セクシュアリテの装置
フーコー論二七章
(中山 元)

○性と真理
 フーコーは性が個人の欲望において中心的な位置を占めるだけでなく、性にまつわる知が、科学として真理と結びつくことに注目する。フーコーは西洋社会における性についての知への意志に、ふたたび真理への意志を見いだすわけである。

 フーコーはこの性と真理の結びつきについて、ふたつのモデルを提示する。西洋における性の科学と東洋における性愛の術である。後年フーコーが述懐しているように、この区別は東洋と西洋という安易な対比のもとに、事態にそぐわない区別を導入するものであったが、フーコーの目指しているものは明らかであろう。性科学における性と真理の結びつきが主体において果たす役割に焦点をあてようとしているのである。
 フーコーが考えた東洋の性愛の術では、真理は人が実践として知り、経験として取り集めた快楽から取り出される。これは科学的な性格の知としてではなく、快楽をうるための智恵、秘された知として伝承される。いわばアートとしてのセックスというようなものが考えられているわけだ。

 これに対して西洋の性科学では、性に関する知識は秘伝としてではなく、正しい科学的な知として伝えられる。セックスは術としてではなく、分析し、調査し、分類すべきものとして捉えられる。そしてそのための情報は、告白を通じて行われる。この知は「知である権力」という性格をおびることになる。

 もちろん告白という儀式は新しいものではなく、長い伝統をそなえている。中世における告解とは、その儀礼の場所において他者との関係において、自己の身分、本性、価値の保証を得る儀式であった。個人としての人間は、長い間、他の人間たちに基準をもとめ、また家族、忠誠、庇護などの他者との絆を顕示することで、自己の存在を確認してきた。この告解という儀礼の核心にあるのは、個人のアイデンティティが他者との関係において確証されるという考え方である。

 しかし近代において登場した告白とは、個人が自分の行為と思考をどのように認知するかを中心とするようになった。個人が自分をどのように認識しているかという真理に基づいて、他者がその個人を認証する。「真理の告白は、権力による個人の形成という手続きの核心に刻み込まれる」(*1)。人は、肉親に、医師に、教師に、愛する者たちに告白する−−自分の犯した罪、自分の考えと欲望、過去と夢、幼児期の記憶、病と悲惨を。フーコーは西洋の近代において、人間は「告白する動物」になったと語っている(*2)。

 自分が最も大事だと思うこと、貴重な記憶、病と欲望−−告白とは、自己についての真理を他者に告げることであり、フーコーはこの行為において、その人間のアイデンティティが形成されると考えている。アイデンティティとは抽象的に形成されるものでも、自己のもっとも内奥の場所で密やかに形作られるものでもない。自己のアイデンティティとは、他者との関係において初めて形成されるのである。

 他者との関係は、たとえばヘーゲルが『法の哲学』において記述したような、互いに承認しあう対等な二人の間の関係として考えることはできず、つねに(たとえわずかなものでも)力の場の中に存在しているとすれば、他者との関係はつねに権力(力)の関係において存在していると考える必要がある。

 フーコーは二人の人間が存在する場所にはつねに想定する必要があるこの力の磁場のような関係をミクロな権力と呼ぶ。他者との関係がこうした権力の関係であるとすれば、自己のアイデンティティとは、つねに権力の関係において形成されると言い換えることができる。

 真理についても同じことが言える。自己のアイデンティティあるいは自己の真理とは、孤独の場所で、「もっとも秘密の場所で」現れるように考えられているが、実は真理は権力の関係に貫かれているのである。「真理とはそもそも自由なものであるわけではないし、誤謬が隷属状態であるのでもない。真理はつねに権力の関係を貫いて生み出される」(*3)。

 フーコーがここで強調していることは、権力を外部から行使される抑圧的な権力のようにイメージするのをやめるべだということである。権力が外部から行使される抑圧的な力であると考えている限り、性について禁忌に触れるような表現をすると、反権力的な行為であるという自己満足に陥ってしまう可能性がある。しかしフーコーが「反抑圧理論」で明らかにしたことは、性についての禁忌に触れるような表現が価値があると考えること自体が、権力的な行為であるということである。

