フーコーの『主体と解釈学』読解

自己の配慮の三つの軸




ピタゴラス学派の実践

 フーコーはこれらの自己の技術がすでに古代のギリシアに存在していたことを指摘する。これは長い間、その後の文明にも痕跡を残している。そしてピタゴラス主義の禁欲的な流れにおいて、これらの実践は哲学的、宗教的な運動に組み込まれていたのである。フーコーはピタゴラス派の運動の中で、後世まで長く影響を残した二つの実践を実例としてあげている。

 ひとつは、夢をみる前の準備としての浄化である。ピタゴラス派にとっては、眠る間にみる夢は、神的な世界との接触を意味していた。不死の世界、真理の世界と、夢において接触するために、夢をみる前には準備が、浄化のための儀礼が必要なのである。その浄化の方法としてフーコーは、音楽を聞くこと、香をかぐこと、そして良心を点検することなどをあげている。一日を振り返って、自己の犯したすべての罪を点検し、記憶を点検することによって自己を浄化するという営みは、ピタゴラス派の実践として有名だった。

 もう一つは、吟味という方法である。自己の周囲に誘惑的なものを集めて、それに抵抗できるかどうかを調べるのである。自己を試練にかけるというこの方法も、ピタゴラス派のものとして知られている。フーコーはこれは時代をさかほのぼるが、時期が遅くなるとますます厳しいものとなったことを指摘している。その証拠がプルタルコスの『ソクラテスのダイモーン』である。

 これはフーコーが『自己の配慮』で繰り返しのべている有名な例だ。激しい運動をして、すっかり空腹になり、その後で豪華な食事が並べられたテーブルの前で、食事を眺め、省察する。そして奴隷を呼ぶ。奴隷にこの食事を与え、自分では奴隷の食事、ごくつましい食事でがまんする。

 このようにプラトンがepimeleia heautouの概念を提示する以前から、ピタゴラス派を中心として、さまざまな自己の配慮の技術と実践が行われていた。だからプラトンのテクストにおいても、こうした実践の痕跡ははっきりとしている。『パイドン』では、オルフェウス教えの古い伝統であり、ピタゴラスが受け継いだヒエロス・ロゴスをかりながら、「なるべく魂を肉体から分離し、肉体のどこからも、ただそれだけがそれだけで寄せ集められ、いっしょにされ、現在においても将来においても、ちょうど鎖からのように、肉体から解き放たれて、できるかぎりただそれだけで住む習慣をつける」(67c)ことが目的とされ、この肉体からの魂の解放と分離が「死と呼ばれるもの」ではないかとソクラテスが語っている。

プラトンはこれをカタルシスと呼んでいるが、フーコーはこれが隠遁のアナコレーシスと同じ意味をもつ実践であることを指摘する。『パイドン』では哲学の営みは、「目による探求も、耳やその他の感覚による探求も、欺瞞に満たされていることを示し、使う必要のない限り、これらから身を引き(アナコーレイン)、自己自身に沈潜するようにと勧める」ことにあると語っているからである(83a)。

 フーコーは『饗宴』の戦の場でのソクラテスがまさにこのように、他のものから隠遁して、不動になっていたことを描いていることを指摘するが、編者が指摘するように、これは『饗宴』でのアルキビアデスの描いた戦場でのソクラテスと、饗宴の戸口で固まってしまったソクラテスの混同である。戦の場ではソクラテスは裸足で勇敢に戦い、アテナイではイモーンにつかまって、動かなくなっていたのである。ただしソクラテスのダイモーンの問題は複雑であり、自己の配慮と考えることができるかどうかは疑問もある。フーコーはさらに、『饗宴』でアルキビアデスが描いたソクラテス、性の誘惑に抵抗するソクラテスを自己の配慮の一例としてあげている。

 さらにこの自己の配慮は古代からローマまでのギリシア、ヘレニズム、ローマのすべての時期を通じて重要な意味をもっていた。フーコーはとくに魂の平静、ストア派ではアタラクシアと呼ばれた目的に注目する。そのためにはさまざまな技術が使われたが、すでに指摘されたアナコーレーシスという技術は、ストア派で完成された。外界の出来事から動かされない魂を作り出す技術である。この技術はとくにマルクス・アウレリウスにおいて、anakhoresis eis heaton、自己への沈潜として吟味される。

自己とはなにか

しかしフーコーが強調するのは、古代からのこの自己の配慮の技術が、プラトンとソクラテスにおいて哲学的に大きく作り替えられたということである。プラトンとともに、自己の配慮の新しい形式が登場する。この点を考えるために、フーコーは『アルキビアデス』でソクラテスが「だから自己に配慮しなければならない」と語る場所に注目する。ここでソクラテスは突然、疑問に捉えられるというのである。そもそも自己に配慮するというのは、どういうことなのか。

