ハルが沈黙するとき
(中山 元)

 クラーク原作、キューブリック監督の『2001年』は、宇宙へのオデッ
セイとともに人間とコンピュータの「戦争」状態を描いた映画だった。も
ちろんコンピュータが意思をもって人間に叛乱を起こしたのではない。人
間の意図を受けつぎ、その真の目的を実行するために、コンピュータが宇
宙船の乗員を殺害しはじめ、やがて乗員がコンピュータを「武装解除」す
るという物語だった。武装解除されるコンピュータ・ハルは、それまでの
人間に対する支配力を失い、幼子のごとく「メリーさんの子山羊」を歌い
続ける。そしてやがて完全に沈黙する。

 人間はコンピュータとの戦争に勝ったかのようにみえるが、実は人間も
コンピュータも敗北する。人間はもはやコンピュータなしでは宇宙船を操
縦することはできないからだ。ところで今年2000年をめぐって発生した
2000年問題は、もっと別の形で人間がコンピュータに依存することから
生まれる問題をまざまざと示してくれた。2000年問題はどうやら無事に
クリアできたようだし、準備のできていなかった日本が、「うまくやった」
ようにみえる。

 元旦のフランスのラジオ放送では、「準備不足」の日本でなにごとも起
きていないことをなにやら不満げに伝えていた。アメリカでは、多額の経
費をかけて2000年対策をしたことに、無駄ではなかったかという意見が
だされているようだ。ビル・ゲイツがわざわざ「準備していなかったら、
とんでもないことになったに違いない」というコメントをだしているくら
いだ。

 しかしこの問題は、ぼくたちとコンピュータとのあいだに発生する問題
が、ハルとの「戦争」のようにドラマチックなものではないことを教えて
くれる。バグという虫は人間のごくわずかな不注意から、コンピュータの
プログラムのうちにかならずすみついているものらしい。今回ほど大規模
なものではないとしても、これがなくなることは、ほとんど理論的にあり
えない。これからも「2000年問題」は姿を変えて、繰り返し現れるだろ
う。

 それがどのようなものとなるかは、ぼくたちの想像を越える。今回はま
だコンピュータ利用の成熟途上の出来事だった。たとえばなかばジョーク
で、ロシアの原子炉は「安全だ」といわれたものだ。「だってコンピュー
タ制御していませんから」というわけだ(笑)。しかし2000年問題をめぐ
るさまざまな想定は、ぼくたちの生活のすみずみまで、コンピュータ制御
が活用されていること、これが狂い始めたら、たちまちのうちにぼくたち
の生活がストップしてしまうことを教えてくれた。

 送電設備のコンピュータが誤作動すれば、たちまちのうちに停電し、同
時に水道の供給もガスの供給も停止してしまう。意外だったのは、石油ス
トーブの点火まで、電気制御だったことだ。ああ、アラジンがなつかしい
なぁと思ったものだ(笑)。七輪が、昨年の年末にとぶように売れて、生
産が追いつかなかったというのもよく理解できる。これが二〇年後のこと
だったらと思うと、ぞっとする。

 だからぼくたちにとって深刻なのは、コンピュータとの戦争ではなく、
コンピュータの誤作動や機能不全だろう。いくさではなく、ストライキこ
そが、ぼくたちを脅かすのだ。これは第二次世界大戦以前には想像もつか
なかった事態である。

 コンピュータがストライキを起こせば、ぼくたちは一挙に戦前の時代に
連れ戻される。しかも戦前にはそなわっていた技術的な装備がみんな衰退
して状態で(まだマッチとライターはあるから、新石器時代みたいに木を
こすって火を起こす必要がないだけ、まだましだ(笑))。現代の社会は、
社会の内部にコンピュータという形で、新しいリスクをかかえているわけ
だ。

 フランスの都市学者で哲学者のヴィリリオは、すべての技術に特有のリ
スクがあると指摘している。新しい技術は新しいリスクをもたらす。自動
車がなければ交通事故はないし、飛行機がなければ墜落事故はない。「事
故は技術と科学の進歩の隠された顔である」(Viliio, 89)。