 権力は他者との関係において形成されるのであり、その権力の磁場から逃れることはできない。自己の真理を語るという行為、自己のアイデンティティを確証するという行為が、実は権力的な主体として自己を形成することであり、こうした主体であることで、権力の臣下となることである(フランス語の主体という語は、臣下という意味を含むのは示唆的なことだ)。

○性と知への意志
 この告白という儀礼において核心的な地位を占めているのが、性というテーマであった。フーコーは東洋の性愛の術と比較しながら、西洋の性の科学においては、多形に倒錯した性という概念と、性について語るという性のディスクールがひそかに結びついていると考えている。この性において象徴されるのは、人間の関係には権力の構造が内在していること、そして権力は上から規制するものではなく、内側から、下から自己を形成するものとして襲うということである。

 逆説的なことだが、支配は語る者の側にではなく、沈黙して聞く者の側にある。ここでフーコーが、パノプティコンの概念をさらに精密なものとしていることが注目される。パノプティコンとは、見る眼であったが、その眼が意識の内部にすみつき、自己の真理を見る眼となり、そしてそれを語り出す声となる。真理が意識の内部だけではなく、他者との関係において確証されることによって、権力と支配の関係が成立する。

 子供と親、教師と生徒、医者と患者は、『監視と処罰』で語られたような調教と監視のモデルで理解されるのではなく、真理を語るものと、語られる真理を聞く者との権力的な関係のモデルで理解されるようになる。そこには相互作用が存在すると考えることができる。真理を語る者は、自己のうちの声を聞くことにおいてそれが真理であるかどうかを確証しながら語るのであり、語る者は、語る主体となることによって、権力的な関係において服従する者となる。

 語られる真理を聞く者は、語られる言葉の真理を受け入れることによって、権力的な関係において支配する者となる。しかしパノプティコンにおいて、監視する者、支配する者、塔の中に座る者が、任意の人物でよかったように、そして理論的にはこの監視する者は、次に監視される者となることが可能であったように、真理を語る/聞く者の関係においては、語られる真理を聞く者、支配する者は、任意の人物で構わないのであり、この相互的な関係において、次に語るものとして、支配される主体となることができる。しかしこの相互性は同時に成立するのではなく、つねに相手との関係は不均衡である。絶対的な権力関係よりも、このアンバランス、権力的な水位の差こそが本質的なのである。

 フーコーはこの関係を「知への意志」と名づける。語る者も語られる者も、一つの知へと向かう姿勢において共通しているのであり、この相互的な関係をフーコーは「複式簿記」という比喩で語っているのがおもしろい。複式簿記では、片方の感情で貸方(プラス)として記入されたものは、対応する勘定において借方(マイナス)として記載される。全体を合計すると、その期間においてはゼロになる。金額にプラスやマイナスとしての絶対的な意味はない。借金もマイナスの資産としてプラスだからだ。

 同じようにこの真理の帳簿では、真理は語られただけではまだ不十分である。これは聞き取られて始めて存在することになる。プラスの記帳は、対応するマイナスの記帳がない限り、意味をもたない。そして真理を聞き取る者は、語られるたものを解釈するのであり、今度は語られた不可解な真理の真理を語るものである。真理の複式簿記においては、真理は語られることと聞かれることにおいて初めて真理として成立するのである。

 フーコーのこの真理の理論は、科学的な真理として語られるものが、実は一つのエコノミー的な体制に従うものであることを明らかにしているのである。ここでの真理は、科学的な研究の結果として確認されるものでも、論理的な推論によって得られるものでもない。他者との関係において、人間のひそかな欲望につき動かされて、力の場において権力的な関係において初めて生み出されるものである。たとえば性についての真理は、これを生み出すための「大掛かりな装置」の産物である(*4)。

