生を与える権力
−−フーコー論二四章
(中山 元)

第一節 権力モデルの転換と人間科学
 フーコーが『監視と処罰』で展開したのは、近代の規律社会の歴史と構造についての議論であったが、ここにおいて社会と権力のモデルの転換がはっきりと示されている。『言葉と物』のヴェラスケスの絵においては、が君臨していて、王の視線がこの絵自体を構成していた。これは自然と人間に対する神のまなざしであり、神は人間の外部から、人間を見守っていた。そしてこの神の意志に従うことにおいて、人間の道徳性は守られたのであった。

 しかし市民革命以降の時代にあっては、神の死と王の死によってこの神のまなざしは消滅する。あるいは神のまなざしが主体としての人間の可能性自体に織り込まれ、人間はこのを魂のうちに抱くことによって、道徳的な主体、行動する主体、服従する主体となるのである。

 パノプティコンの監視塔が、人間の意識の内部に不可視の塔として形成されることにおいて、主体そのものが可能となるのである。フーコーの権力論はなんどか転換を示すが、今回のは転換はフーコーの思想においてとくに重要な位置を占めるといえるだろう。権力はもはや外部から監視し、支配し、統治するだけではなく、主体の内部に存在するミクロな権力となる。人々はこのミクロの権力に従うことにおいて、主体となり、他者との関係を形成するようになる。

 フーコーは、この権力モデルの転換は、近代以降の社会そのものの性格の転換に基づくものであると考えている。古典主義時代の権力と社会のモデルの考察から、現代の「福祉社会」への考察へと、フーコーの視点が移行するとともに、権力のモデルも変える必要があったというわけである。

 社会はもはや王のような権力者との関係において組織されたものというよりは、一つの身体を(しかも王の身体ではなく、社会そのものの身体を)持っていることを自覚する存在として理解すべきだということである。それは社会契約の理論が、社会有機体論的な生ける身体の理論に転換したことを意味している。

 近代の社会は、外部から支配される社会であるよりも、自分の身体を持ち、病に悩むような一つの有機的な存在とみなされるようになる。当時、パスツールが微生物の存在による生命の誕生の秘密を解明したが、近代の社会はこの生命の比喩によって自らを考えるようになる。

 生命とは、内部に死を抱えた存在であり、体外と体内におけるさまざまな病原菌に晒されながら、一つの有機体としての機能を果たしていく存在である。こうした有機体としての身体を持つ社会は、その内部に社会の組織方法を所有しなければならない。フーコーはその社会に内在する権力を、ビオ・プーヴォワール(生の権力)と呼ぶ。

 アンシャン・レジームにおいては、王は「死を与える権力」であったが、自らの身体を意識するようになったフランス革命以降の市民社会は、「生を与える権力」となる。社会は生物体のように存続することを自己目的とするものであり、そのためには社会の構成員に死を与えることよりも、社会の構成員をよりよく生かすことの方が重要な課題となる。社会はその構成要素を失うことによって、自らの生命の一部を喪失することになるからである。

 ここでフーコーが重視しているのは、権力の理論の展開が、これまでフーコーにとって重要なテーマであった人間科学の誕生と関連していることである。人間の魂と精神を対象とする学問が誕生したのは、この時期のことであり、『言葉と物』で批判された人間科学は、こうした権力理論の展開と分かちがたく結びついていたのである。

 心理学、精神病理学、精神分析、性の理論などは、その一環にすぎず、法学、人間学、社会学、文化人類学、そして哲学そのものも、こうした社会と権力のモデルの転換と切り離すことができないはずである。その意味では、フーコーが『言葉と物』で特権的な位置を与えた精神分析と文化人類学は、こうした転換の一つの兆候にすぎないともいえる。

 フーコーがここで切り開いた問題構成は、それまでの人間科学批判よりも重要なものであり、この問題構成はその後、さまざまな効果を発揮した。ある書物は、一つの発見がその後の科学に重要な影響を発揮した例と比較しながら、この効果を「フーコー効果」と呼んでいる。フーコーのこの視点は、その後さまざまな分野で生かされるようになったのである。

