ身体をもつ他の存在者が認識される。もしもこの他の存在者の表象の世界に「感情移入」してみたとすると、ぼくはそこでは他の物体と同じ資格をもつ一つの身体として表象されるはずである。

 この身体の表象と認識の相互性という観点から、フッサールは他我問題を解決しようとする。しかし表象からはじめて他我の認識を演繹しようとする方法は、他者論としてはつねに固有のアポリアにつきまとわれる。まず第一に、表象する存在者としては、他者の身体はやはり一つの表象としてしか現れないのであり、それを自己と同じ身体として認識する動機を別の論拠から、演繹してくる必要があるからである。

 ぼくにとっては自分の身体だけが、みずから実感できる身体であり、他者の身体を自分の身体と同じ資格をもつものであると考えるべき動機がない。だからフッサールの演繹はつねに「要請」としてとどまる。この他我の問題については、他者の認識を、身体をもつ人間の成長における自我の形成の問題として考察するフロイトの方法の方が、このような動機を別に演繹する必要がないという点で、優れているだろう。

 第二に、ウィトゲンシュタインが示したように、他者の身体が感覚する事柄は、「感情移入」という方法では理解する術がない。他者の痛みはつねに間接的にしか感じることができないのであり、他者の喜びや悲しみも、せいぜい「類推」することしかできないものである。ぼくの独自性は他者とこうしたものを共有することがない点に存在しているのであり、方法論的な独我論の根拠は、この身体の感受性の単一性にある。これは主観の成立の根拠であり、「感情移入」の方法の原理的な否定である。

 フッサールからこの問題を引き継いだメルロ=ポンティは、『知覚の現象学』ではキネステーゼの概念を批判しながら、人間が世界を意識するのはこの身体によってであり、ぼくの意志と身体は、「魔術的な関係」を結ぶと考える。メルロ=ポンティは身体において世界が分節され、定位されると考えることによって、このキネステーゼの概念は無用になると考えるのである。

 この批判は、自我が他我を「演繹」する必要性をまったくみとめなかったメルロ=ポンティらしい手品のような解決策だが、この「魔術的な関係」は、フッサールの「生ける地平」という概念とそれほど遠いわけではない。メルロ=ポンティはフッサールとともに、そして『シンボル形式の哲学』のカッシラーとともに、人間がそもそも世界を認識できることの謎に素直に驚いているというべきだろう。