フーコーの『主体と解釈学』読解

自己の配慮の概念の一般性


○古代の哲学的および道徳的な生の掟としての自己の配慮
さてフーコーはこの自己の配慮と「汝自身を知れ」という掟の関係の第三のポイントとして、この自己の配慮はソクラテスの思考と存在と人物のうちだけにおいて、「汝自身を知れ」という掟の基礎となっただけではないことを指摘する。ギリシア、ヘレニズム、ローマのすべての時代を通じて、この自己の配慮は「哲学的な態度の特徴となる基本的な原則」(10)であり続けたのである。

プラトンにおいてこの観念が重要なのは明らかである。エピクロス派でもこの観念は重視され、だれもが日夜、一生を通じて自己の魂に配慮しなければならないことが強調された。「人はまだ若いからといって、哲学をすることを先にのばしてはならないし、もう年をとったからといって、哲学に飽きることがあってはならない。なぜならだれだって、魂の健康を手に入れるのに、若すぎることもなければ、年をとりすぎていることもないからである」(『ギリシア哲学者列伝』下、二九八)。

フーコーはここで「治療する」を意味するtherapeuenという言葉が使われていると言っているが、このテクストのこの部分では使われていないようだ。ここではhugiainou健康であることという動詞を使っているからだ。健康にすることという意味を考えれば、治療という意味を含むので、ここでは問題にしない。フーコーは「治療」という概念には、エピクテトスのテクストでは複数な意味をもっていることを指摘する。まず医学的な手当ての意味に使われる。この使い方は、エピクテトスにはいくつもみられる。さらにこの語が師への奉仕にも、崇拝にも使われることをフーコーは指摘する。

さらに自己の配慮はキニク派でも中心的な意味をもつ重要なテーマである。フーコーはセネカのDe Beneficiisに登場するキニク派のデメトリウスは、地震の原因、嵐の原因などの自然の現象に注目してもなんの役にもたたないことを強調していることに注目する。ギリシア哲学の最初の出発点である自然哲学は無用な業と退けられる。重要なのは、自分に直接にかかわることであり、自分の行動とふるまいを規制する原則である。

ストアでもこれが重要なのは自明である。ハイデガーが『存在と時間』でセネカを引用しているのは有名だろう。これについてはいずれ詳しく考えよう。フーコーは自己の配慮は哲学の分野だけでなく、ヘレニズムからローマの時代の全体の文化的な現象であったと考えている。この年の講義でフーコーが目的としているのは、この「全般的な文化現象の歴史」(11)を描くことである。ヘレニズムとローマでは、自己の配慮の要請が、自己に配慮する必要があるという原則が、文化の全体で受け入れられていたことを示したいのである。

これは思想の歴史における重要な出来事だったと思う。思想史では、思想の歴史においてある文化的な現象が実際に構成される瞬間、近代的な主体というわたしたちの存在様態にまでつながる瞬間を把握することが重要なのである。


○キリスト教における自己の配慮
さて、ソクラテスの人物と思想において非常に明確な形で登場したこの自己の配慮という考え方は、古代哲学の全体の期間からキリスト教の直前の期間まで持続する。さらにアレクサンドリアの霊性スピリチュアリテの思想にも再び登場する。フィロンでは、この自己の配慮が特別な意味で現れているし、プロティノスの『エンネアデス』の二書にも登場する。

さらにキリスト教の禁欲主義のテクストでも「身体の配慮」と「精神の配慮」の概念が登場している。ニュッサのゴレゴリウスの『処女論』のテクストでも、自己の配慮の概念が使われている。一三章のタイトルが「結婚の放棄とともに自己の配慮が始まることについて」なのである。グレゴリウスにとっては結婚を放棄して独身でいることは、禁欲的な生活の最初の形態である。自己の配慮が結婚の放棄の最初の段階とされていることは、キリスト教の禁欲のひとつの典型的な形式として、自己の配慮が採用されたことを示すものだ。
このように自己の配慮の歴史は、アテナイの人々に自己の魂の配慮を求めたソクラテスの人物から、結婚を放棄することで自己の配慮を始めるキリスト教の禁欲主義までの長い歴史があるのである。この歴史のうちに、自己の配慮は、最初の素朴な形から次第に複雑な形態のものとなっていった。この歴史について、フーコーはいくつかの点を確認している。


○自己の配慮の概念の一般性
□1)自己の配慮は一般的な態度の問題であり、ものの見方、世界におけるふるまい方、行動の仕方、他者とのつきあい方の問題である。自己の配慮は自己と他者と世界に対する態度なのである。
□2)自己の配慮は同時に、まなざしでもある。まなざしの向きを、他者や世界や事物から、自己へと向け変えることである。自己がなにを考えるか、思考の中でなにが起きるかに対する警戒の念がこの概念には含まれている。
□3)配慮epimeleiaはこうした態度とまなざしだけではなく、自己が自己に対して行う行動、自己を変えていく行動、自己を浄化し、自己を変身させるための行動を含むものである。そしてそこから、西洋の文化、哲学、道徳、霊性の歴史において、非常に寿命の長い一連の実践と活動が生まれることになる。たとえば省察の技術、過去の記憶の技術、両親の吟味の技術、精神の内部で起きていることに対する表象の検証の技術などが登場するのである。

この自己の配慮のテーマは、紀元前五世紀に登場し、紀元後の五世紀まで、ギリシア、ヘレニズム、ローマ、そしてキリスト教の霊性(スピリチュアリテ)の哲学の全体を貫く観念ということができる。そして表象の歴史だけでなく、主体性そのものの歴史において、主体性の実践の歴史において、非常に重要な現象である存在の仕方、ふるまい方、省察の仕方の実践の定義するひとつの総体が登場するのである。

フーコーはこの自己の配慮の概念を通じて、これからこの十世紀を考察するわけであり、重要な手掛かりを手にしたことになる。哲学的な態度から霊性の禁欲主義にいたるまで、同じ概念で分析できるわけだからだ。