光と闇の考古学
(中山 元)

ことしは新しい二千年紀を迎えて、ヨーロッパではさかんに催し物が行われた。
この手のお祭り的なイベントは、ヨーロッパの方が長い伝統を培っているよう
だ。日本では2000年問題のためか、ほとんど盛り上がらず、自粛気味で少し
寂しかったなぁ。とくにひとの目をひいたのは、パリのエッフェル塔とシャン
ゼリゼのライトアップと花火だろうか。エッフェル塔はまるでロケットのよう
に、空に飛び上がるようだったという。

これとは対照的にイギリスでは、ロンドンのグリニッジの近くに、大きな二千
年ドームを建造して、ことし一年は新しい二千年紀を祝うらしい。ここは一八
七一年から一九七〇年代の初頭まで、ブリティッシュ・ガスの跡地だったとこ
ろで、エッフェル塔が横たわるほどの広さのドーム、ただしホットケーキに箸
がつき立ったような醜悪なドームを建造した。もっともエッフェル塔も、建造
当初は醜悪さでは劣らなかっただろうが(笑)。

フランスのソフトな光の演出に対して、イギリスは長持ちのするハードの建造
物で対抗するといったところだろうか。ただし年明けのごく短い時期こそ満員
だったが、今は閑古鳥(笑)が鳴いているらしい。ブレア政権が鳴り物入りで
建造したものだけに、政治問題化し始めているとか。

実はこのパリとロンドンの対抗関係は、ちょうど百年前の一九〇〇年を迎える
ときの対抗関係をそのまま逆転させたものだった。一九〇〇年にはフランスは、
万国博覧会のために建造したエッフェル塔で、モダンな(笑)建築を世界に誇
ったのだが、イギリスはこれに対抗するかのように、光の芸術を披露してみせ
た。

一九〇〇年を祝う企画として、ロンドンのハムステッドではクレイグという若
い演出家が、パーセルの『ディドーとアエネイス』を演出した。この演出では
真っ暗闇のなかでライトによって必要な背景と出演者だけを浮かび上がらせ
た。このオペラには有名な嵐の場面などもあるので、光を使うことで、きっと
印象的な演出ができたに違いない。

それまでのオペラは、どうしてもゴタゴタとしたかき割り的な舞台を作らざる
を得なかったし、そのためのコストもばかにならなかった。そしてこうした舞
台では、オペラをみるひとのまなざしは、どうしてもさまざまなパースペクテ
ィブのうちで分散してしまう傾向がある。立体的な絵を背景に、ひとびとが登
場するし、歌わないひとも自分の番がくるまで、立ったまま待っていなければ
ならない。

これに対して光のオペラは、みるべきものだけにスポットライトをあてること
で、ひとびとのまなざしを操作し、集中させることができる。不要なもののは
すべて闇の中に隠し、歌う人物だけに注目が集まる。ミレニアムのパリのエッ
フェル塔のイリュミネーションは、このロンドンの光のオペラの戦略を受け継
いだかのようだ。

この光と建造物の二つの拮抗関係は、いくつか考えさせられるものを含んでい
る。あとで触れるように、その背景には、光と闇の弁証法とでもいうものがあ
るからであり、これはパリとロンドンの対立である以上に、近代という時代そ
のものに含まれる対立だからだ。そのことを顕著に示すのは、エッフェル塔が
立てられるにいたったコンペでは、エッフェル塔の代案として、「太陽の塔」
という企画があったことである。

一八八九年に、パリの万国博覧会のための記念碑のコンペで最後に残ったのが、
架橋技師のエッフェルの設計と、電気技師のセビロの案だった。橋と電気とい
うハードとソフトの対立では結局はハードの設計が選ばれるが、セビロのアイ
デアはユニークなものだった。三六〇メートルの「太陽の塔」から、パリ市内
をアーク灯で真昼のように照明しようとするものだったのである。

もともと街路の照明は、警察の担当だった。路上の光は公共的な性格をおびて
いたのである。そのことを象徴的に示すのが、一七世紀半ばのヨーロッパの諸
国でほとんど同時に街路の照明が採用されていることである。ベックマンの
『西洋事物起源』によると、パリで街路照明が本格的に始まるのが一六六七年
であり、一六七一年からは、十月から三月までは月夜でも毎晩ランタンで街路
が照明されるようになる。

一六六八年にはロンドンの市民は街路を照明するために、全住民は決まった時
間にランタンを吊すことが命じられた。アムステルダムでも一六六九年にはそ
れまでのタイマツによる篝火が禁止され、ランタンで照明されるようになって
いた。ハーグでは一六七八年に、すべての街路にランプが装備された。コペン
ハーゲンでは、一六八一年に初めてランプの照明が採用された。一六七九年に
はベルリンの住民は、三軒に一軒が順番にランタンをともすように命じられて
いる。

このように、一六六〇年代の後半に、ほとんど同時にヨーロッパの街々に照明
が採用されたわけだ。ここで注目されるのは、照明が権力による治安維持の手
段であると同時に、パリの例のように、夜間の犯罪を防ぐために市民が自発的
に寄付を申し出るという例もあることだ。照明は王たちが臣民を支配するため
に必要とするものであると同時に、ひとびとの生活のために必要だったのだ。

