フーコーの『主体と解釈学』読解

新しい出発点−−自己の配慮


○今年の講義の目的
フーコーは新しい講義を始めるにあたって、例年のように前年の講義を振り返ることから始める。「昨年は、主体性と真理の関係のテーマについて歴史的な考察を始めようとしました。そしてこの問題を研究するために、特権的な例として、古代における性的な行動と性的な快楽の体制、アフロディージアの体制を検討したわけです」(3-4)。

アフロディージアについてはフーコーの『快楽の活用』に詳しい。「アフロディージアとはある種の形式の快楽を与えてくれる行為や身振りや接触である」(53)。フーコーにとってアフロディージアは性にまつわる人間の「経験」の総体のようなものとして捉えられていることに注意しよう。キリスト教の時代には、これはchair(肉)という言葉で表現されるものに相当し、近代ではセクシュアリテという概念が登場した。フーコーにとってはこの三つの概念は、「倫理的な実質」となるものである(この概念については『快楽の活用の最初の章を参照されたい)。

フーコーは一九八一年には、ギリシアにおけるアフロディージアそのものよりも、一世紀から二世紀のストアの時代において、これがどのように受け継がれていったかを分析していたが、この分析に基づきながら、一九八二年の講義では「主体と真理」の問題構成をさらに深めようとする。歴史のどのように形式のもとで、西洋において主体と真理の要素の関係が構築されていったかを分析することを目的とするわけである。

○新しい出発点−−自己の配慮
フーコーはこの問題を考察するにあたって、新しい概念を提示する。「自己の配慮」である。この概念は、ギリシアの全体の時代を通じて、そしてその後の長い期間を通じて影響を残した概念Epimeleia heatouを訳したものである。ラテン語ではcura suiと訳された概念である。フーコーは、このようなマイナーな概念を取り上げ、よくしられた概念Gnoti seauton(汝みずからを知れ)を取り上げないのは、キザ(笑)ではないかと自問してみせる。

そもそも西洋の哲学の歴史の全体を通じて、主体と真理の問題はこの汝みずからを知れという基本的な定式で語られてきたわけである。そこでフーコーは、しばらくこの二つの定式の違いについて考察する。

○デルフォイの「汝みずからを知れ」という銘の解釈
 フーコーは歴史学者と考古学者の研究に基づいて、デルフォイに刻まれた銘は、現在ふつうに解釈されているような意味を持たなかったことを指摘する。エピクテトスはすでに、人間の共同体の中心に、この「汝みずからを知れ」という銘が書かれていると指摘している。このギリシアの格言では、哲学的な意味での自己認識や、道徳的な意味での自己知が問題になっているのではない。

フーコーはまずロッシャーの解釈を提示する。この格言は、神託を聞きにきた者に対して、この神託を聞くという行為の規則であり、儀礼的な勧告であると考えるものである。デルフォイでは三つの格言があったが、これらは道徳的で普遍的な規則を設定しようとするものではない。まず「汝みずからを知れ」の他に、「多くを求め過ぎるな」(meden agan)という格言があったが、この「多くを求め過ぎるな」という格言は、必要な質問だけをして、質問の数を増やし過ぎるなということである。第三の格言eggua para d'ateは、約束をするなであり、神託を聞くときには、無理な誓いを立てるなという注意である。そして「汝みずからを知れ」とは、神託を尋ねるためには、自分のことを顧みて、多くを求め過ぎず、無理な約束は控えるべきだということであるという。

次にもっと新しい解釈としてフーコーは1954年のDefrada, Les Theme de la propagande delphiqueをあげる。この解釈によると、この三つの格言は、慎みの一般的な規則を定めたものである。希望や要求は「多過ぎず」、過剰な寛大さを求めることを禁じ、「汝みずからを知る」ことで、自分が死すべきものであることを自覚し、神の力に直面するような無理なことを避けるべきだということを教えるという。この解釈もまた、「汝みずからを知れ」が普遍的な自己の認識などではないことを主張している。

○自己の配慮の人物としてのソクラテス
ところで哲学の歴史のうちにこの神託の掟が登場したのは、ソクラテスを通じてである。クセノフォンがすでに『記憶』で証言しているし、プラトンもいくつものテクストでこれを語っている。そしてフーコーは、この「汝みずからを知れ」という格言が、なんども「自己への配慮」とともに登場していることに注意を促す。「組み合わされ」「双子のように」なって登場するのである。

たんに組み合わされるだけではなく、「汝みずからを知れ」という掟は、「自己への配慮の下位にあるものとして示される。自己への配慮の方が普遍的で上位の概念であり、汝みずからを知れは、自己への配慮という一般的な規則の一つの形態、一つの帰結、具体的な適用の事例のようなものとして示されている。実際にソクラテスが登場する文章から、これを検証してみよう。

