性の歴史のプロジェクト
フーコー論二六章

(中山 元)

第一節 性的な人間
 フーコーが一九七七年に発表した性の歴史シリーズ第一巻『知への意志』は、それまでのフーコーのさまざまな関心を集約した書物である。この書物の冒頭で、フーコーはそれまでの権力の理論の新たな展開を明らかにする。フーコーは『監視と処罰』では、権力の理論についてそれを監禁や排除という観点から考察する傾向があった。もちろんフーコーに近代的な主体の形成という観点が欠けていたわけではないことは、すでに触れたとおりであるが、この主体は外部の眼を自己のうちに取り入れることによって形成されるものであり、権力との間で力動的な運動関係を結んでいる主体ではなかった。

 しかしフーコーは「危険な個人」の分析を通じて、社会の中において排除され、管理される人間が、外面的な権力という通路だけではなく、性というごく私秘的な通路を通じて管理されることを指摘していた。この人間の性的な問題を通じた管理というテーマから、フーコーは権力の問題を新たな考え直すようになったのである。

 フーコーはこの「性的な人間」という新しいテーマについて、二つの側面から考察を始めた。一つは性的な挙動をつうじて社会から監視される人間という側面であり、もう一つは、性的なアイデンティティをつうじて、社会における自己のアイデンティティを模索する人間という側面である。

 性というテーマが問題になったのは、それほど古いことではない。『知への意志』の第一章は、「われらヴィクトリア朝の人間」という(今となっては)有名なタイトルをもつ章である。この章ではフーコーは、ヴィクトリア朝に代表される近代のブルジョワ社会においては、性の問題は禁圧され、性の関する表現は抑圧されてきたという通念に挑戦する。この時代は、そしてわれわれの時代は、性について語ることを禁圧するようにみえながら、じつは性についてもっとも関心をもち、もっとも饒舌に語り続けている時代ではないのか。

 近代の性の歴史を「抑圧の年代史」として解釈するこの通念には、逆の意味での効用が存在していたとフーコーは指摘している。性について語ることがタブーであるなら、単に性について口にするだけで、タブーを破るような外見を与えることができ、ラディカルな侵犯行為という様相を呈するようになる。そして抑圧について語れば語るほど、権力を批判し、未来の自由を先取りするかのような態度を取ることができる。フーコーはここに精神分析の「商品価値」をみているほどである。

 フロイトは精神疾患の根源に、幼児期の性的な経験と成人してからのリビドーの運命があると考えていた。そしてこうした考え方による限り、人間の自我の根源は性的なもので規定されていることになる。そして個人の秘められた性の「真理」を取り出すことによって、その人間の性格から考え方にいたるまでのすべての要素を解明するためのマスター・キーを手に入れることになる。フーコーが指摘しているように、秩序の侵犯、性の真理、快楽の享受という一連の性についてのディスクールが、西洋の社会では非常に支配的な力を発揮しているのである。
  しかしこうした経済的な結果よりも重要なのは、われわれの時代において、性と、
  真理の啓示と、世界のの転覆と、新しい日の到来の予告と、ある種の至福  の約束を一つに結び合わせるディスクールが存在していることである
  (La volonte de savoir, P.15)。

 フーコーはこの性の抑圧仮説に対して、三つの重要な疑いを提起する。性の抑圧の仮説は歴史的にみて正しいか、われわれの社会において機能している権力のメカニズムは、抑圧的なものか、抑圧を批判するディスクールは、真の意味で反権力的な性格のものか。

 フーコーはこの抑圧仮説に対して、性が抑圧されていなかったという逆の仮説を立てようとしているのではない。性のディスクールが権力と真理のエコノミーにおいてどのように機能しているかを検討することにより、性の問題についてのディスクールをその背後から支えている権力−知−快楽の構成の機能と存在理由を明らかにしようとするのである。そのために問われるべき問いは、次のようなものである。
□権力はどのようなディスクールに沿って、個人のもっとも私秘的な行動の水脈にまで忍び込んでくるのか。
□権力はどのような方法によって、異例な形態の欲望、あるいはほとんど知覚されないまでの欲望を捉えることができるのか。
□権力はどのようにして日常の快楽に浸透し、それを統制しているのか(Ibid., P.20)。