靴屋は靴に配慮する。医者は身体に配慮する。しかしだれも自己そのものには配慮しないようである。この自己の配慮の問題をもう一度考える必要があるとソクラテスはアルキビアデスに指摘する。この問いは自己とはなにか、配慮とはなにかという問いである。しかしこの対話の最初から、この問いは自己だけにかかわるものではないことが前提となっていた。アルキビアデスは道徳を、修身を模索しているのではない。他者とポリスを統治することを求めているのである。自己の配慮は他者の統治の技(テクネー)を目的とする。自己の配慮の問いは、他者の統治の技術につながる形で問われる必要がある。

そのような解が得られるように、この問いを検討してみよう。まず自己とはなにか。フーコーはこの問いは、デルフォイの神殿に掲げられた命令「汝自身を知れ」と結び付いていることを指摘する。ソクラテスもアルキビアデスにそのことを指摘しているのだ。この対話編で、この掟が登場するのはこれが二度目である。

最初は、アテナイの政治家とペルシアやスパルタの指導者を比較して、「汝自身を知れ」という格言がもちだされたのだった。そこでは心掛けと技術でこれに対抗することが語られていたが、これが自己の配慮である。自己を知ることで自己の配慮の必要性が提示されたのが最初のきっかけだった。この最初のところではこの掟は、簡単に触れられているにすぎない。まだ汝自身がどういうものかは問題とされていないのである。

しかしこの二度目のところでは、格言は格言としてではなく、汝自身の「自身」を問題にするために提示されているとフーコーは指摘する。これがとても大事だと。本文は次のように訳されている。「すると、実際自分自身を知るということは容易なことであって、ピュトにある神殿へこの言葉を奉献した人は誰か下らぬものであったのか、それともたいへん難しいことで、誰にでもできることではないのか」(129a)。

この自身の問いは、奇妙な性格をそなえている。自己が自己について配慮することだからだ。自己は主体であり、同時に客体でもある。この自己とはなにか。プラトンのさまざまな対話編で語られているように、自己とは身体でも所有物でもなく、魂プシュケーである。

フーコーは『アルキビアデス』でこの配慮すべき自己に到達するプロセスは、『国家』とは逆であることを指摘する。『国家』では、正義について問いながら、それをまず魂について考え、次の身体と国家のアナロジーに基づいて、国家について問う。これに対して『アルキビアデス』では、魂は国家へとつながる通路ではない。逆にアルキビアデスは、国家と他者の統治を最初の目的としながら、究極の目的である自己の配慮に導かれる。国家か通路であり、魂が目的である。

もちろん魂の配慮が国家の統治の前提であるという意味では、国家の統治が最終の目的である。そして自己の魂を考察、その探ることが国家の統治につながるという意味では、『国家』と構造は同じである。しかしその方向は逆転しているのである。この対話では自己は魂であるという結論に到達するが、ぼくはここで二つのことに注目したいと思う。ひとつは人間は、身体か、魂か、その両方かという問いをソクラテスが提起して、ソクラテスは魂と身体の両方ではありえないと語ることだ。ぼくたちからみるとこのまっとうな解答は、ソクラテスには受け入れられない。もちろんオルペウス教のように魂が身体という牢獄、墓に閉じ込められていると考えるプラトンには、身体と魂の両方を人間とすることはできないだろう。

しかしそれについて注目したいのは、フーコーが指摘しているように、ソクラテスは自己の問いをとうために、まずロゴスについて問い掛けていることだ。そしてソクラテスはこの問いから、ロゴスとロゴスを使う者の非同一性を引き出す。ロゴスは自己ではない。そしてこの議論がそのまま身体に接続される。身体は自己ではないと。身体を自己から排除するために、ソクラテスはロゴスを経由していることに注目したい。

さてフーコーの指摘にもどろう。フーコーはここで取り出される魂が、身体という牢獄のうちに閉じ込められた魂(パイドン)でも、翼をもち、イデアへ向けて進める必要のある魂でも(パイドロス)、階層構造をもち、調和させる必要のある魂でもない(国家)ことだ。ここでは魂は、「使うもの」である。se servir deというフランス語は、seという語をもつ。この語は日本語には翻訳できないが、それが自身に反照するものであることを示すものだ。j'utiliseの場合にはない含みが存在するのだ。

フーコーはこの語はギリシア語ではkhrestai(khraomai)であることを指摘する。この語は「使う」という意味であるが、神に対して使うと、神とよい関係を保つことであり、怒りとともに使うと、怒りにみをまかせることになる。単に道具的に使うのではなく、自己との関係がつねに問題になるという意味では、j'utiliseよりも je me sers deに近いのである。

