レヴィナスのタルムード解釈と西洋の形而上学批判の道筋(二)

(中山 元)

第五節 レヴィナスの形而上学批判
 さて、この動物の国家のイメージに関連してレヴィナスがやんわりと暗示しているのは、ギリシア以来の西洋の形而上学が、この動物的な生への固執を重要な源泉としているということである。このタルムードの解釈でも、挿話的にギリシアが登場する。というのは、ダニエルのみた夢で、雄羊を倒す雄ヤギは、ギリシアのことであるとダニエル書では語られているからである。

 ヘレニズムの帝国は、マケドニアのアレクサンダーの作った王国であり、ダニエルがみたヤギに生えている四本の角が、ヘレニズムの四王国を示すのは、明らかだろう。しかしレヴィナスがここで注目するのは、これは単にヘレニズムの王国だけではなく、ギリシアの哲学と叡智そのものを指しているということである。

 このあたりについては、レヴィナスの『超越と知解可能性』も参照していただきたいのだが、レヴィナスにとっては西洋の形而上学と哲学はギリシアの「叡智」から生まれたものであり、この叡智は実は宗教的な魂と道徳性を滅ぼす可能性のある叡智として考えられている。論理学と推論と真理が、国家の目的のために、人間の生存の目的のために利用されると、それが一つの民族を滅ぼす道具となることがある−−レヴィナスはそう考えている。アウシュヴィッツがその一つの証拠であると。

 ギリシアの哲学の精緻さが、動物的なエネルギーと矛盾しないものとして存在しうるということである。抽象的な科学がいかなる悪の目的にも利用できるように、真理の理論である西洋の形而上学も、そのままではいかなる目的にも利用できるという性質をそなえている。真理がテロルの道具と化すことも実際にあるのである。

 そのことをレヴィナスは次のように表現する。
   ギリシア、アレクサンダーの帝国。地中海をヘレニズム化した哲学的
   で芸術的な文明−−これは西洋の基本的な契機の一つです。そしてそ
   れが幼き獣たちの作品であるかもれしれないのです。生命の力は、他
   者を考慮することなき戯れにおいて、倫理的な意図のない繊細さと洗
   練に転じることができるのです(*1)。

 この西洋の哲学の根幹にあるギリシアの文明は、生に対する動物的な固執を失わない文明であり、存在することを重視する存在論的な哲学を背景にしているとレヴィナスは考える。ここでレヴィナスがヘーゲルとハイデガーをひとまとめにして批判していることは、他の文章からも明らかだろう。

 真理(アレーテイア)が、覆いを取り去って存在そのものの実相を明らかにすることだと主張したのは、ギリシア哲学に依拠したハイデガーであり、論理の構造のうちに絶対知が宿ると考えたのは、ヘーゲルである。ヘーゲルの哲学は他者を否定し、体系と全体性こそが真理を生み出す可能性を提供すると考える哲学であり、レヴィナスの観点からは、この二つの哲学は、ギリシアの哲学の重要な帰結にみえるのである。

 すでに指摘したように、レヴィナスはこの西洋の形而上学の体系の基本にある考え方は、盲目なまでに動物的な生きる意志のようなものだと考えている。この生きようとする意志を体現するものと考えられたのが、スピノザの哲学であり、それを象徴するのがコナトゥスの概念である。

 コナトゥスは、生物の生きようとする意志と欲望を概念化したものである。ドゥルーズはこれを肯定性の哲学と呼んでいた。ドゥルーズ自身の哲学も、いかにして否定性からではなく、肯定性から哲学を可能にするかという視点を軸にするものだったといえるだろう。

 これに対してレヴィナスが対峙させるのが、ユダヤの教えである。レヴィナスが提示するユダヤの教えは、人間の欲望の肯定性の哲学に批判を向ける教えであり、存在論よりも正義と道徳性を重視しようとする哲学である。同時にこの哲学は、真理の全体性のうちにすべてのものが包括されることを拒む哲学であり、体系や社会に対して「他なる存在者」の価値を考え抜こうとする哲学である。