 そして現代のコンピュータ社会を代表するのが、2000年問題に代表さ
れるような「コンピュータ事故」である。この「事故」はコンピュータの
「攻撃」ではなく、コンピュータの便利さに頼りすぎた人間が、コンピュ
ータの沈黙によって、生活の能力を喪失するという形であらわれるだろう。
2000年問題はその「事故」の深刻さを、予感のようにして示してくれた
のである。

 この「事故」は、自動車や飛行機の事故のように「局地的」なものでは
ない。社会全体の運動をその根幹から停止させるという形をとるだろう。
だからヴィリリオのように、インターネットに代表されるコンピュータ技
術への過度の依存から発生する危険性に警鐘を鳴らすのは、十分に根拠が
あるのである。

 しかし現実として、ぼくたちの生活は、コンピュータと一体化してしま
っている。コンピュータはたんなる新しい技術ではなく、ぼくたちの社会
という身体の一部なのだ。自動車なしではもはやぼくたちの生活はいまの
ままではなくなるように、コンピュータなしでは、ぼくたちの社会はたち
ゆかない。

 この状態では、ぼくたちはドゥルーズが考えたような「機械」の一部と
して、コンピュータたちと共生関係にあると考えるほうがふさわしいだろ
う。ヴィリリオは、コンピュータや新しい技術が時間の速度を信じられな
いほどに早めることで、人間の生活のリアリティを崩壊させてしまうこと
を指摘する。しかし人間の生活のリアリティは、新たに登場する技術によ
って変化していく性質のものであるというべきだろう。

 グーテンベルクによって印刷された書物が登場する。するとやがて印刷
物が生活の不可欠の一部を構成する。ぼくたちにはもはや新聞も書物もな
い生活を想像することは、リアリティをもたなくなっている(『華氏四五
一度』という小説は、書物の不在が現実となる世界を描いていて、感動的
だった)。そしてこの書物のうちに、自分の一生をかけたりするような人々
も登場するのだ。

 いまのぼくたちには、コンピュータなしの生活は、書物なしの生活ほど
リアリティがないという性質のものではないだろう。しかしぼくたちは、
コンピュータへの依存度を減らす方向に進むという道は残されていない
ようだ。コンピュータがもたらしたものが、自動車などとはことなる次元
で、人々の欲望を作り出し、充足させるからである。このような可能性を
もったマシンは、ハルのように沈黙させることができない。

 たとえばぼくにとっては、インターネットがもたらした生活の新しい可
能性を捨て去ることは、とてもつらいことだし、自分の可能性の一部をむ
ざむざと捨ててしまうようなものだ。コンピュータは書物とは別の形で、
まだみぬ人々との交流の可能性を示してくれたからだ。だからコンピュー
タは、すくなくともぼくの生活においては、書物に近い不可欠なものにな
りつつある。

 2000年問題はかならず再発するだろうし、ヴィリリオが指摘するまで
もなく、世界の金融構造が「コンピュータ事故」によって崩壊する可能性
もある。この新しいリスクの性質について、ぼくたちまだうまく理解でき
ていないのだ。しかしだからといってぼくたちは「都市」や「共同体」の
堅固さに立ち返ることもできないし、それを拠り所とすることもできない
のだろう。ヴィリリオの警鐘は貴重なものだが、ぼくたちは社会の身体の
うちに組み込まれ、ぼくたちの眼の一部、手の一部となったこのコンピュ
ータたちといかにして共生していくかを模索すべきだろう。

参考
○Paul Virilio, Cybermonde,la politique du pire, Les editions Textuel, 1996
○Delueze/Gattari, L'Anti-Oedipe, 邦訳『アンチ・オイディプス』河出書房新社
○日本縦断!全都道府県のWWWサイトで報告されたトラブル発生状況
http://bizit.nikkeibp.co.jp/it/y2k/anchor/index.html