近代の法学理論と狂気

−−フーコー論二五章

(中山 元)


第一節 カントの近代的な法学の理論の限界
 前回に述べたような背景のもとで、司法の世界において精神病理学の権力が確立していくが、これはこの問題の一つの側面にすぎない。裁判官が法廷において直面したのは、それまでの刑法の原則としていた自立した人間、道徳的な良心を持つ人間、自分の行為について他者に対して責任を持てる人間という基本的な前提が崩壊した事態であった。

 こうした被告を前にした裁判官の困惑は、もの言わぬ動物を前にしたような困惑だったはずであり、理由のない絶望のようなものだっただろう。精神医学はこの絶望に対して、モノマニーという概念を提示することによって、裁判の場に一時的な解決をもたらした。しかしこれは真の意味での解決ではありえなかった。この概念はそもそも、犯罪の後でないと証明できないのであり、一八三二年からは精神科医が精神異常者を収監できるようになったものの、その鑑定はやはり事後的なものである。

 さらにモノマニーという概念には大きな毒が含まれていた。この概念は、理性的に行動する人間という法学の前提を覆してしまったからである。カント以来の古典的な法学は、人間は道徳的な主体であり、自由な意志によって行動し、自分の行動の結果に対しては、良心に基づいて責任を負うことが前提とされていた。

 これを一番明確な形で示しているのが、カントの社会契約論とヌーメノン人間/フェノメノン人間の区別である。カントは、そもそも人間が社会を設立したのは、自分の自由を確保するためであったことから、死刑という刑罰には解決できないアンチノミーが含まれると考えていた。社会に対して自分の死刑を認めるという行為は、社会契約という基本的な考え方に反する行為である。自分の自由を守るために設立したはずの社会に対して、自分の自由どころか生命を奪うことを認めることは、矛盾した行為だからである。

 カントはこのアンチノミーをいつもの方法で「解く」−−現象と物自体の区別によってである。カントは、社会において刑罰を定める共同立法者としてのわたしと、刑罰の法規に従って罰せられるわたしが同一のわたしであるはずがないと考える。刑罰の法規を定めるわたしは、純粋な法的=立法的な理性(ホモ・ヌーメノン)であり、この人格が犯罪を犯しうる現象的な人間(ホモ・フェノメノン)を罰すると考えるのである(『人倫の形而上学』)。

 カントのこの前提からは、犯人が精神異常であったかどうかという問題は成立しえないのである。たとえばカントは『人間学』では精神病理学を中心とした法医学の介入を厳しく批判しながら、「犯人の心の状態が狂気であったか、健全な悟性をもってなされた決意による行為であったかが問題となる場では、法医学というものは他人の仕事への介入である」と主張していた。カントはある事件が投獄の判決を受け、絶望のあまり子供を殺害した女性の被告に、狂気を理由として死刑を免除した裁判官について、「こういう議論をもとにしては、あらゆる犯罪者を狂人として宣告することが容易になる」と批判していた。

 しかしカントのこの批判は、自由な意志をもつ人間というそれまでの法的な主体の概念そのものが崩壊し始めた事実に直面した絶望的な叫びのように聞こえる。啓蒙の直後の「光の時代」に突発的に発生したこれらの狂気の事件が示したのは、ヌーメノン人間が死んでしまったか、あるいは最初から存在しなかったということである。

 このヌーメノン人間とフェノメノン人間の二重人格の理論は、裁判の場で情状酌量の慣行が不可欠となるとともに、崩壊せざるを得なくなった。人間がもはや自由な意志に基づいて行動していると前提したのでは、裁判自体が不可能になり始めたのである。この時期に、この理性的な人間像を否定する形で登場したのが、犯罪人類学とその刑法の理論である。この事情については、フーコーの講義録の新刊『異常者たち』で詳しく取り上げられるので、いずれ詳細に検討したい。ここではカントの刑罰の理論を引き継いだヘーゲルの法律の理論を検討しておこう。

第二節 ヘーゲルと犯罪学
 カントの理性主義的な犯罪学を引き継いだのがヘーゲルであり、ヘーゲルの法学理論は基本的には古典的な理論の枠組みにとどまる。ヘーゲルにおいても法律の根拠は自立した人間同士の相互承認と、契約を結んだ相手の自由と所有の尊重にあり、これはカントと異なる前提ではない。しかしヘーゲルには次の二つの点で、カント的な良心と自由意志の理論からの逸脱がみられる。
 一つはヘーゲルの犯罪論では、カントのヌーメノン人間とフェノメノン人間の分裂が解消されていることである。犯罪者は、自分の内部のヌーメノン人間と、犯罪を犯した自分というフェノメノン人間との矛盾に引き裂かれるとは考えられていない。犯罪者は、自分の行為によって自分が本来は含まれているはずの共同性を傷つけたことを自ら認識し、良心によってではなく、共同性を傷つけたことによる〈運命〉によって罰せられるのである。

 ヘーゲルは法医学や精神異常についてはこの文脈では特に言及していないが、ヘーゲルにとっては法律によって罰せられるか、精神病院に監禁されることによって社会から排除されるかはそれほど問題ではなく、共同性からの締め出しという点では、これらは同じように意味をもっていただろうと考えられる。