 これは「権力の多形的な技術」の分析であり、これらのディスクールを支える知への意志の分析である。フーコーがここで確認していることは、すでに『監視と処罰』で確認されているように、権力は外部から到来したり、外部から抑圧したりするのではなく、内部から主体を構成するものであることであり、それが知への意志という通路を介してくるということである。

 しかも「バイオの権力」によって機能している近代の社会においては、異常者と危険な個人に対する存在論的な恐怖感をもっているために、こうした人間に対する警戒心が、性という問題をつうじて拡大される結果となったのである。それは性的な倒錯に対する厳しい検閲と監視という姿をとった。

 ブルジョワ社会は、この性という問題をつうじて、自己の欲望の秘密を解読しようとしたのであり、そのために社会とその成員に対する管理が、性的な行動への監視という形をとり、同時に社会の成員は自己のアイデンティティを性的なアイデンティティをつうじて追求するという逆説に悩まされることになる。この節の最初で指摘した二つの側面は、実は通底しているのである。

第二節 性のディスクールとポリツァイ
 この性を通じた自己のアイデンティティの探求と、性の通路による個人の管理は、告白という技術によって統一的に実行された。西洋の人間は「告白する動物」のようだとフーコーは語っている。キリスト教の教会における告解のディスクールの延長に、性のディスクールがそのまま接ぎ木されているのである。トリエント公会議以降というもの、教会における告解では性欲が重要な告白事項となった。肉体の欲望についてどのように考え、どのような感じたかを、事細かに告白することが求められるようになったのである。これまで修道院の中だけで求められていた性欲の告白が、一七世紀に西洋の全体の社会において性のディスクール化の企てとして登場する。
  おそらくこのとき初めて、近代の西洋にこれほど特殊な一つの命令が、全体的な
  規制という形で確立した。…快楽のゲームとかかわりのありそうなすべてのこと
  を言うこと、魂と肉体を仲立ちとして、性となんらかの関係をもつ無数の感覚と
  想念を言うこと、自分自身に対し、他者に対し、しかもできるだけ頻繁にそれを
  言うという、ほとんど際限のないつとめである(Ibid., P.29)。

 社会のすべての人に対して、自己のすべての欲望をディスクールにするよう努力せよという定言命令が出されたこの事態をフーコーは重視している。新しい権力のメカニズムにであり、性についての禁忌を感じることによって、性の欲望を転位させ、強化し、方向づけるシステムが生み出されたということである。

 そしてこれが外部の権力による抑圧と異なる点は、さまざまな装置を介して、性とディスクールを連結する仕組みが確立されたことにある。フーコーはこの装置の仕組みについて、性について語るという命令は、性についての欲望を検閲することではなく、「その仕組みの構造化の中で機能し、効果をもつようなディスクール」を次々と生み出すような仕掛けになっていたことを重視する。

 フーコーは、この仕掛けを生み出すのが、たんに教会における告解の義務だけではなく、ある政治的な組織が存在していたことを指摘している。これがポリスである。このポリスという概念の基礎となっているのは、一九世紀のドイツからフランスに導入された社会管理・福祉機構の概念であり、ヘーゲルが「ポリツァイ」という言葉で呼んだものに他ならない。

 ヘーゲルはカントとは異なり、貧富の差や法的な保護などの社会の問題は、個人の道徳ではなく、社会が全体として配慮すべきであると考えていたため、社会のさまざまな構成員が個々に問題を引き受けるのではなく、社会の特別な機構が社会の秩序の問題を引き受ける必要があると考えていた。戦前の日本の内務省のイメージに近い組織である。

