フーコーの『主体と解釈学』読解

哲学と霊性


○自己の配慮が無視され、「汝自身を知れ」が重視された理由
さてフーコーはこの概念の重要性と、それがてがかり、導きの糸としてどのような意味をもつかを説明した後で、西洋の哲学史においてこの自己の配慮の概念がまったく無視された理由を考察する。自己の配慮の方が土台であるのに、「汝自身を知れ」という格言ばかりが重視されたのはなぜだろうか。

まずフーコーは「表面的な」(笑)理由から始める。それは自己の配慮のさまざまな定式化が、ポリスの政治、公的なものの重視という伝統からそれ、暗く、メランコリックに聞こえるからだという。そのために自己の配慮についてよく検討してみるという作業が行われなかったのだという。現在では自己の配慮がエゴイズムのように聞こえるとしても、以前は極端に厳格な道徳に対する積極的な原理としての意味をもっていたことをフーコーは強調する。

さらにフーコーは、この自己の配慮という原則がキリスト教の道徳と、近代のキリスト教以外の道徳の場において、まったく違う相で現れたことを指摘する。キリスト教では自己放棄の義務として、近代においては、他者に対する義務として、エゴイズム的でない一般的な倫理の文脈に移しかえられたのである。

フーコーは次にこうした道徳の歴史における逆説的な事態よりももっと本質的な理由を見つけたと考える。それは真理の歴史と真理の問題にかかわる原因である。フーコーは千年間も古代の文化の中心にあった自己の配慮という概念が占めていた場所が失われたのは、デカルト的な契機によるものだと考える。この契機は、「汝自身を知れ」という原則をまず哲学的に再び陽の当たる場所にもちだすと同時に、自己の配慮を日陰に追い込んだのである。

まず第一にこのデカルト的契機は、「汝自身を知れ」という原則を再登場させた。これは『省察』にはっきりと描かれている。デカルトの哲学の原則は、自己知の明証性にあったからである。もっとも確実な知、最高の真理の根拠は、自我の意識の明証性にあったために、「汝自身を知れ」という原則がなによりも優先されることになったとフーコーは考える。

○哲学と霊性
フーコーはここで哲学と霊性の違いを提起する。哲学とは真と偽について、なにが真理であり、何が偽であるかを問題にする。「哲学とは、主体が真理に到達できる条件について考察するものである。主体の真理への到達の条件と限界を決定しようとする思考である」(16)。これに対して霊性(spiritualie)とは、「主体が真理に到達できるために必要な変形を自己に加えることを目的とした研究、実践、経験」(16)である。

「知識のためにはではなく主体のために、主体の存在そのもののために、真理に到達するための代価となるような浄化、禁欲、放棄、まなざしの転換、経験の修正など、研究、実践、経験の総体を『霊性』と呼ぼう」(Ibid.)。フーコーはこの霊性には、西洋における形態として、少なくとも三つの特性があることを指摘する。

最初の特性として、「霊性の概念では、主体には真理がそのままで与えられないことを想定する。霊性は、主体はそのままでは真理に到達する能力も、権利もないことを想定する。たんなる認識の行為では、主体に真理が与えられないことを想定する。認識の行為は、主体が主体であること、あるいは主体の構造によって基礎づけられ、権利が認められているものである。主体があるところまで、ある程度まで自らを変え、変形し、ずらし、生成しない限り、そのままでは真理に到達する権利をもてないことを想定する。このように真理が主体に与えられるためには、ある代価が必要であると霊性は想定する」(17)。この特性によって、主体はある変身を経験しなければ、真理に到達できないことになる。

第二の特性は、この主体の転換や変身は、さまざまな形式をとることがある。ごく概略的にみて、二つの形式をあげることができるだろう。エロスとアスケーシスである。まず、主体は既存の条件と地位から引き抜かれる運動のうちにこの転換や変身を経験する。これは主体そのものの上昇の運動であり、この運動と逆の動きのうちに真理が主体を訪れ、照らし出す。フーコーはこれを少し無理がある表現ながら「エロス」と呼ぶ。

もうひとつの運動は、主体の労働である。主体が自己に働きかけて、自己を次第に作り替えてゆき、自己の鍛練(アスケーシス)をなしとげる。「エロスとアスケーシスは、西洋の霊性において、主体が真理を受け取ることができるようになるために、変身する二つの様態だと考えることができる」(17)。