 性に人間の真理が潜んでいるという信念のもとに、西洋の社会で人々は「告白する動物」となってきた。この真理の意志において、権力的な関係を取り結び、人間は主体となる。この真理と権力と知のゲーム、これはフーコーの究極のテーマとなった。しかし当面はフーコーはこの書物において、「性的欲望という具体的なケースについて、知への意志のエコノミーの学」を作り上げようとする。

○権力論の転回
 真理のゲームに基づいたフーコーのこの新しい学は、真理の政治学と呼ばれるようになるが、この真理の政治学の背景にあるのは、権力論の転回である。すでに触れたように、フーコーはこれまでのマルクス主義的および政治学的な権力の理論を批判する。マルクス主義でも、一般的な政治学でも、権力というものは上部あるいは外部から働きかけ、権力はさまざまな制限を持ち込み、自らの法を規定し、強制し、さらに禁忌のサイクルを強制するものである。この権力は統一的な装置としての性格を持ち、支配する者と支配に服するものとの関係のもとで成立するとされる。

 フーコーは『知への意志』において、これとは異なる権力のモデルを提示しようとする。すでに『監視と処罰』において、パノプティコンのモデルで主体の中に権力関係が形成されていく可能性が素描されていたのであり、身体においてこうした権力が確立される方法が記述されていた。しかしこの書物ではフーコーはさらに新しい視点を導入しながら、こうした権力の抑圧理論を批判しようとする。

 フーコーはまず、こうした権力の一般理論は、中世以来の歴史的な国家の制度に適応したものであったことを指摘している。この権力は、土地に対する直接的または間接的な支配、領主権と臣下の身分の絆に結びついた権力である。これは戦争を禁止し、平和と秩序をもたらす権力であり、「平和と正義」を合い言葉に、統一的な全体として成立し、自らの意志を法と同一視させ、禁止と処罰のメカニズムを通じて権力が行使されるという特性をそなえていた(JT:113)。これがローマ法以来の公法の理論が承認してきた権力の表象である。

 この権力は、『監視と処罰』において、「死を与える権力」と呼ばれてきた権力である。しかしフーコーがすでに指摘したように、現代の社会はこうした「死を与える権力」から「生を与える権力」へと転換しているのであり、王権的な権力の概念では把握することができなくなっている。そして一九世紀のマルクス主義の権力の理論は、こうした権力概念から離れることができていないのである。

 フーコーはマルクス主義の権力概念について、「こうした権力批判も、権力は本質的かつ理念的には、基本的な法の権利に基づいて行使されるべきであるということを前提としている」と指摘している(*6)。時代が変わったのに、権力の表象は相変わらず「王政のイメージに取り憑かれたままである」。このために伝統的な権力の理論においては、法律的な権利の暴力の問題、法と違法性の問題、意志と自由の問題、国家と主権の問題が重視されることになる。

 しかしフーコーは、こうした伝統的な権力概念、いわば王政的な表象でしか理解できない権力とは異なるメカニズムが、生活の隅々にまで浸透していることを指摘している。この新しい権力のメカニズムは、法律的な権力の表象には還元できないものであり、人間の生命を、人間を生きた身体として引き受けてきた権力である。

 この新しい仕組みの権力は、法律的な権利によってではなく技術によって、法ではなく規範化によって、刑罰ではなく規律によって作動する権力であり、国家とその機関を越えたレベルと形態の権力である。

 フーコーは権力についての新しい思考を呼び掛ける。もう権力を法、禁止、自由、主権などのカテゴリーで考えるのをやめようではないかと。フーコーが性の問題系について明らかにしたように、権力はこうした否定的な表象ではなく、肯定的で、人間の主体そのものを形成するような積極的な役割を果たしているという側面から考察する必要がある。権力の別のとらえ方に進むこと、法なしで性を考え、王なしで権力を考えること。

 この古い権力と新しい権力のイメージの対比は、ドゥルーズが示したツリー構造とリゾーム構造の概念の対比と似たところがある。階層構造の頂点に王や主権が存在し、ここからツリーの構造で権力が分散されていくのではなく、権力はわれわれの生のすみずみまで行き渡った力であり、重力場のように不可視の力を行使する。「権力はあらゆる瞬間に、あらゆる地点で、あるいはむしろ一つの点から他の点への関係のあるところならどこにでも発生する」(*7)。権力はいたることろにある。