 フーコーはこのポリスの概念が、この時期のバイオの権力の社会の権力装置の概念としてふさわしいと考え、ここでは性のポリスという表現を使用している。これは人間の欲望の告白という実践が、社会の管理の目的とそのまま連結していることを示すものであり、生活の隅々まで管理のコントロールが行き渡り始めたことを意味する。そしてそのための機構がポリスであった。

 このポリスが扱うべき問題は、性だけではなく多様なものであった。フーコーはポリスが注目したさまざまな問題は、次の四つの軸に分節することができると考えている。

□住民
 まず人口としての住民である。住民は単に臣下や民衆であるよりも、富としての人口であり、労働力であり、資源である。住民を資源として取り扱うには、出生率、罹病率、寿命、妊娠率、健康状態、病気の頻度、食事、住居など、さまざまな側面から全体的に管理する必要がある。

 そしてこの人口の問題の核心に位置するのが、繁殖行為としての性の問題である。国家の富は国民であるというのはそれ以前から主張されてきた考え方であるが、社会の未来と運命が、その成員の性的な欲望の用い方に左右されるようになると考えたのは、これが始めてであることをフーコーは指摘している。「住民の政治経済学を通じて、性を見張る観察格子が作られる。性的な行動、その決定因とそこから発生する効果についての分析が、生物学と経済学の臨界で生まれる」(Ibid., P.37)。同時に夫婦の性的な行為を、経済的かつ政治的に協議された一つの行為に仕立てあげようとする戦略が形成される。

 ここで重要なのは、政府がこうした権力的な戦略を実際に形成しているとしても、フーコーは住民に対して外部あるいは上部から権力が支配と管理を貫徹していくとは考えていないことである。これは住民と政府の間の、しかも公式的な性格の賭なのである。

□子供の性
 一八世紀末のドイツでは、子供の性が非常に過敏な問題となっていた。フーコーはゲーテが出席したバセドーの「汎愛派」の学寮の祝典の様子を描いているが、この学寮についてはカントも熱烈な賛辞を寄せている。そしてカントは子供の教育について、同性愛的な性向がいかに忌まわしいものであるかを盛んに強調している。ヘルダーリンが家庭教師を解雇されたのも、子供の自慰をやめさせようと神経質になって、ついにノイローゼにかかったからだったはずである。

 一九〇五年にはフロイトがハンス少年の分析で、子供の動物恐怖症にエディプス・コンプレックスを見いだす。子供の性的な欲望に、過剰なまでの注目と表現が向けられるのである。「一八世紀からというもの、子供と青年の性は、重要なとなり、それをめぐって無数の制度的な装置とディスクールの戦略が配備された(Ibid.,P.42)。

□社会の怪物
 フーコーはフランスで一八六七年に初めて「性犯罪」が取り締まられた興味深い逸話を紹介している。村のごく普通の(少し智恵遅れの)若者が子供たちと行った性的な「遊び」、しかもそれまでほとんど問題にもならなかった程度の遊びが突如として「性犯罪」とみなされるようになったことは、この時代の性に対する感性の変化を明らかにしていて、興味深い。

 性と犯罪が科学の対象となり始めるとともに、性を中心として人口統計学、生物学、医学、精神病理学、心理学、道徳、教育学、政治批判などのさまざまなディスクールが連結される。これは社会の成員を包囲する制度的な装置として、社会の中の怪物倒錯者を選び出し、調べあげ、監禁し、罰するようになる。

 社会の中の怪物とは、半ば人間であり、半ば動物である存在(狼男や野性児)、二重人格者、両性具有者などであり、こうした両義的な存在は、社会にとっては危険性を孕むものであった。そして一九世紀初頭に頻発した理性の狂気の犯罪は、こうした怪物的な存在とみなされ、精神医学と司法との結びつきを確立したのだった。これらの怪物的な存在に対する懸念から「危険な人物」という概念が生まれたことは、すでに述べたとおりである。