だから照明が全ヨーロッパ的に広がったのは、それが権力の側からの支配の試
みであると同時に、市民の側からの必要性に応じたものでもあったということ
である。照明がかなりの都市で市民のイニシアティブに委ねられていることは、
そのことを顕著に示すことだろう。

ヨーロッパの街路があかあかと照明されるようになったことは、この時代の社
会の感性がどこか変化してきたことを示すものに違いない。国王だけでなく、
都市の住民がそれまでのような闇の中での犯罪の横行を許さないという姿勢
を示し始めた。近代の啓蒙の時代が近付いているのである。

しかし闇の中にあかりがともされることで、闇がいっそう深くなるように、啓
蒙の光は、それまでは闇と考えられていなかったものを、闇の暗がりへと放逐
することになる。街路が照らされ始めるのとほとんど同じ時期に、汎ヨーロッ
パ的に発生した別の出来事があった。

 それはいわゆる「大いなる閉じ込め」である。フーコーが『狂気の歴史』で
まざまざと描いたように、一七世紀半ばにヨーロッパの全体で、それまで街路
を自由に横行していた狂者たち、乞食、リベルタン、放蕩者、異端者などがい
っせいに収容施設にとじこめられた。

一六五六年、パリに一般施薬院が建設されたことがそれを象徴する。この施設が突然の
ように姿を消した癩患者のための施設の内部に設置されたことは有名だが、パリの市民
の百分の一にあたる六千の市民が、ある日、ここに監禁されたのである。これは国王の
命令によるものであったが、市民の感受性になにか変化が生じていない限り、このよう
なことは考えにくいだろう。

フーコーはこう述べている。「ごく隠密に、おそらく長い時間をかけて、ヨーロッパ文化
に共通の社会的な感性が形成されたに違いない。そしてこの感性が一七世紀の後半に、
突如として表面に浮かび上がってきた」(*1)。この社会の感性が、この監禁施設に収容
すべきひとびとのカテゴリーを指定し、このカテゴリーにあてはまるひとびとを実際に
監禁したわけだ。

これが、照明の場合と同じように、権力の外的な強制だけではなく、市民の側からのイ
ニシアティブがあったことは、この種の施設が市民側の主導ですでに建設されていたこ
とからも明らかだろう。一六七六年にフランスのすべての都市に一般施薬院を建設する
ようにという命令がだされたが、王が命令する前から、リヨンにはすでに一六一二年か
ら、トゥールには、一六五六年からこの種の施設が存在していたのである。

そしてバーゼルには一六六七年に、ブレスラウには一六六八年に、フランクフルトには
一六六四年に、ケーニヒスベルクには一六九一年に、この種の監禁施設が創設されてい
る。イギリスではもっと早い時期から登場していたが、この時期にこうした施設が監禁
だけをするのではなく、貧民の労役場として経済的に運営されるようになっていたこと
が注目される。一六七〇年にはチャールズに世の命令で労役場の地位が定められた、一
六九七年にはブリストルで最初の労役場が設置され、法人組織として運営された。

これらの施設は「施薬院」という名前にはかかわらず、狂者だけを収容するものではな
く、労働の規律に反するすべてのひとびとが閉じ込められていたことはよく知られてい
る。一八世紀末にヨーロッパの各地の監獄を回って巡察したハワードは、「監獄によって
は精神薄弱者や精神病患者をも収監している」ことを嘆いているほどだ(*2)。

デカルトが学問を都市の建築にたとえた『方法序説』を出版したのは一六三七年のこと
だが、この時期から後の光の時代、啓蒙の時代を生み出すような社会的な感性が構築さ
れていたと考えることができるだろう。この感性は一八世紀には、ポリスという学問と
なって結実する。

このポリスの学は、社会のすべての側面を取り上げながら、ひとびとの生活水準を向上
させるとともに、ひとびとを監視する学であった。街路をあかあかと照らしだす社会の
感性が、同時に街路にいることが望ましくないひとびとを、闇の中に監禁したのである。
そしてこの社会的な感性は、ぼくたちの時代にもまだ失われたわけではないだろう。

さて、最初のパリとロンドンの拮抗関係に関連して、ついでに考えておきたいのは、こ
の社会的な感性が、イギリスとフランスで互いに呼応しあうような形で象徴的に示され
たことだ。すでに指摘したように、街路の照明は国王の威信を示すものであると同時に、
市民のよりよき生活のために街路を照らしだしていた。フランス革命の際に、最初に襲
撃の対象となったのは、「王の眼」のランタンだったらしい。

革命群衆は、ランタンを破壊し、「反革命の徒」をランタンに吊した。狭い街路の中の叛
徒たちは闇の中で自由を満喫し、バリケードを構築し、敷石をはがして軍隊に対抗した。
国王の軍隊は、この叛徒たちに手も足もでなかったという。この大衆叛乱の怖さが身に
しみた権力は、ナポレオン三世のもとでパリ大改造を行う。