第三の特性は、真理は主体を照らし出すという特徴がある。そして真理を受け取ることで主体は幸福になり、心の平静を獲得することができる。真理と主体のアスケーシスのうちには、主体を完成するという側面が存在する。霊性においては、認識だけでは不十分であることに注意しよう。主体の準備、作り替え、完成という行為が伴わなければ、本当の意味での真理に到達できないと考えるわけだ。

フーコーはこの霊性の概念にあてはまらない運動があることに注意を促す。グノーシスは認識という行為を過大なまでに重視して、真理への到達を至高の行為とする。グノーシスとは、「認識という行為のうちに、霊的な経験の条件、形式、効果を移そう」とする営みなのである(18)。

○古代における哲学と霊性
さて古代において哲学と霊性はそれぞれ異なる課題をそなえていた。哲学の課題は、「どのようにして真理に到達するか」であり、霊性の課題は、「真理に到達できるためには、主体そのものにどのような変身が必要であるか」だからである。しかしこの二つは切り離されることになく、重層して存在する。

ピタゴラス派でこれが分離されていなかったのは明らかである。ソクラテスとプラトンでも同じである。「自己の配慮」はまさに、霊性の条件のすべてを、主体が真理に到達できるために必要な条件としての自己の変身の総体を示すものに他ならない。

フーコーはピタゴラスからソクラテス、プラトン、ストア、エピクロス、新プラトン主義にいたる古代のすべての期間にわたって、真理にどう到達するかという哲学の問題と、真理に到達するためには、主体にどのような変身が必要かという霊性の問題が分離されたことはないことを強調する。

フーコーは、古代の哲学においてこれが分離された顕著な例外が存在することを指摘する。アリストテレスである。アリストテレスにとっては霊性はほとんど問題にならず、アクィナスが「哲学者」と呼んだアリストテレスが、西洋の哲学の意味での哲学の基礎を確立したのである。フーコーはただしアリストテレスは古代哲学の頂点ではなく、ひとつの例外であることを強調する。

○近代哲学の問題
さて近代になると、主体が真理に到達する条件は認識だけになる。これはデカルトの変革がもたらした大きな違いである。もはや主体のエロスも主体の鍛練も必要とされない。フーコーが「デカルト的瞬間」と呼ぶのはこの違いを示すためである。「真理の歴史において近代が始まるのは、真理に到達するために必要なのは認識であり、認識だけであるとされるようになった瞬間と言えよう」(19)。

もちろん無条件で真理に到達できるようになったわけではない。フーコーはその条件を二つの次元で示すが、そのどちらも霊性とはかかわりがないことが特徴なのである。この条件は内的な条件と外的な条件の二つに分けて考えることができる。

内的な条件とは、真理に到達するために守られなければならない規則と認識の行為の条件であり、形式的な条件、客観的な条件、方法の形式的な規則の条件、認識する対象の構造の条件である。これは真理に主体が到達するための内的な条件である。

外的な条件にはいくつかある。まずひとつの条件は、「狂気であってはならない」ということであり、デカルトがこのことを明示した。これは『狂気の歴史』で問題となり、デリダと激しい論争のあったところだ。次に文化的な条件がある。真理に到達するためには研究しなければならないし、教養をつまなければならないし、特定の科学的なコンセンサスに従わなければならない。

さらに道徳的な条件もある。真理に到達するためには、努力すること、人々を欺かないこと、金銭的な関心や経歴的な関心との結び付きが、利害関心を伴わないという基準とうまく整合することなどである。

この真理への到達の近代的な条件についての分析は、コレージュ・ド・フランスの開講演説『ディスクールの秩序』と似ているところがあるが、開講演説のほうがなぜかよく考えられているような印象をうける。内的な条件と外的な条件の分類がうまくできていないようであり、主体にとっての内的なものと外的なものと、真理への到達にとっての内的なものと外的なものがうまく配置されていないのではないか。狂気の否定は外的なものとされているが、これは真理の到達にとっては外的なものだが、主体にとってし内的なものだからだ。道徳的な条件についても同じことが言えるだろう。もっともフーコーのここでの主張の重点は古代にあり、近代の真理の条件ではないので、それほど整序していないのかもしれない。

このようにして主体性と真理の間に新しい関係が確立され、真理はもはや主体を「救う」ことはできなくなったわけである。真理の歴史において近代とは、主体は真理に到達できるが、真理は主体を救うことができなくなった時代として定義できることになる。