第二節 精神病理学の誕生
 フーコーは『監視と処罰』において犯罪と刑法の歴史を分析しながら、コレージュ・ド・フランスで共同作業としての一九世紀の文献を分析していたが、その副産物として、ある非常の興味深い犯罪者の記録を発見した。これがピエール・リヴィエールの記録である。『監視と処罰』では、ピエール・リヴィエールはラスネールの『回想録』に関連して脚注で触れられているにすぎないが、この犯罪者が残した記録は、フーコーにとっては精神病理学の誕生の秘密そのものを明らかにするものであった。

 ピエール・リヴィエールは、一八三五年六月三日に、三重の尊属殺人を犯した。二〇歳の農夫だったピエールは、家庭内で父親が虐待されていると考え、父親にかわって復讐するために、母親、姉、弟を殺戮し、その後で野山を放浪した後に逮捕された。事態を複雑にしたのは、ピエール・リヴィエールが逮捕された後に監獄において、『わたしことピエール・リヴィエールは、母と姉と弟を殺害し…』に始まる覚書を作成し、自分の犯罪の理由、その後の放浪の経緯、自分の心情などをつぶさに語っていることである。

 「このテクストの美しさに、彼が正気である証拠を(すなわち死刑を宣告する証拠を)見いだす人も、狂気のしるしを(すなわち彼を終身監禁する理由を)見いだす人もいるだろう」とフーコーは語っている。この書物の発見は、フーコーが後に語る「汚辱にまみれた人々」が自ら残した記録への情熱のひきがねとなるものだった。

 犯罪者がみずからの犯罪について語るというこの覚書の存在によって、ピエール・リヴィエールは正気で犯罪を犯したのであり、死刑を執行すべきであるのか、それとも狂者であり、刑を緩和して、精神病院に収容するかという問題が裁判の焦点となった。そして 『ピエール・リヴィエール』に詳しく描かれているように、これは当時誕生期にあった精神病理学が注目を集める場になったのである。

 精神病理学にとっては、この裁判は精神医学の権力を法廷の場で承認させるという「晴れの舞台」の役割を果たしたのである。問題は、ピエール・リヴィエールが狂気であるかどうか、死刑を宣告すべきかどうかという次元にととまらず、精神医学が裁判所において被告の有責性を判定するための最終的な審級となるかどうかという問題であり、これは法学の根本にかかわる問題であったのである。ここではこの問題を(1) 理性の狂気と精神医学、(2) 犯罪者の存在論、(3) 犯罪人類学と刑法理論の転換という筋道で考察したい(今回は最初の二つの項目だけを取り上げる)。

第三節 理性の狂気と精神医学
 フーコーは、ベンサムのパノプティコンのモデルを検討しながら、人々を内側から見守る神の眼のような道徳的な意識を形成することが、近代的な主体の形成にとって不可欠なものであることを指摘した。フランス革命とともに人間が理性によって自己の行動を律する光の時代が到来するはずであった。精神の内部に道徳的な意識という光源を置くこの魂の透明性のモデルは、しかし最初から大きな狂いを示していた。

 ナポレオン戦争後のフランスやドイツでは、奇妙な犯罪が続発し始めた。それまで狂気の兆しのまったくみられない普通の人々が、突然のように狂気に駆られて、隣人の子供や幼児を殺戮し始めたのである。理性を持っているはずの人間が、魂の内部にひとつの非理性、狂気を抱え込んでいるとしか思えない犯罪である。

 たとえば一八一七年、飢饉のおそれのある寒い冬のこと、アルザスでは農婦が夫の留守に幼い娘を殺害し、脚を切り、取り、スープに煮込んだ。一八二七年のパリでは、召使のアンリエット・コルニエが雇主を訪れ、しばらく子供と二人きりにしておいてほしいと頼む。しばらくして雇主が子供を連れにゆくと、コルニエは子供の首を切り取り、窓から外に放り投げていた。

 ウィーンではカテリーヌ・ジーグラーが、自分の生んだ子供を理由もなく殺害している。裁判ではジーグラーは、抵抗できない力に衝き動かされたと語っている。無罪になって釈放された十カ月後に、ジーグラーは出産し、生まれた赤子をすぐに殺害した。この事件の公判で被告は、殺すために子供を生んだと告白している。一八三五年に告発されたアントワーヌ・レジェ事件では、人々の付き合いを避けて森の中で暮らしていたレジェが、少女を襲ってナイフで心臓を切り裂き、血を啜っている。