□性倒錯者
さらに社会の怪物だけではなく、倒錯者とみなされる一群の人物が、医学と司法の境界に出没する。性の目覚めが早すぎた少年、早熟な少女、残忍な夫、孤独な収集家、奇怪な衝動を抱いた散歩者、これらの人物は周囲から倒錯者とみなされ、「道徳的な狂気」や「心的不安定」などと分類され、社会から排除される「危険な個人」の一群を形成する。そしてこうした人々は司法の介入のもとで、精神医学と犯罪人類学の調査の対象となり、科学的な調査の素材として監禁され、あるいは放免される。膨大な性倒錯のカタログを作ったクラフト・エヴィングの時代の登場である。

 すべての個人は、自分がこうした性倒錯のカテゴリーにあてはまるのではないかと、心の隠微な欲望までも洗い出され、肉親や友人の間で互いに監視しあうシステムが形成される。そしていつか性倒錯や子供の自慰は、こうしたシステムのために要請されるものとなってしまう。調べる者と調べられる者の間の隠微な快楽。ここで快楽が権力と結びつき、同時に医学などの科学と複雑なゲームを展開する。フーコーが指摘しているように、近代的な医学、心理学、精神分析などは、いずれもこうしたゲームの中から誕生してくるのである。

 これは、本当に逃げてしまってはゲームにならない鬼ごっこのようなものであり、親と子供、教師と生徒、医師と病人、精神分析者とヒステリー患者は、このゲームを演じ続けているのである。「われわれの社会の特徴である近親相姦的な小家族、われわれが成長し、生活している性的に飽和した家族の小空間」(Cours,79)がここに形成されるのである。

 フーコーがここで描く学校や病院や監獄の制度は、もはや見えざる眼に監視されたパノプティコンの制度ではない。互いに秘された欲望によって結びつけられ、「権力と快楽のゲーム」を楽しむゲームのプレイヤーが生息している空間、みずから権力を行使し、権力を行使される権力と欲望の主体がゲームを繰り広げる空間である。

 そしてこの空間で、性のディスクールが蔓延する。社会にとって危険な個人が、「理性の狂気」としかいいようのない犯罪を犯すようになり、犯罪文学と犯罪学が蔓延したように、性の倒錯という概念の誕生によって、社会の中での性的な諸傾向に対する感受性が鋭く研ぎ澄まされ、ポルノグラフィーと性に関する告白文学と性倒錯についての心理学がはびこるようになる。

第三節 性の科学
 このように、社会における性の現象に対する感受性が鋭敏になり、性に関するディスクールが増殖するとともに、性についての科学が成長してきた。しかしこの科学は、非常に困難な立場に立たされていた。最初から矛盾した課題を背負わされていたからである。

 まず性についての科学は、科学としての立場を主張するために、心理学と生理学に依拠する必要があった。しかし性倒錯についての異常心理学という学問は、科学的な地位自体が疑わしいものであることは、フーコーが『狂気の歴史』以来明らかにしてきたことである。人間科学という学問が、人間というイデオロギーに依拠した学問であり、その根本の場所において、科学性を否定する要素を孕む学問であった。

 これは犯罪人類学と同じ考え方に従った学問なのであり、その背景にあるのは、「危険な個人」に対する社会の恐怖心である。異常心理学と性倒錯の学問は、この危険な個人を排除するために近代社会が考案した学問の一つであり、「本質的には道徳の命令に従属した学問であり、道徳の命令が定める善と悪の区別を、医学の規範として反復するにすぎない」のである(VS:72)。

 『狂気の歴史』のテーマがここでよみがえる。『狂気の歴史』が明らかにしたことは、狂気というカテゴリーが、道徳的な本質をもつものであることであった。すなわち狂気とは、精神疾患ではなく、社会が排除し、監督し、調査することを決定するための基準だったわけである。異常性という基準は、規範性という基準と対をなして、社会の規範に反しているものを選別し、調査し、検閲し、監視するための基準となる。

