フーコーの『主体と解釈学』読解

プラトン以前のスピリチュアリテ


●自己の配慮の最初の場面における文脈
さて1月13日の講義が始まる。この講義の最初でフーコーは、これまでのことを振り返りながら、ソクラテス的な対話編において「自己への配慮」という掟が登場した文脈を探ろうとする。これにはほぼ四つの文脈があると考えることができるだろう。その前提となる背景は、ソクラテスの初期の対話編に登場する主要な人物は、アテナイのポリスの生まれのよい若者たちということだ。

その代表がアルキビアデスだ。生まれから統治者としての地位をそなえ、貴族的な階級に属し、巨大な富を所有している。このポリスでは、統治者となる資格は、政治的な才能よりも「生まれ」にあるわけだ。それだけによい統治が行えるためには、自己の配慮が必要となる。こうした若者たちが学ぶべき自己の配慮に特徴的な第一の文脈は、ポリスの統治のための必要性ということにある。自己に配慮するのは、他者を統治するためだ。

第二の文脈はすでに指摘されたように、教育である。アテナイの教育は、一貫性をそなえた厳格な教育で有名なスパルタの教育と比較して批判される。さらにこれは後期のプラトンに特徴的であるが、アテナイの教育は、専門の教育者が四つの徳を王に教え込むペルシアの教育と比較して批判される。

そして第三の文脈は、成人男性と若者のエロス的な関係についての批判である。この第三の点は、他のポリスや国家との比較ではないところで、フーコーのユニークな着眼である。フーコーはこれを後に若者愛のアンチノミーという概念で、もう少し別の視点から取り上げることになる。フーコーがここで重点をおいているのは、ソクラテスのテクストに即しながら、若者が指導を必要とする瞬間、若者に髭が生えてきて、これから政治の世界に入ろうとする瞬間に、これまで若者を追い回し、愛し続けてきた成人男性が、若者を見捨ててしまうのことである。そのために若者は、他者に頼るのではなく、自己に配慮することが必要になるわけだ。

フーコーはこの自己の配慮は、「他者の統治」という問題ではなく、「統治されてあること」という問題に結び付くと指摘する。しかしこの二つの問題系は互いに連関しているのは明らかだろう。ソクラテスの問いそのものがこの結び付きを前提しているからだ。三世紀から四世紀にキリスト教の教会のうちで司牧者権力が確立されるまでの長い期間を通じて、この「統治すること」「統治されること」「自己の配慮すること」の問題系が持続することをフーコーは指摘する。

さて第四の文脈は、もっともソクラテス的なテーマ、無知のテーマである。アルキビアデスは、ポリスのよき統治とはなにかというソクラテスの問いに対して、すぐに答えられると信じ込んでいた。しかし対話のうちで、それがたんなる思い込みにすぎないことを知らされる。アルキビアデスは善き統治を「和合」と定義するのだが、ソクラテスの尋問にあって、「和合」とはなにかすら、きちんと示せないのである。アルキビアデスは自分が無知であることさえ、知らなかったことになる。

●自己の配慮の年齢
フーコーは、ソクラテスがこの背景と文脈のもとで、「自己の配慮」の掟を提示するてつきに注目する。アルキビアデスは自己の無知に絶望する。その瞬間に慰めるように、ソクラテスは五十歳になってからでは遅いが、いまなら自分自身に「心掛ける」、自己に配慮することの重要性に気付くべき年齢だと語るのである。

それでは若者が自己の無知を自覚して、まだ若いと慰められたならば、ふつうはどうするだろうか。フーコーは『プロタゴラス』にその答えが語られるというが、どちらかというと『ゴルギアス』の答えの方が該当するだろう。ともかく、ソクラテスの答えは、君はまだ五十歳になっていない。だから、ポリスを統治することを学び、人々を説得することを学び、この権力を行使するために必要な業を学ぶだけの時間的な余裕は十分にある。だから自己に配慮すべきだというものだ。

フーコーが注目するのは、五十歳になっていないから「学ぶべきだ」というのは、十分に予期できる答えだが、その結論が「自己に配慮せよ」という命令として示されるのは、意外であるということだ。そこにはひとつのギャップかある。パイデイアという学びと教育としての自己の鍛練と、自己の陶冶、自己の配慮としての自己の鍛練の間に開いているこのギャップのうちに、ひとつのゲームの空間が開かれるのであり、ここに古代における哲学とスピリチュアリテの関係にかかわるあらゆる問題が生まれてくることになる。

フーコーはこのように今年の講義の全体のテーマを提示するが、先に進む前に、テキストの時間的な順序の問題を検討する。この自己の配慮の課題は、自己とはなにか、配慮するとはどういうことかという二つの問いで構成されている。そしてこの問題が問題として初めて提示されたのはプラトンのテクストにおいてである。しかしこの自己の配慮の実践の総体は、歴史的にはもっと古い土台を備えており、プラトン以前、ソクラテス以前のテーマであり、実践である。

●プラトン以前のスピリチュアリテの実践
スピリチュアリテのテーマ、すなわち真理に到達するためには、主体がなんらかの鍛練を経る必要があるというテーマは、プラトン以前に根差すものなのである。これについてはフーコーはいくつかの実践を簡単に列挙している。
[1]浄化の儀礼。まず自己を浄化してでなければ、神に近付くことはできない。犠牲をささげることもできない。神託を聞くことも、神託の意味を理解することもできない。夢を解読することもできない。浄化は神に近付くため、そして神が語る真理に近付くために必要な手続きである。この浄化のテーマは、古典期のギリシア、ヘレニズム期のギリシア、そしてローマの世界でもよく知られていた。自己を浄化しなければ、真理を所有する神との関係を結ぶことはできないのである。

[2]魂の集中の技術。魂は動きやすいものだと考えられていた。魂は外部のものによって影響され、動かされる。この魂、プネウム、息吹が発散するのを避ける必要がある。外部から危険が訪れ、魂を攪乱しないようにしなければならない。魂を集中し、固め、障害にわたって抵抗し、長続きし、永続するようにするための技術が必要である。そして死の瞬間に魂がさまよいできないようにする必要がある。

[3]隠遁の技術。ギリシア語ではアナコレーシスというが、古代的な自己の技術の意味での隠遁は、世界のうちにありながら、世界の外部との接触を断つことである。感情を感じ図、周囲で起こることによって動かされず、なにもみないかのように、そして目の前にあるものを実際に見ないようにする技術である。そこにいながら、そこにいない。

[4]耐久の実践。これは誘惑に抵抗し、苦痛な試練に絶えることができるようにするものであり、魂の集中の技術やアナコレーシスの技術と結び付いて実行される。