オスマンは叛乱の拠点だった旧市街を取り壊し、軍を輸送できる大きな街路を放射状に
配置した。そしてランタンに代わって、街路にはガス燈が配置される。サールマンが指
摘するように、パリ改造が群衆叛乱に対処することを重要な目的としていたことは明ら
かだろう(*3)。

オスマンの改革の直後のパリ・コミューンでは、叛乱群衆は広い街路を使って迅速に展
開される軍に追いまくられ、ガス燈にあかあかと照らされながら狙い撃ちされた。そし
て「太陽の塔」はまだパリ・コミューンの思い出が生々しいころに設計されたのである。
パリの市街を昼のようにあかあかと照らしだし、すべてのものを見通す大きな眼が地上
につり下げられると想像してもいいだろう。まさにパノプティコンの夢である。

これに対して、イギリスではフランス革命に対処するためには、都市改造ではなく、ひ
とびとの心の改造が進められた。ここでは「権力の眼」は地上にではなく、ひとびとの
心の中に作り出された。一九世紀のはじめに盛んになった「福音主義」は、ひとびとに
生き方を変えることを求めた。「神は眼を見開き、耳をそばだてている。このすべてを見
る眼とすべてを聞く耳を、心の中の良心にする」(*4)ことを求めたのである。

その意味では、ベンサムのパノプティコンが構想されたのがイギリスであり、しかもイ
ギリス本土では彼の構想が採用されず、この時代のヨーロッパ大陸で好まれたことは象
徴的である。心の中に神の目を開くことが求められているときに、ハードな監獄は好ま
れず、当時のパリでぎゃくに、ベンサム的な夢想が暖められたのだろう。

ただしパリを真上から照らし出す「太陽の塔」の構想と、ベンサムのパノプティコンの
構想とはちょうど裏返しになっていることに注目しよう。物理的な照明は、外から人々
のふるまいを照らし出す。これに対してベンサムの監獄の中央の塔には、物理的な監視
の目は不要である。監獄に収容された人々が、そこに「目」が存在すると考えるだけで、
人々が「ただしく」ふるまうようにするには十分なのである。

太陽の塔に代表される照明は、かつての王のランタンのように、人々を監視する。しか
しこの照明は人々が自らの生活のために作り出したものでもある。この夜間も照明され
る町は、やがてボードレールがふらつくフラヌールの町、ベンヤミンが描き出したパサ
ージュの世界を作り出す。「パサージュはガス照明が最初に誕生したところである」(*5)。

同時に、外の公共の光の世界を逃れて、「個」の私秘的な世界が形成される。「わたし」
だけの照明が登場するのである。プルースト『失われた時を求めて』では、読書をする
パーソナルなあかりが冒頭に登場する。このろうそくはプルーストの創作を象徴するあ
かりでもあるが、照明が公共的なものとなるとともに、自分だけのあかりが特別な意味
を持ち始めるのである。

プルーストの頃のブルジョワ住宅は、外部の光を遮断する厚いカーテンを窓にかける。
この頃のフランスの家屋の暗さは、意図的に作られたものである。そしてその内部を、
外部とは異なる自分たちだけの光であかあかと照らしだす。この光は、たとえばフェル
メールの光とどれほど違うことだろう。フェルメールの絵では、外部のあかるい光が家
のなかに幸せそうにさしこんでいる。

これに対してプルーストのランプの人工の光は、個人の内面の世界を内側から照らし出
すかのようである。「大いなる閉じ込め」は、うろんな人々を監獄の中に監禁する。しか
し監獄はたんなる監禁の場ではなく、社会の全体を組織するパノプティコンの空間のモ
デルとなる。学校、病院、兵舎において、監獄のモデルが再現され、そこから近代社会
にふさわしい主体となる人々が誕生してくる。心のうちに神の目、みずから正しく行動
する倫理を抱えた主体である。

太陽の塔の光と、それを避けるような室内の闇、そして自分だけの小さなあかりと内面
的な世界。監獄の闇とそれを内側から照らしだす神のまなざし。光のうちの闇、そして
闇のうちの光。近代的な主体は、光と闇の対立、公共の明るい世界と私秘的な闇の対立
の弁証法的なドラマツルギーのうちに誕生してくるかのようである。

(*1)Michel Foucault, L'histoire de la folie, Gallimard, P.66 『狂気の歴史』新潮

(*2)ハワード『一八世紀ヨーロッパ監獄事情』岩波文庫
(*3)H.サールマン『パリ大改造』井上書院
(*4)M.Perrout編『私生活の歴史』4巻、Seuil
(*5)ベンヤミン「パリ−一九世紀の首都」『ベンヤミン・コレクション1』筑摩書房


参考:
○Happy Millennium from all at the dome
(http://www.mx2000.co.uk/static/flash/index.htm)
○W.シヴェルブシュ『闇をひらく光 : 19世紀における照明の歴史』法政大学
出版局
○W.シヴェルブシュ『光と影のドラマトゥルギー : 20世紀における電気照明
の登場』法政大学出版局
○ヨハン・ベックマン『西洋事物起源 一』、岩波文庫