 ユダヤ教の哲学が実際にそのような哲学であるかどうかは、ここではそれほど重要な問題ではない。聖典の解釈によっては、どのような理論も導きだせるというのが、タルムード解釈が教えた重要な教訓だからである。だからレヴィナスの思想を理解するために、ユダヤ教の理解は重要であるが、ユダヤ教をいくら学んでも、レヴィナスの思想を理解することはできない。日本のレヴィナス「学」の一部に、ユダヤ教の理論を過剰に重視する見方があるだけに、このことを指摘しておきたい。

 重要なのは、レヴィナスの観点からは、ドゥルーズの欲望の肯定性の哲学は、存在することそのものを肯定する哲学であり、ハイデガーの存在論やギリシアの存在論とも通底するところがあるということ、そして体系の哲学は、自己の外部に他者を認めることを否定する哲学であり、テロルの可能性を秘めた哲学だということである。

 これはユダヤ教の哲学に依拠しながら、レヴィナスが独自に作り出した視点であり、哲学的に重要なのは、このレヴィナスに固有の考え方の方である。ユダヤ教は、レヴィナスのこのような「他なる思考」の可能性を教えたという意味で重要なのである。ユダヤ教の哲学は、このような「他なる思考」の可能性の一つであり、ブランショの言葉を借りれば、「外の思考」の可能性は、ユダヤ教の哲学以外に限らない。

 さて、このレヴィナスの考え方に対しては、すでにデリダがヘーゲルの理論の側から批判を加えている。また欲望を否定する理論のもつ危険性については、フーコーが『全体的なものと個別的なもの』など、司牧者権力論を通じて批判している。

 デリダが暗に指摘していたように、ディスクールの場においては他者もディスクールの全体性の中に包合されるのであり、その場を否定することは、逆の意味でのテロルにつながる可能性をそなえている。またレヴィナスの理論自体が、一つの司牧者の理論へと転化する可能性を秘めているのもたしかである。

 しかしレヴィナスの哲学には、こうした重要な「難点」が存在するにもかかわらず、つねに新しい思考へと誘いかける力をそなえている。レヴィナスはユダヤ教えの哲学によって、現代における「外の思考」の一つの重要な可能性を提示しているのである。そこにわたしたちがレヴィナスを読み、レヴィナスが提示した考え方の意味を何度でも考え直す価値があるのだと思う。

第六節 もうひとつの「法」
 ところで、レヴィナスの考えるユダヤの教えからは、国家の法律とは異なる別の「法」が誕生する。これは西洋の近代法の一つの根拠となった自然法の思想を別の形で蘇生させるものだと考えることができるだろう。この法は、すべての人に対して、すべての人の間で存在する「法」であり、国家の法に依存しないと考えられているからである。この「法」の意味について、少し考えてみよう。レヴィナスではこの「法」は、道徳性と切り離しては考えられない。

 レヴィナスがこのタルムードの断片の解釈において提起した第二の重要な論点は、道徳性の問題だった。すでに述べたように、ペルシアは神殿を再興したから、ペルシアがローマを滅ぼすとされていた。ここでは単に歴史的な事実ではなく、道徳的な解釈が含まれている。だからこれは「強い解釈」と呼ばれていたのである。

 ここでの道徳性とは、カント的な道徳ではなく、古代的な道徳の意味が強い。道徳や倫理とは、社会の風習やエトスから生まれた語であり、ペルシアはイスラエルの風習やエトスを尊重し、宗教を尊重したのである。これに対してローマ帝国は、このような配慮を示さなかった。だからペルシアの方が「道徳的」と判断されるのである。

 ここで、それまでの動物性の概念から道徳性の概念に転換が行われることに注目しよう。人間や生き物の生きる意志に基づいた国家の概念とは異なる道徳的な国家の概念が提起される。この道徳性は、他なる社会に対する尊重と敬意に基づいたものであり、他者への配慮に支えられている。生きること、そのことには本来はいかなる「価値」もないのである。価値が生まれるのは「よりよく」生きることにおいてでしかない。