 次にヘーゲルの犯罪論で注目されるのは、ヘーゲルの『精神現象学』における頭蓋論が、当時抬頭していた犯罪人類学と同じような視点を示していることである。犯罪人類学においては、人間は道徳的な主体としてではなく、遺伝学的な根拠によって、犯罪者となるか犯罪者とならないかが定められていると考える。もちろん人間の自由な意志を否定するわけではないが、意志よりも遺伝的な要素を重視するのである。

 ヘーゲルの頭蓋論が直接の参照対象としているのは、ガルの頭蓋論である。フランツ・ガル(一七五八−一八二八)は、ヘーゲルと同時代の医学者で、脳には色、言語、哲学、名誉、盗み、殺人などのさまざまな精神活動の場が局在しているという脳機能局在論を主張し、さらに脳のさまざまな器官の発達が頭蓋の形成に影響し、頭蓋骨を外部から触れば、その人の性格や素質を判断することができると主張した。

 骨相学自体は簡単に否定されたものの、脳の機能の局在論は、ブロッカとヴェルニッケの言語中枢の発見以来、簡単には否定できない議論となっており、言語が脳の一部の機能であるとすれば、精神が〈物〉となるという事態が、医学的な裏付けをえることになるのであり、ヘーゲルがガルの議論に共鳴したのも頷けるところである。

 ガルの議論には、ゲーテやエスキロールも関心を抱いたが、ガル自身はさらにこの医学的な「発見」を、精神異常者と犯罪者によって確証しようと努力した。このためガルは犯罪者の頭蓋骨を収集し、その突起の状態によって、犯罪を犯しやすい性向の人物を特定しようとした。

 このガルの理論は一般受けしたらしく、一九世紀のヨーロッパでは頭蓋骨の収集と、脳の計量が流行になるほどであり、多くの学者が研究のために死後の自分の脳を提供しているほどであった。この風潮において、この理論を一つの体系にまとめあげたのが、イタリアのロンブローゾであり、ここに犯罪人類学が誕生する。

 この犯罪人類学の理論の一つの重要な傾向としては、犯罪者である兆候は、人間の身体にある種の刻印として示されると考える見方がある。人間の身体を測定することで、犯罪者となる素質が強いかどうかが示されるのである。

 犯罪人類学では、いわば人間の行為は道徳的な責任を負う主体としてではなく、脳という生理学的な要素によって決定される傾向があると考えるのである。そして脳は死後にしか調べることができないとしても、脳のいれものである頭蓋は、すぐに測定でき、これがその人間の精神的な特性の重要な指標となると考えられた。精神は脳という物質の作用であると考えるのである。

第三節 人間の有限性
 これは精神が「物」とみなされるということであるが、ヘーゲルは精神が自らを絶対的な精神として自覚するためには、自ら「物」となる契機を経験する必要があると考えていた。ヘーゲルは『精神現象学』において、精神がさまざまな道程を経て絶対知にまで到達する過程を記述しているが、その節目節目において、ヘーゲルは精神が〈物〉になるという契機が必要であることを強調している。

 まず精神は最初は素朴な意識であるが、この意識は他者という〈物〉において、自己を見いだし、自己の外部において他なる物となることにおいて自己を意識する。意識が自己を意識するためには、他者の存在が不可欠であることが認識されると、これは自己意識となる。

 自己意識はさらに、他なる意識との間で生死を賭した戦いの末に、自己を生に屈服した敗者として見いだし、不幸な意識となるが、この不幸な意識は宗教的な行為において、自分の決意、所有、享楽を放棄し、儀礼に参加することにおいて、「自分だけの存在としての現実性の意識をおのれから奪い取りつつ、真実におのれの〈わたし〉を外化し、おのれの直接的な自己意識を物に、対象的な存在にしてしまったという確信をえている」(『精神現象学』)。

 ここにおいて自己意識は理性へと進む。そしてこの理性が最初に直面するのは、理性は現実的なものであるためには、一つの〈物〉とならなければならないはずであるという確信であり、これが頭蓋の形にその人間の精神の在り方をみようとする頭蓋論となるとヘーゲルは考える。当然ながら頭蓋の形に精神の内実をみようとするこの頭蓋論は「諸規定の没概念的で恣意的な予定調和」(Pheno,245)にすぎない。

 しかしヘーゲルがこれほどのスペースをかけて頭蓋論を検討し、精神現象学における身体論のいわば結論を、精神が物になるというヘーゲルにとって重要なテーマの最後の段階に費やしているのは、当時のガルを初めとする新しい法学理論の抬頭と切り離すことはできないはずである。ヘーゲルが自然哲学で動物精気の理論を排除することができなかったように、精神の現象学では人相術と頭蓋論を切り離すことができなかったのである。

 ヘーゲルはこの頭蓋論は恣意的な議論になると結論しているものの、精神が物になるという契機そのものは、ヘーゲルの哲学の核心にある。たとえばイエナ期の『実在哲学』と呼ばれる体系構想においては、人間は精神が〈物〉になる三つの契機を段階的に経験することによって、社会を形成することができるとされていた。