 これらの事件に共通しているのは、犯罪者たちが日常生活では理性的に振る舞っていて、しかも殺害にあたっては綿密な計画を立てていることである。単なる「気の迷い」や「一時的な錯乱」で殺害したのではなく、殺害することを目的とし、そのために合理的に振る舞っているのである。合理性が理性のしるしだとすると、これらの犯罪者たちは犯罪の前でも後でも理性を備えていることになるが、裁判官が刑を宣告するためには、動機が欠けているのである。

『ピエール・リヴィエールの犯罪』によると、コルニエの起訴状では被告は「その大罪を計画し、準備し、そして遂行するにあたって、平静さ、弁別力、沈着さを失うことはなかった」のであるが、「入念に予審が行われたにもかかわらず、被告を行動に駆り立てるような動機が、法的な意味において見いだされなかったばかりか、動機らしいものすらまったく見いださせなかった」とのべている。

 これらの事件が示していることは、人間は必ずしも自己のうちの理性に服しているわけではないことであり、自己のうちに奇妙な他者を抱え込んだ存在であるということであった。フロイトは人間が「自己の主人ではない」ことに無意識の証拠をみたのであるが、理性の背後には「当人の知らない心的なプロセス」が働いているとしか考えようがなくなったのである。

 近代の人間が王と神を殺戮して、理性によって自己と自然を支配できると信じ始めた途端に、自己のうちに途方もない他者を発見することになった。これは啓蒙によって自己を理性で完全に制御できると信じた近代的な人間を襲った悲劇であった。

 こうした一連の事件をもっとも劇的な形で示しているのが、ピエール・リヴィエールの犯罪である。ピエール・リヴィエールの語る動機は、「虐げられた父親の復讐」であるが、この動機は裁判官や陪審をまったく納得させない。フーコーが指摘しているように裁判においては、真理の確認が刑の宣告の要件とされていたため、裁判官は事件の真理の重要な一部を形成する犯行の動機が欠如している状態では、被告に刑を宣告することができないと考えざるをえない。

 このため被告は精神異常であるのではないかという疑いが発生し、さまざまな精神科医が証人として法廷に召喚された。この書物の「医師と裁判官」という章によると、これらの医者は次の三種類に分類することができる。精神医学と犯罪にかかわる三つの観点を代表する医者たちが、この裁判で互いに競いあうことになったのである。

 最初の観点は伝統的な医学の観点であり、新たに登場した精神科学的な知識は「皆無」である。この視点からみるとリヴィエールには狂気に特有の「兆候学」が存在しないため、通常の方法で被告を裁くべきだとされる。ブシャールという医者は、脳に作用してその機能を狂わせる内的または外的に器質的な病因を探したが、なにも発見することができず、リヴィエールの犯罪を父親の不幸、孤独な生活によるメランコリー、一時的な興奮などが重なった「不運」として解釈した。そしてこの観点からは、リヴィエールは有罪であり、死刑を宣告されるべきであった。

 第二の観点は、狂気に特有の兆候学を適用しようとするものであるが、犯罪の全体を精神医学の観点から把握することができないでいるものである。「一般医」ヴァステルは弁護側の証人として召喚されたが、精神医学の方法を採用するために、エスキロールたちが発展させたピネルの理論に依拠していた。

 しかしヴァステルは、モノマニーというエスキロールの概念を適用しようとしながら、リヴィエールはモノマニーではなく、精神薄弱であることを証明しようとしたために、方法的にな一貫性に欠けていた。これは、精神医学がまだ自分の方法に自覚的になっていない状態を代表するものと考えられる。

 第三の観点は、当時誕生していた精神医学の自覚的な方法を適用しようとするものであり、ピネルの弟子であり、当時の新しい精神医学の代表であったエスキロール、王立アカデミーの会員であったマルク、ピネルの後任としてサルペトリエール病院の主任医師となっていたパリゼ、法医学の権威であるオルフィラなどがこの陣営に加わっていた。

 この陣営は、この事件は「精神科学の将来」を左右する事件であると判断し、総力をかけて裁判における精神医学の地位を確立することに努力していた。ここで賭けられていたのは、単に精神医学が法廷で被告の精神状態を鑑定する上での権威を認められるかどうかではなく、社会にとって危険な個人を予防的に拘束し、排除する強大な権力を精神医学に認めるかどうかという重要な問題なのである。