 フーコーはこの権力のイメージを示すために、新しい権力モデルについて、次のように説明している。まず権力とは手に入れたり、奪われたりするような所有物ではなく、無数の点を出発点として、不平等で移動性の高いゲームにおいて行使されるものである。また、権力の関係は、経済的なプロセス、知との関係、性的な関係などの外部にあるのではなく、これらの関係に内在しているものである。

 権力の関係は、禁止や拒絶を行う上部構造の位置にあるのではなく、権力が働く場所で、直接的な生産的な役割を担っていること。権力は下から働くのであり、支配する者と支配される者の関係が考えるべきではないこと。権力に対して、反抗者の魂、反乱の中心、革命家の純粋な掟といった唯一の「偉大な拒絶の場」が存在するのではなく、複数の抵抗があり、権力の関係の項として書き込まれているのである。

 フーコーのこの「力関係の場」としての権力の理論は、大きな貢献をしたということができるだろう。それでは強大で単一的な権力という伝統的な概念を転倒して、ぼくたちの生を貫くミクロな権力に目を開くことによって、どのようなことが可能となるのだろうか。

 まず、権力を抑圧と革命といった概念で考えなくなったことによって、施行の新しい可能性が確保された。これはマルクス主義的な権力理論に依拠していたのでは不可能なことであった。権力がぼくたちの生活のすみずみで働いていると考えることで、生活の現場で働く権力に抵抗できるようになる。

 マルクス主義や実存主義の権力論では、国家権力にどのように抵抗するかという形で問題が立てられるために、政治的な活動に参加すること、あるいは反権力的な党派に参加することが、抵抗の唯一の(ある意は真の)形態であるという考え方を導きやすかった。そこに知識人の伝統的な革命運動に対する「引け目」が生まれていたのである。

 この「引け目」を代表するのはサルトルだろうか。サルトルは実存主義を主唱しながら、これがつねに革命運動とマルクス主義に随伴するものにすぎないと考えていたのである。そしてサルトルは、哲学者として、世界のすべての問題について、自分の見解を明らかにすることを使命と考えているような節があった。

 しかしぼくたちは、つねに権力的な関係のもとで生活しているのであり、この場を逃れることは不可能であることを考えると、革命活動に参加するかどうかではなく、生活の現場でどのように網の目のような権力関係を動かしてゆくかに、問いの立て方が変わってくる。

 これを象徴するのが、フーコーの監獄情報運動である。これは革命的な運動でも改革運動でもなく、知識人が自分の専門とする分野において、具体的に生活の在り方を変えてゆくための異議申し立てを行うことで、社会の在り方を少しずつ変えてゆくことができるという可能性を明らかにした。この異議申し立ての活動を行うことを役割とする知識人を、フーコーは特殊的な知識人という概念で提示し、これをサルトル的な普遍的な知識人と対比させている。

 これは社会というものが、既定のものではなく、個人が生きている場において物事の在り方を少しずつ変えてゆくことが、社会の変革につながるという希望を抱かせる考え方である。ベルリンの壁の崩壊も、東ドイツの人々の組織的な革命活動ではなく、自己の希望と欲望に従って、国外に逃走するという個々人の行為によってで実現した。抑圧的な国家体制が、個人の欲望に基づいた行動によって瓦解したという事実は、フーコーのこの権力理論の有効性を示すものだろう。

 フーコーは、ぼくたちが生活の場において、わずかながらも異議申し立ての営みを続けることによって、国家や社会の在り方を変えることが可能であることを示している。それは革命の不可能性が証明されたかにみえる現代の社会において、行動の可能性を確保するための大きな礎となる考え方である。

 第二の重要性は、逆に生活のすべてにおいて権力的な関係が存在していることを明らかにしたことである。ミクロな形で人々が社会の権力の網の目を変えていかない限り、何度革命を成功させても、社会の抑圧的な構造はびくともせず、生活の息苦しさと社会の閉塞感は変わらないということだ。