 『実在哲学』においてヘーゲルはまず孤立した意識から出発する。この意識は、命名するという言語の可能性によって、周囲の自然を支配することができるようになる。ヘーゲルはそれを、神によって「名付ける」ことを認められた認められたアダムが、生き物に名前をつけることによって、生き物の支配者となる聖書の神話を借りて語っている。しかしこの言語には、理性が物になる契機が含まれているのである。

 言語は一人の言語ではなく、他者との間での取決めであり、アダムのような至高の主体といえどもこの他者との取決めに拘束される。そして言語が一度確立されると、人間はこの他者の言語を学ぶことによってしか、自己でありえない。最初は自己が自己でありうるための手段であるようにみえた言語は、いつか他者の言語であり、〈わたし〉の表現を拘束し、奪うものなったのである。理性は言語という他なる物、死んだ物に転化した。

 次に理性は道具においてもう一度、この物となる契機を経験する。人間は欲望を抱いて世界と向き合うが、自然に直面した人間が実現できる欲望はごくわずかである。自然は豊富であっても、人間の力には限りがあり、人間は多くの欲望を満たすことができない。そこで人間は現在の欲望を延期して、労働することを学ぶ。労働することは、欲望を延期することによって、未来においてさらに大きな欲望を充足する可能性を手に入れることである。

 そして労働することにおいて、人間は他者との共同性を確保するのであり、他者と力を合わせることで、より多くの欲望の対象を作り出すことができる。この労働において人間の行為と自然を媒介するのが道具である。自然の果実は食べてしまうとなくなるが、道具という材は使っても減らず、さらに多くの自然の財を獲得することができる。ヘーゲルはこの道具とは、人間の理性が物となったものであり、人間の理性はその利用者にとって一度疎遠なものとなることにおいて、さらに大きな可能性を提供することができると考えている。しかしこの道具は機械となり、人間はいつか道具や機械を使うのではなく、機械に使われ、自分の必要としない財を生産するために命を磨り減らすようになる。物となった理性が、人間の生命を奪うようになるのである。

 最後にヘーゲルは、人間が死ぬという契機を取り上げる。生命という人間にとって貴重なものも、他者(両親)から与えられたものであり、その人間にもっとも固有なものであるはずの身体も、精神の在り方に逆らい、滅びてゆく。精神は与えられた時も奪われる時も、自らその時を選ぶことはできず、しかもその前においても後においても〈物〉である。
 しかしこの精神と身体の〈死〉を解決する方法をヘーゲルは提案している。子供と家族財産である。子とは、精神がその限界において達成できなかったことを実現できなかった可能性であり、家族財産とは、その個体が死によって失うものを、その個体にとって貴い他の人々の生活の資とする可能性である。ヘーゲルはこの子供と家族財産の在り方に、人間の個体を越えた〈人倫〉的なものの最初の萌芽を見いだしていた。

 この人間の精神が〈物〉になる三つの契機が、フーコーが『言葉と物』で取り上げた言語、経済学、生物学の三つの超越論的な契機と重なっていることが注目される。ヘーゲルがここで取り上げたテーマは、人間の有限性が人間の精神に提示される契機であり、フーコーは『言葉と物』において、人間の有限性が人間の知の体系の根幹として確認されることが、近代のエピステーメーを成立させる重要なメルクマールであることを指摘していたのである。

 カントにおいては、有限性という概念はつねに神という超越的な視点からみられた人間の有限性であった。カントにとっては全能の神とは、想像しただけが物を創造することができる存在であった。しかし人間は想像しただけでは、物を作り出すことができない。これが人間が物自体に到達しえず、叡智的な直観を持つことができない最大の有限性であった。

 しかしヘーゲルにとっては人間の有限性はそのような超越的な視点からみられた人間の限界ではない。人間の外部に、そのような超越的な視点を設定すること自体を拒むのが、精神現象学という方法の特徴である。精神の発展を眺めているのは、〈神〉ではなく〈われわれ〉である。ヘーゲルにとっての有限性とは、精神が自己を認識するために必要な条件なのであり、ここには超越的な視点も、消極的な視点もない。精神が絶対的な知となるためには、有限性を引き受けることが前提となり、必要な条件となるのである。

 ヘーゲルが頭蓋論という一種荒唐無稽な議論を重視したのは、こうした人間の超越論的な有限性に対する洞察によるものであったといえるだろう。ヘーゲルはピネルが人間を人間らしい存在として取り扱ったことを賞賛しているだけで、精神病理学の議論には立ち入っていないが、人間が道徳的な良心だけに従って行動することできる存在ではないことは、時代的な感覚から直観していたのである。

 


 なおこのフーコー論は、中山 元『フーコー入門』(ちくま新書、一九九六年六月刊行)の土台となった原稿の一部で、全体で四〇章程度の長いものとなる予定です。ここに掲載した文章の一部は、上記の書物と重複するところがあります。この文章を掲載することを許可された筑摩書房に感謝いたします。

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