 振り返ってみると、フーコーがこれまで研究してきたすのものが、この規範と異常のカテゴリーで捉えられるものであり、フーコーはこの異常性のカテゴリーの学問を追求してきたということができる。まず『狂気の歴史』においては、狂気という名前で理性の他者として排除されるものが、心理学の分野において取り上げられた。『臨床医学の誕生』においては、病という名前で、健康性に反するものを管理する制度がいかにして確立され、この規範性のまなざしがいかに身体をまさぐるかが考察された。

 また『言葉と物』においては、人間というカテゴリーについて考察することにおいて、人間の有限性という観点から、人間科学が誕生し、展開する秘密が探られた。次に『監視と処罰』において、社会に対する犯罪を犯した犯罪者というカテゴリーが考察され、この規範が身体のレベルでいかに植えつけられるかが考察された。

 さらにフーコーは精神分析の批判において、精神分析における「正常性」の概念を批判しながら、精神分析が現実の社会で果たす役割と、病院ならびに監獄において果たしている役割を指摘してきた。そしてここでは、性の科学がいかにこの社会の懸念を代表しているかが検討されるわけである。

 性の医学は、最初からイデオロギーと混在していた。これは優生学と結びついて、人間の種の純粋性の保持という人種差別主義と結託する学問となる素質を備えた「科学」であった。フロイトは、自慰が危険であり、個人の神経障害をもたらすと考えていたが、こうした考え方がいかに一八世紀以降の西洋社会の知識層において一般的であったかは、カントの「汎愛学舎」の論文からも明らかである。
  性の科学は、気の弱い人がこっそりと耽る習慣でも、取るに足らない単発的な異
  常でも、社会全体にとって危険なものであると断言した。異形な快楽の果てには、
  死しかないというのである−−これは個人の死であり、いくつもの世代の死であ
  り、種族の死である(VS:72)。

 この「真理に忠実であるよりは、秩序を好む権力者に隷属的であった」性の科学は、最初から生まれつきの犯罪者というものが存在していると考える犯罪人類学や、種の純粋性の保存というイデオロギーによって、個人の選別をはかる人種差別主義と結びついていた。そのことは、フーコーが紹介しているフランスの「最初の性犯罪」において、逮捕された青年が監禁され、身体や頭蓋の大きさを測定されたことに象徴されている。

 ロンブローゾの生来性犯罪者説に影響された優生学は、二〇世紀の初頭から、犯罪者の去勢を求め始めた。やがてこの主張は、犯罪者だけでなく、あらゆる反社会的な人間、すなわちならず者、女衒、強盗、放浪者を去勢することまで求められるようになっていった。これは危険な個人を排除する試みが、その個体だけではなく、性という器官と行為を通じて繁殖する可能性そのものを排除することを試みるようになってきたことを明らかにしている。

 ここにおいて、性の科学が社会の防衛にとって枢要な役割を果たすようになる。この科学は「社会の身体の肉体としての活気と、道徳的な正しさを保証すると僣称した。この科学は、欠陥の持ち主、変質者、堕落した住民を除去することを約束した(VS:73)。この学問は、生物学と歴史的な要請の名のもとに、国の人種差別を正当化し、それを「真理」として基礎づけた(VS:73)。

 ここで重要なのは、性が「たんに感覚と快楽の問題や、法と禁止の問題であるだけでなく、真と偽の問題」(VS:76)となったことである。これからは性の問題は、個人の欲望や快楽とは異なる次元の科学と真理の審級で考察されることになる。


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 なおこのフーコー論は、中山 元『フーコー入門』(ちくま新書、一九九六年六月刊行)の土台となった原稿の一部で、全体で四〇章程度の長いものとなる予定です。ここに掲載した文章の一部は、上記の書物と重複するところがあります。この文章を掲載することを許可された筑摩書房に感謝いたします。
Copyright 1999 by Gen Nakayama
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