フーコーの『主体と解釈学』読解

序--フーコーの『主体と解釈学』の位置


これから読んでいくのは、フーコーの一九八二年のコレージュ・ド・フランスの講義『主体の解釈学』だ。これまでのコレージュ・ド・フランスでのフーコーの講義は、公開の講義とセミナーに分けられていたが、この年からセミナーが廃止され、二時間のすべてを講義にあてることになった。そのためにこの講義録も、これまでの講義録の二倍の厚さがある。

フーコーにはあと二年半しか残されていない。コレージュ・ド・フランスの講義は、翌年の一九八三年の講義と一九八四年の講義があるだけだ。この一九八二年の講義について、フレデリック・グロス氏の解説を参考にしながら、簡単に位置づけをみておこう。

フーコーは一九八一年には、『主体性と真理』というタイトルで、ギリシアとローマの古代における快楽の研究についての成果を披露してきた。とくに医療の視点から性的な行為の意味で重視されていたこと、合法的に許された性の享受は夫婦だけに認められたこと、相互的な合意と快楽の静謐な真理の場としては、異性愛しか認められなかったことが確認された。これは最初の二世紀のうちに確認された性についてのドグマであり、これは『自己への配慮』のうちに記録されている。そして一九八二年の講義も、これとまったく同じ時代を対象としている。『自己の配慮』のうちの「自己の陶冶」という章を拡大してものだと考えることもできるくらいだ。

ところで一九八〇年以来のフーコーの「主体と真理」の大きなプロジェクトのうちで、最初の年には、カッシアヌスなどの修道院における「真理をいうこと」の実践が検討されてきた。この真理を語ることは、他者の前で自己についての真理を語り、自己を服従させる営みであった。

このキリスト教の実践のテーマは、『性の歴史』の四巻目となるはずの『肉の告白』で詳しく検討されるはずだった。この時点までは、まだ『性の歴史』の最初のプロジェクトが維持される可能性が残されていたと考えることはできるだろう。しかしこの一九八二年の講義で検討されるのは、このキリスト教の系譜ではなく、ストアの系譜、セネカ、マルクス・アウレリウス、エピクテトスの系譜である。ここでも真理と自己の関係が問われるが、この「真理を語ること」の営みの目的は、服従すること、自己を放棄することではなく、自己が解放されることである。ここでは真理を語ることが、実存の不可避の選択として現れる。

これは『性の歴史』のプロジェクトを変革させる意味をそなえていた。一九七六年の最初のプロジェクトでは、セクシュアリテは西洋の近代の規範化の特権的なターゲットとして考察の対象となっていた。規律する権力の装置として分析されていたのである。この装置としてのセクシュアリテは、禁止されるものよりも作り出す働きをするものであり、性において問題になるのは権力だった。

しかし『性の歴史』の残りの二冊では、権力ではなく主体が取り上げられる。といっても、フーコーが政治学から倫理学に軸足を移したと考えるべきではないだろう。フーコーの統治性のプロジェクトそのものはまだ続いている。フーコーは統治性の問題を、自己への配慮によってさらに複雑なものとしたのである。

こうして一九八一年と一九八二年の講義では、セクシュアリテや権力ではなく、真理と主体の関係に焦点がおかれるようになる。セクシュアリテのテーマは、エクリチュールの問題、医学的な自己との関係の問題など、この真理と主体の関係を解明するための一つのテーマにすぎないものとなる。フーコーはもともと権力ではなく、主体の問題をテーマにしていたと振り返っている。

『狂気の歴史』と『監獄の誕生』では、分離という社会的な実践による主体の登場を検討した。『言葉と物』では、言語と生命と富の科学において、話し、生き、労働する主体がどのように登場するかを検討した。そして『性の歴史』では、自己の実践における主体の登場を分析する。この自己の実践では、これまでのように監禁による支配の権力や、ディスクールの技術としての科学や知識によってではなく、自己の技術を利用しながら、主体が自ら誕生してくる。

フーコーはこの自己の技術は、「すべての文明に存在する技術だが、自己による自己の統御、自己による自己の知識に基づいて、主体が特定の目的に従って、自己のアイデンティティを確定し、維持し、変形するために提案し、あるいは定められた手続き」(「主体と真理」D/E-4:213)と定義している。

そして近代の主体について分析している際には、この自己の技術はうまくみえてこなかったのである。これを明示的に分析するためには、キリスト教の伝統とは異なる伝統をもつギリシアとローマの時代までさかのぼる必要があったのである。近代の主体の分析からは、この自己の技術がうまく分析できない。それは、近代においてはすでに自己の技術が失われていたこと、近代の主体のアイデンティティは、自己の技術によって獲得されものではなく、外部から授けられたものであるからである。

近代の主体において自己の技術を分析するためには、この近代の主体のアイデンティティの外部から近代の主体を考察する必要があるが、この近代の主体の「外」とは、近代の理性的な分析の対象となることを拒む狂気、犯罪、文学の「外」のうちにしか存在しなかったのである。これまでフーコーが考察してきたさまざまなテーマは、この「外」の問題にかかわるものだったことは明らかだろう。これについては『ポリロゴス』第一号の「外の思考」を参照されたい。

フーコーはこの講義において、これまでと同じように「外」を模索しながら、それを古代の自己の配慮のうちにみいだしたと言えるだろう。実際にフーコーは、古代には、近代の主体とキリスト教の歴史の伝統とは異なる主体の可能性が存在していたことに喜んでいるのである。フーコーが古代の主体や道徳のありかたそのものを賞賛したわけではないことに注意しよう。西洋の伝統からはなれずに、西洋の伝統のうちに、近代の主体を「外」から眺めることのできる伝統が、古代に残れさていたことを賞賛しているのである。

そして古代におけるこの技術の所在が明らかになるとともに、性の歴史のプロジェクトと、統治性のプロジェクトが別の性格を帯びてくることになる。セクシュアリテは抑圧の装置ではなく、この自己の技術を解明するための重要な手掛かりになるのである。

そしてフーコーのプロジェクトにおいて、セクシュアリテ以外にもこの自己の技術にかかわるさまざまな技術が重視されるようになる。エクリチュールと読書の問題、身体と精神の鍛練の問題、実存の統御の問題、政治的なものとのかかわりの問題などである。このセクシュアリテとことなる分野を自己の技術のテーマから分析するのがこの一九八二年の講義『主体の解釈学』である。いわばフーコーの『性の歴史』のプロジェクトの次のプロジェクトの開始を告げるのが、この書物だといえるだろう。