○『弁明』の三つの抜粋の分析
まず『弁明』ではソクラテスは、他者に自己への配慮を迫る者として登場するのである。フーコーは最初に『弁明』の29dを取り上げる。ここはソクラテスが、自分の哲学的な営みについて説明する部分である。もしも哲学することをやめるなら無罪放免するといわれても、アテナイ人よりは神に従う。そしてアテナイ人に、智恵や名声や金銭については熱心なのに、「思慮や真実のことを、魂ではそれができるだけ優れたものとなることを心掛けもせず、心配もしない(epimele)のは恥ずかしくないのかと問い続けるだろうと。

ソクラテスはここで自分の哲学の営みとは、アテナイの人々に自分の魂の「配慮」を求め続けることにあること、そしてそれが神から定められたソクラテスの使命であることを強調するわけである。ソクラテスはその営みが「神さまがお命じになること」(30a)であると語っている。

次の場所36b/cは、自らに適切な刑とはなにかを求めるというアテナイの刑法の慣習に従って、自己に求刑しながら、国賓と同じ扱いの「プリュタネイオンでの饗応」を要求して、アテナイの民衆を刺激し、ついに死刑宣告を受けるところであるが、そこでソクラテスはその根拠として、自分の営みというのは、「諸君の一人一人を説得し、自分自身ができるだけ優れた者、できるだけ思慮あるのになることを心掛ける(epimeletheie)こと」だったことをあげている場面である。

フーコーはこれらのソクラテスの弁明の場面を取り上げながら、いくつかの重要なポイントに注意を促している。それを順にみていこう。
[1]他者に自己に配慮するように求めるこの活動は、ソクラテスが自ら求めて実行するものであるが、これは神から命じられたものである。この営みにおいてソクラテスは神から与えられた命令を実行し、機能を果たし、場所を占めるにすぎない。ソクラテスは28dにおいて、自分の任務について「人が最善のことだと考えて自分をあるところに(taxe)配するなら、あるいは上官によって配されるなら、わたしは思うにそこにとどまって冒険をしなければならないのである」と、taxisという表現を使っている。そして神がアテナイのことを気に掛けて、ソクラテスを派遣したのであり、持ち場(taxis)を放棄すること、神を恐れないことではないかと(29a)。

[2]最後の引用の部分からとくに明らかなように、ソクラテスが他者に配慮するときには、ソクラテスは自己に対しては配慮していないということである。というか、ふつうのアテナイ人なら従事するはずの興味深い活動、利益のあがる活動、自己に好ましい活動をすべて放棄しながら、この活動に従事しているわけである。ソクラテスは自分の財産も、市民としての利益も、すべての政治的なキャリアも放棄した。ここに奇妙な逆説が生じていることをフーコーは指摘する。ソクラテスはアテナイ人たちに自己に配慮することを求める。しかしソクラテスは哲学者として、自己に配慮せず、自己を犠牲にしながら他者に配慮しているのである。

[3]この他者に自己への配慮を求める営みにおいて、ソクラテスは自分がアテナイというややのろまな馬を目覚めさせるアブのような役割を果たすことを指摘している。引用しよう。「ちょうどそのアブのように、一日中いたるところでそばにくっついて座り、諸君の一人一人を目覚ます、つまり説得し、非難することを決してやめないような性質のものとして、私は神さまからこの国にくっつけられているように思われるのである」(31a)。だから自己への配慮とは、最初の目覚めのことである。目を開いて、自己に配慮すること、最初の光を目にすることである。

[4]最後の点は、先のアブの比喩において、自己への配慮は、人間の皮膚をつつく棒のようなものであることが示された。ここにはある種の運動と撹拌の原理である。これは実存において絶えず存在する不安の原理なのである。

このような点からフーコーは、自己の配慮が「汝みずからを知れ」という掟からはかなりずれたものだと考える。そしてこの自己の配慮は「汝みずからを知れ」という掟と同じものではなく、この命令が成り立つための土台であり、基礎であることが、いずれ『アルキビアデス』の分析から明らかになるはずだと、フーコーは予言している。

ソクラテスは「汝みずからを知れ」という掟にしたがった人物というよりも、その基礎となる自己の配慮を重視した人物だと言えるだろう。フーコーはその後のストアでも、キニク派でも、エピクテトスでも、ソクラテスは「自分に配慮する必要がある」と訴え続ける人物であることを指摘する。ソクラテスはいわば、自己の配慮を体現した像なのである。