書評:レヴィナス『外の主体』
(中山 元)

 レヴィナスの著書のタイトルにはいつも感心させられる。レヴィナスは多くの著書に、実に運動性のあるタイトルを選んでいるのである−−『実存から実存者へ』『存在することの彼方に』『われわれの間で』、そして本書『主体の外に』。

 レヴィナスが自著のタイトルにこのような運動性のあるタイトルをつけるのは、レヴィナスの思考が、つねに自我の至高性を越え出てゆく運動として考えられているからだろうか。この『外の主体』は『固有名』に続く哲学者論集であるが、この書物に収録されたジャンケレヴィッチやローゼンツヴァイクなどの哲学者たちの文章は、どれもこうした主体の外へと超え出て行く思考の運動の軌跡として考察されているのである。

 それを代表するのが、本書の三分の一ちかくの分量を占めるブーバー論だろう。レヴィナスは、ブーバーの「我と汝」の概念によって開かれる他者との関係には違和感を感じつづけてきた。他者を「それ」ではなく「汝」として捉えることの重要性を主張するブーバーの哲学では、他者との間に平等な相互性の空間が開かれるが、レヴィナスは他者との関係はそのような相互的なものではないと考えるからである。

 しかしレヴィナスは、ブーバーが「我と汝」のような他者との関係そのものを哲学の基本的なカテゴリーとしたことに敬意を払っている。これは近代の哲学の基本的なパラダイムであった主体−客体の哲学からは、考えることもできなかったようなカテゴリーだからである。ブーバーの哲学には、主体−客体の関係を超え出て行くような運動性が顕著なのである。

 しかし特に注目されるのは、ド・ヴェーレンスの追悼文において、これまでレヴィナスが批判し続けてきたフロイトとラカンの精神分析が、人間の条件の悲惨さを見据えた「人間の精神性についての根本的な探究」として評価されていることである。レヴィナスはある会議において、自分の哲学と精神分析の営みの共通性を認める発言を行っているが、レヴィナスの『実存から実存者へ』から『全体性と無限』にいたる著作は、主体が客体との関係ではなく、他なる主体との関係においてどのようにして形成されるかを追求した精神分析のテーマと共通した課題を追い続けているのである。

 また、メルロ=ポンティの受肉論の限界を論じた「間主観性について」の文章は、現象学と間主観性の理論の深みにまでまなざしを届かせているし、体系を排棄する反・哲学者ヴァールの追悼文も印象深い。他者の他者性を尊重しながら、「人間によって人間になされるもてなし」を重視したレヴィナスらしい文章が集められた好著である。

注:これは『現代詩手帖』1997年5月号に掲載された書評である。