○セクシュアリテの理論
 さてフーコーはこの性と権力の問題を分析するために、セクシュアリテという概念を提示する。このセクシュアリテという用語は、フランスでは一九世紀半ばに登場した新しい用語であり、性的なセクシュエルという語から作られた。性と性欲にかかわる全般的な現象を示す語だ。とくにフロイトのエロスの理論が大きな刺激となったようだ。

 フーコーはこのセクシュアリテという用語で、科学の対象としての性的な現象ではなく、ディスクールの領域において構成されるものを考えている。しかもこれは、支配するディスクールと支配されるディスクールという二元的なツリー構造において機能するのではなく、相互的なリゾーム構造において機能する。

 この構造においてはディスクールは戦術的な多義性という規則に従うのであり、これは支配と隷属の関係ではなく、ディスクールのゲームの規則に従った実践である。一方に権力のディスクールが存在し、他方に権力に対抗するディスクールが存在するのではなく、反権力のディスクールが権力のディスクールの言葉の定義を使ったり、矛盾したディスクールを展開することもある。

 フーコーはこのセクシュアリテという概念をディスクールの領域で検討することで、性にかかわる問題を科学的な真理とは別の領域で考察する可能性を確保する。もちろん科学的な真理も、言葉で表明される限りは一つのディスクールである。科学的な性のついての知は、真理としててはなく、ディスクールとして考察すべきなのである。

 すでにフーコーは、このセクシュアリテの問題を、住民、子供の性、怪物、性倒錯の領域の問題として考えることを提案していたが、フーコーはこれらの領域を代表するものとして、次のようなテーマを提示する。

□女の身体のヒステリー化
 女性の身体は、社会においては繁殖力の源泉とみなされ、家庭においては機能的な要素として重視され、子供との関係においては生物学的および道徳的な責任を担うものとして、三重の意味で重視され、かつ恐れられた。現代の女性研究が明らかにしているように、フランス革命以降におけるフランスでは、女性の身体の問題が非常に重くのしかかっているのである。

□子供の性の教育化
 フロイト以来、子供は性的には多形倒錯的であることが想定されているが、十九世紀の初めから、子供は性的に悪しき習慣(自慰)に耽るものとみなされ、それを防止して道徳的な主体に形成することが、医師、教師、両親の重要な課題とされてきたのである。

□生殖行為の社会的な菅理化
 社会の適正な人口を維持することを目的とした産児制限は、医学的な社会的管理と性的な行為の管理に直接結びつくものであり、これが性を重要なテーマとした。

□性倒錯に対する医学的な関与
 人間の性は倒錯の可能性を孕んだものとして認識され、二十世紀の医学は、この倒錯を防止するための活動を開始した。

 フーコーはこれらの問題系をヒステリーの女性、手淫に耽る子供、マルサス主義的な夫婦、性倒錯の成人によって象徴させているが、十八世紀以降の西洋近代社会は、こうした問題系が複雑に絡まり合う性という領域において、セクシュアリテの装置を生み出してきたわけである。そして明治以降の日本においても、同じような問題系が存在しているのは、周知のことだろう。

(*1)Michel Foucault, La volonte de savoir, Gallimard, pp.78-79(邦訳『性への意志』七六ページ)
(*2)Ibid., p.80(邦訳七七ページ)
(*3)Ibid., p.81(邦訳七八ページ)
(*4)Ibid., p.92(邦訳九〇ページ)
(*5)Ibid., pp.114-115(邦訳一一三ページ)
(*6)Ibid., pp.116-117(邦訳一一五ページ)
(*7)Ibid., p.122(邦訳一二〇ページ)

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 なおこのフーコー論は、中山 元『フーコー入門』(ちくま新書、一九九六年六月刊行)の土台となった原稿の一部で、全体で四〇章程度の長いものとなる予定です。ここに掲載した文章の一部は、上記の書物と重複するところがあります。この文章を掲載することを許可された筑摩書房に感謝いたします。

Copyright 2000 by Gen Nakayama