 最終的には、陪審はリヴィエールに情状酌量を認めず、リヴィエールは王の特赦によって減刑を認められただけであり、リヴィエール自身は獄中で死亡する。しかしこの年にすでに問題は解決に向かい始めていた。精神医学の権威たちの協力のもとに、一八三八年の法律が準備され、ここにおいて医学と刑法の関係が決定的に修正される。

 今日にいたるまで有効なこの方式のもとでは、精神異常と認められた者を「特別施設」に収容するための制度が確立され、刑法による投獄とおなじような意味をもつ「効果的で強制的で迅速な監禁の可能性」が確立された。そして新しい強制入院方式には、これまでにない利点があった。

 一八三八年以前の法律では、強制監禁するためには、禁治産の判決が必要であったが、これからは、医師が鑑定し、県知事が認可し、裁判で調査されて必要と判断された場合は、「潜在的に」危険な状態の者を予防拘禁できるようになったのである。このようにして、反社会的な人間が進むべき道は二つしか残されなくなった。ギロチンへの道と、精神病院への道である。

第三節 犯罪者の存在論
 このようにして、危険の個人を社会から排除するための方途が、精神医学の分野から切り開かれた。これはある意味ではアンシャン・レジームにおける国王の「封印状」による監禁とおなじような機能を果たすものであるが、同時に犯罪者の行為ではなく、犯罪者の人間的な存在そのものを裁くという新しい方向に進むものであった。

 犯罪を行為ではなく、犯罪者の存在論的な面から裁くというこの新しい方向性は、精神医学における精神異常の概念そのものに含まれていたものであった。フーコーはこれを「犯罪の危険性の精神病理学化」と呼んでいるが、これはこの章の最初で触れた一八三〇年から一八三五年の「動機なき犯罪」を契機として進められたものである。

 リヴィエールの犯罪に代表されるこうした犯罪は、刑法にとって、それまでにない新しい問題を提起するものであった。一八三二年の刑法改正までのフランスの刑法では、錯乱または狂気の兆候がはっきりと存在していれば、法律の適用は行われなかった。犯罪自体が消滅したのである。そしてそれ以外の場合には、狂気は刑の宣告においては考慮に入れられないはずだった。

 しかし一八三二年の刑法改正によって情状酌量が認められるようになり、精神異常者には減刑が可能となった。しかし問題なのは、これらの新しい犯罪においては、狂気の兆候がまったく存在していないことにある。しかもこうした「狂気の零度」において犯された犯罪は、家庭や社会のコミュニティの内部における残虐な殺人であり、これまでの犯罪とはいささか性質を異にする。

 これは社会に対する犯罪というよりも、人間の自然な本性に反する犯罪のようにみえたのである。このような異例な犯罪に対処しようとしたのが、新しい精神病理学であった。新しい精神病理学が提示したのは、本人が意識せず、しかも理性を越えた場所に存在しているの存在である。

 この方向を最初に示唆したのは、フランスの精神医学の創設者とみなされているピネルであったようである。ピネルはビセートルでの治療の経験から「理解力の障害を示さず、あたかも感情的な能力だけが損なわれているかのように、一種の狂躁の本能に支配されている患者」を「錯乱なき狂気」と呼んでいた。そしてピネルは狂気を躁病、鬱病、痴呆、白痴に分類した。

 これを本格的な精神病理学的な概念にしたのが、エスキロールである。エスキロールは鬱病をさらに、リペマニー(メランコリー)とモノマニーに分類した。ここで重要なのがこのモノマニーの概念である。このモノマニーとは、一つまたはごく少数の考え方における部分的な錯乱であり、脳のごく一部だけに障害が発生しているのである。

 「これらの患者は、誤った原理から出発している。その原理から導き出される諸論理に素直に従っている。…この部分的妄想を離れれば、皆とおなじように感じ、思考し、行動するのである」(*1)。この知的なモノマニーという概念によらなければ、これらの一連の動機なき殺人は理解できないと精神病理学は主張するのである。同時にこの概念によって、「ある種の犯罪は、それが存在したというだけで、狂気を証明することになる」。