 レヴィナスは、この道徳性の概念が、ギリシアの「叡智」には欠落していることを指摘している。文化そのものは、一つの価値があるが、それは道徳性を欠如して栄えることができるものであり、このような文化は一つの「野蛮」である。
   文化的な概念は、動物のイメージが示唆するものを通じて、生物の力
   の純粋な展開に立脚するものであるならば、そしてこうした生物の力
   に口輪をはめるために、外部から訪れるの道徳を欠いているな
   らば、その野蛮な起源に回帰することになるでしょう。このようにし
   て理解されたギリシアの勝利は、ペルシアの勝利と同じことになるで
   しょう。道徳なき文化は、みかけだけのもの、ひとを欺く脆い上部構
   造、神秘化であり、偽装にすぎないもです。それ自体はひとつの美学
   ですが、結局のところは真摯なものでも、十分なものでもありません。
   タルムード学者がつねに考えてきたように、そこにはレトリックと純
   粋な慇懃さの可能性があります。これは残酷さと悪意を包み隠した 
   「宮廷の言語」、洗練の極である脆弱さであり、アウシュヴィッツに
   おいてその結末を迎えかねないのです(*2)。

 長い引用になったが、重要なのはこの「外部から訪れる法」がどこから、どのようにして訪れるかである。実はここでレヴィナスの思想がひとつの重要な試練を受けることになる。レヴィナスのテクストでは、この外部とはローマやペルシアにとっての外部であり、それがイスラエルだからである。

 もしも普遍的な歴史をローマから展開される西洋の歴史だと定め、この普遍的な歴史に対抗しうる別の歴史(「聖史」)をイスラエルの歴史だとすると、それではユダヤ教とイスラエルは西洋の野蛮に対して、つねにその特権的な裁きの地位を確保できることになる。

 ここはレヴィナスの思想の質が試される場所である。レヴィナスはユダヤとはひとつの「様態」であると述べる。自分をユダヤ人であるというアイデンティティをもつかどうか、あるいは人種的にユダヤ人の「血」が混じっているかどうかがではなく、歴史においてひとつの独自の「様相」を呈する時に、それをユダヤと呼ぶというのが、レヴィナスのユダヤ人の定義である。普遍的なものに対する外部の視線を「ユダヤ」と呼ぼうというのが、レヴィナスのこの思想には含まれる。

 しかし同時にレヴィナスがイスラエルのシオニズムを擁護しているのもたしかであり、西洋の普遍史に対するイスラエルの歴史、ユダヤ人の歴史の特権性を擁護しようとしているようにみえる場合も多い。ここにレヴィナスの思想の危うさがあると言えるだろう。このような政治的なイスラエルの擁護と同じ文脈において、西洋の形而上学を批判することは、思想としてはローカルな場所に落ち込んでしまうことになりかねない。

 それは西洋の形而上学をたとえばインドの思弁(ギリシアと異なる論理学)、中国の倫理学(キリスト教と異なる道徳体系)、日本の美学(陰影の美学)などを根拠に批判することと同じ位置に立つことであり、そこではわたしたちがレヴィナスの思想について考える理由の多くが失われてしまうからである。

 もちろんレヴィナスの哲学は、このような単線的な批判を許すものではない。しかし晩年のフッサールが西洋の哲学の人類的な優位を主張したものと同じ考え方が、レヴィナスの思想に形を変えて潜んでいないとは断言できない。レヴィナスの思想を考察するにあたっては、そのことにも十分な目配りが必要だろう。逆にいえば、この問題をわたしたちに突き付けるところにも、レヴィナスの思想のおもしろさが含まれるともいえるかもしれない。

第七節 ユダヤの叡智
 「最後に残るものは誰か」という講義をめぐって、少し寄り道をしてしまったが、タルムードのテクストにおける弁証法的な対話の結論は、意外にもローマがペルシアに勝利するというものであった。その根拠はすでに述べたように二つあった。神殿の再興という「道徳的」な根拠と、「王」の意志という根拠である。