フーコーはプラトンがこのクレーシスという語を使う時には、実体としての魂ではなく、自己にかかわる主体としての魂であると考えている。クレーシスはストア派では重要な概念になる。エピクテトスでは、khresis ton phantasion、表象の利用は、人間が神的な由来をもつことを示すものであり、クレーシスが基本的な概念となる。

自己の配慮の三つの契機

さてフーコーは、この対話において三つの契機が否定的な文脈で登場することに注目する。これは配慮する技ではあるが、本当の魂に配慮する技ではないと否定される技術である。順に医者、家の管理者、若者を愛する者である。医学、経済、若者愛という三つの技である。

医者は診断し、病を治療することができる。しかし医者は自己の魂に配慮するのではなく、他者の身体と自己の身体に配慮する。この技術は主体と対象がことなるのである。次に家庭のよき父親、企業の持ち主は金銭について配慮するが、自己に配慮するのではなく、所有物について配慮するのである。若者を愛するものは、若者を配慮するか。若者愛をする者は若者の身体しか配慮しない。若者愛者は医者や世帯主とは違って魂を配慮するかのように、他者の自己に配慮するかのようにみえるが、実は配慮しているのは客体としての身体であり、その身体の主体である魂にはだれも配慮しない。

ソクラテスが登場するのは、若者愛者が若者たちに配慮しなくなる瞬間であり、アルキビアデスには髭が生え始める。これはアルキビアデスが自己の配慮の問題をきにかける可能性が生まれた瞬間である。そしてソクラテスは若者愛者たちとはことなり、客体としてのアルキビアデスには配慮しない。ソクラテスが配慮するのは、アルキビアデスがいかにして自己に配慮するかである。

「…ソクラテスが配慮するのは、アルキビアデスを愛する者やアルキビアデスを追いかけていた人々とは異なり、アルキビアデス自身、アルキビアデスの魂、行動する主体としてのアルキビアデスの魂である。もっと正確にいえば、ソクラテスはアルキビアデスが自己に配慮する仕方について配慮するのである」(58)。

フーコーは自己の配慮における「師」の位置がここに示されていることを指摘する。自己の配慮は、自己だけで行われるものではなく、つねに他者、「師」を通じて行われるとフーコーは考える。「師の存在なしに、自己の配慮はない」とまで、フーコーは指摘する858)。師とは、他者の自己の配慮に配慮する人物である。これはアテナイのアブとしてのソクラテスと同じ逆説的な位置である。自己の配慮の師は、自己に配慮しない。

しかしこれはすぐにいいすぎであることがわかる。アテナイのアブとしてのソクラテスとはことなり、アルキビアデスのソクラテスは、アルキビアデスにとっての「モデル」となる。これがおもしろいところだ。ソクラテスはこの対話編の要所で、アルキビアデスの自己の配慮は、ソクラテスにとっても重要なことであることを指摘する。この対話の課題は、「われわれがこの上なく優れたものになることができるか」ということであり、アルキビアデスの回心だけがテーマではないのである。

ソクラテスが自己の配慮を示すことで、アルキビアデスが自己の配慮を学ぶことが必要なのである。そしてそのためには、ソクラテスはアルキビアデスに手をだしてはならない。若者愛の弁証法が展開する必要があるのだ。三つの逆説的なソクラテスがいるというべきだろう。アテナイのアブとしてのソクラテス。アルキビアデスの見本としてのソクラテス(弁論)。第二は手本として自己の配慮を示すことで他者に配慮するソクラテス。第三は試金石となることで、自己の配慮の必要性を明らかにするソクラテスである(ラケス)

フーコーは最後に、この自己の配慮が通過した三つの契機、医学、経済学、若者愛の検討は、重要な意味をそなえていることを指摘する。フーコーの『快楽の活用』がこの養生術、家庭管理術、若者愛という三つの契機を経るのは、ここに由来すると考えることができるだろう。

配慮すべき身体の問題は養生術として、食餌療法として登場する。これはヘレニズムからローマの時代を経て、長いテーマとなる。自己の配慮を自己の身体を経由する問題として考えること。「養生術、身体と魂の実存の一般的な体制としての養生術は、自己の配慮の根本的な形式のひとつとなる」(59)。

さらに家庭管理の問題。家族の父親として、妻の夫としての自己の配慮の問題が登場する。エピクロス派ではこの二つの問題をできだけ分離しようとするが、ストア派では、これをしっかりと結び付けようとする。

そして若者愛の問題。ローマまでの長い期間を通じて、エロスと自己の配慮を切り離そうとする運動が続く。フーコーは自己の配慮が西洋の文明の中心に登場するとともに、エロスは危険でいかがわしいものになることを指摘する。ともかくここに自己の配慮の長い問題系の三つの軸が登場するわけである。