 この「殺人モノニマー」という概念によって精神病理学は、法廷の場に介入し、裁判の場における自己の権力を確立しようとした。フーコーは一九世紀初頭に精神病理学がこれほど重要な役割を果たしたことについて、単なる精神病理学の権力への意志だけが原因であったとは考えず、その背景に社会全体の感受性の変化をみている。社会の権力のモデルが、殺す権力から生かす権力へと変動するとともに、精神病理学は社会の身体を衛生的な状態に維持するための重要な役割を果たすようになったと考えられるのである。

   一八世紀において、人口統計学的な変化、都市構造の発展、工業労働力の問題の発
  展のため、生物学的および医学的な観点から、「住民」の問題が発生した。その存在
  条件、住居、栄養、住民の誕生率と死亡率、病理現象(疫病、流行病、幼児の死亡率)
  が問題となった。社会の「身体」という用語がもはや(『レヴァイサン』にみられる
  ような)単なる法的・政治的な比喩ではなくなり、生物学的な現実として、医学の介
  入の場となったのである。かくて医者は社会の身体の技術者となる必要があり、医学
  は公衆の衛生の学となる必要があったのである」(*2)

 この殺人モノマニーの概念が枢要な役割を果たしたのは、このマニーに襲われた人物が、社会と人間の自然的な本性を侵害する犯罪を犯すからであり、しかもこの狂気の存在は、犯罪によってしか証明できないからである。犯罪が狂気の存在を教えるのであれば、犯罪が起こるまではこうした狂気の存在を知ることができないということになり、犯罪を予見することができないことになる。

 すなわちこうした狂気を判定できるのは、専門の精神病理学者だけであるということになり、精神の医学の専門家は潜在的な犯罪者を社会から排除する役割を果たすべきであるということになる。一八三八年からフランス刑法において、精神科医が診断をくだせば、精神異常者の予防拘禁ができるようになったが、それはこのモノマニーの概念に依拠するものだった。

 しかしここで問題となるのは、司法が自分の権力をなぜこれほど容易に手放してしまったのかということである。フーコーはその理由について、刑法の改革という「上から」の次元ではなく、刑罰のメカニズムとその適用の現場から、精神医学的な審級の導入を求める意見が高まったことにあると考えている(*3)。動機なき犯罪に直面した判事は、刑を宣告すること自体に戸惑わざるを得なかったのである。

 フーコーはこの論文の最初で、興味深い対話(独語)を紹介している。判事が五件の暴行と六件の暴行未遂を犯した被告に尋ねている。
  「あなたは自分のやったことについて考えてみましたか」
  −沈黙
  「二二歳のあなたはどうしてこんな暴行に走ったのですか。あなたは自分のしたこと
  を分析する必要があるのですよ。自分のしたことを理解できる鍵を持っているのはあ
  なたですよ。弁論してごらんなさい」
  −沈黙
  「どうしてこれからも犯罪を繰り返すのですか」
  −沈黙
  たまりかねたように一人の陪審員が叫ぶ。「頼むから、弁明してくれ」(*4)

 アンリエット・コルニエのように、犯行の際に完全に理性的であったことを認め、しかも自分の犯行についてまったく説明することができず、自分の犯行を隠そうともしない女性の被告を目前にして、判事はどうすればよいのだろうか。コルニエの裁判では、幼女を嫉妬から殺害したのではないことが確認されていたが、裁判官は理解できる動機があればほっとすることであろうが、このように自主的に、意識的に、合理的な犯罪を犯した人物、すなわち伝統的な刑法の規定で有罪とするために必要な要件をすべてそなえている人物が、犯行を行ういかなる動機も、いかなる理由も、いかなる邪悪な性向も示さないとすると、こうした被告をどのように裁けばよいのだろうか……フーコーは裁判官のこの困惑と絶望が、精神病理学が法廷に進出して、裁判における重要な審級の一つとなった背景にあると考えている。

*1 ダルモン『医師と殺人者』邦訳p.146)
*2 M.Foucault, L'evolution de la notion d'<<individu dangereux>> dans la pshyciatrie legale du XIXe siecle, Dits et Ecrits-3:450
*3 Ibid. p.452
*4 Ibid. p.443

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 なおこのフーコー論は、中山 元『フーコー入門』(ちくま新書、一九九六年六月刊行)の土台となった原稿の一部で、全体で四〇章程度の長いものとなる予定です。ここに掲載した文章の一部は、上記の書物と重複するところがあります。この文章を掲載することを許可された筑摩書房に感謝いたします。

Copyright 1998 by Gen Nakayama