 最初の道徳的な根拠については、結局はいずれの帝国も潔白ではなく、同じ不道徳な行為に手を染めていることが指摘された。これは最終的な判断の論拠とはならないのである。ここで提示されるのが「王」の意志である。この「王」とはユダヤの王、ダビデの再来と考えられていることからも明らかなように、ここではメシア的な思想が含意されている。かつて一度王であったダビデが、その子孫として到来する終末の時期を目指して、いま、ローマの勝利を「意志」するのである。

 歴史を一つの不可逆的な直線のようにみる西洋の伝統的な歴史観とは異なるユダヤ教のこうした歴史的なみかたは、たとえばベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』にも姿を現していて興味深いが、ここではこの問題にはふれまい。ここで注目したいのは、ローマが「法の国家」として、ペルシアの動物性よりも高い位置を与えられていることである。

 ローマ法の基礎を形成したローマ帝国を「悟性国家」として高く評価するのはヘーゲル以来の伝統であるが、レヴィナスがここで示しているのは、それとはもう少し異なる視点である。それは法というものは、理性的なものというよりも「悟性的な」ものにすぎないとしても、人間の関係においては法と法に支えられた国家関係が必須であり、それは「自然状態」よりも高い価値をもつということである。

 ここにはレヴィナスのユニークな思想があるというべきだろう。それが動物性と手を切れないとしても、道徳性においてはローマの法の抽象性よりも高度にあると考えられるペルシアの王国は、滅びよとメシアは望むのである。   ローマが世界の果てまで拡大することが、正義にとっても、メシア的
   な平和そのものにとっても必要なのでしょう。その悪辣さにおいて、
   ローマは西洋の秩序を開始するのです。ローマは、戦の力の展開や、
   存在が野蛮な生命性において開花する以上のことであり、それよりも
   善いことです(*3)。

 ここではレヴィナスは、メシアの到来の前に、悪が極まっていることを望むユダヤ教の宗教的な文脈を否定せずに、それを一歩乗り越えようとする。法は否定されるためだけにあるのではなく、それ自体で「善」である。法の抽象性は、生の道徳性よりも高次なものである。

 もちろんこれをヘーゲル的な弁証法として考えることは可能だろう。ヘーゲルが『キリスト教の運命』で提示した「運命」の概念と、ここでの法の概念は似ているし、ヘーゲルの愛の概念とレヴィナスの道徳の概念は共通するところがある。さらにヘーゲルの道徳と倫理の弁証法の裏の像をここで描くことも可能だろう。

 初期のヘーゲルは、共同体の生の倫理がソクラテスのダイモーンに象徴される個人的な道徳の概念によって否定され、この道徳性がやがて人倫の概念において初発の倫理と道徳性を統合する形で高度のものとなるプロセスを描いている。レヴィナスはここではその逆に、生の動物的な道徳性が抽象的な法によって否定され、それが人間の個別の道徳性という形で高度なものとなるというプロセスを描こうとしていると考えることもできる。

 しかしレヴィナスの国家と法の思想の面白いところは、これがそのような弁証法的なプロセスにおいて否定される契機だけとして登場していないところにある。人間の他者との道徳的な関係に対して、法は外部から否定的に作用するようにみえる。しかし法と国家なしでは、「人間たちは生きたまま互いに貪り合う」のである。道徳哲学は、この事実を基礎とすべきだとレヴィナスは考える。

 ここにギリシアの叡智と異なる種類の叡智が示されていると考えるべきだろう。それは公共的で合理的な論理とは別の脈絡を形成しながら、人間にとって肉体的な部分、合理性によって解決できない部分の存在を直視する。そして動物としての人間が「互いに貪り合わない」道、道徳性を合理性で支えられない場所において、人々が互いに折り合いをつける方途を探す哲学である。

 西洋の合理的な政治哲学がもたらした帰結の一つがアウシュヴィッツだというレヴィナスの主張が正しいとすれば、レヴィナスの哲学が模索するのは、西洋の形而上学の伝統である合理性とは異なる文脈で、しかも単なる道徳性を訴えることなく、人間が共に生きる場を形成する可能性だと言うことができるだろう。

(*1)Au de la de verse, p.79, JT:106(『聖句の彼方に』)
(*2)Au de la de verse, p.80, JT:108
(*3)Au de la de verse, p.85, JT:115