メルロ=ポンティと現象学
『知覚の現象学』を読む(一)
(中山 元)

第一節 メルロ=ポンティにとっての現象学
 メルロ=ポンティは『知覚の現象学』の序文の冒頭で、フッサールの死後50年も経過したこの時点で、現象学とは何かがまだ問われるということは不思議ではないかというレトリカルな問いを掲げる。この問いがレトリカルなのは、メルロ=ポンティ自身が現象学の「あいまいさ」に同感していると同時に、そこに現象学の魅力を見いだしているためでもある。

 そしてこれはフッサールの理論そのものにつきもののある本質的な要素といってもよいといえるだろう。フッサールの現象学は何度が明確な変身を遂げている。現象学が多くの追随者を出しただけに、「師匠」の変身は、追随者たちの困惑を引き起こした。

 しかし大きくわけて、『論理学研究』の時代のフッサール、『イデーン』のフッサール、『デカルト的省察』のフッサールと三つに分けることは許されるだろう。あるいはもっと大雑把に、「厳密な学」を目指した頃のフッサールと、「生活世界論」を目指した頃のフッサールに。

 メルロ=ポンティがここで拘っている現象学の二義性は、この二つの傾向にかかわるものである。フッサールは、厳密な学としての現象学への願いをついに喪うことはなかったが、イデーンにおける学の厳密さと、生活世界論における学の厳密さには、大きな違いが感じられるのであり、メルロ=ポンティもこの問題にここで拘る。

 メルロ=ポンティは序文で現象学のこの両義性を取り上げながら、フッサールの後期の現象学に肩入れをしているのは明らかだろう。メルロ=ポンティが惹かれたのは、論理学研究のフッサールではなく、生活世界論のフッサールだと考えられるからである。

 メルロ=ポンティは初期のフッサールから一貫する方法論的な厳密さを追求しながらも、『イデーン』における意味のイデア性の考察には向かわずに、現象学の方法を人間のさまざまな現象を解明するための重要な「ツール」として利用するという方向に向かった。メルロ=ポンティは早い時期にフッサールの後期の手稿を調べているが、フッサール学やフッサールの理論分析には向かわなかった。

 メルロ=ポンティが関心を抱いたのは、フッサールの方法を自分の哲学研究のツールとして利用するにはどうすればよいかということだった。メルロ=ポンティは、フッサールの理論と現象学の理論の最大の貢献が、こうした「ツール」としての役割にあると考えていたようである。それが現象学は「われわれにとっての現象学」であるという表現に示されている。それはすでにヘーゲルが、マルクスが、フロイトが利用した方法であり、フッサールの貢献は、いわばそれをツールとして使う方法を明示したことにあるわけである。

第二節 絶対的な根源としてのわたし
★科学と現象学
 次にメルロ=ポンティは、科学と現象学の方法を比較しながら、現象学の手法の優位についてもう一度考察する。メルロ=ポンティは人間の知覚の原初性、経験の意味と比較すると、科学はこうした日常生活の経験に対して「二次的な表現」だと考える。「科学は知覚された世界のひとつの規定であり、説明」だからである。

 メルロ=ポンティは知覚の認識論的な優位を主張しながら、科学的な説明には「幼稚」で抽象的な要素があると考えているようである。それは科学が人間の日常的な知覚に対して、個人の知覚は主観的なものであり、過つ可能性があることを指摘しながら、こうした主観性に対する超越性を主張し、そこに一つの客観性を確保しようとするからだと考えることができるだろう。

 ハイデガーが『存在と時間』で明らかにしたように、この自然科学的な見方は、世界内存在としての人間の在り方を無視する一面的なものであると同時に、人間が自然から超越する能力を示すものでもある。しかしメルロ=ポンティは、これは人間が「世界」にあるということに意味を十分に考慮していない視点だとみなしているようだ。

 ついでながら、フーコーの『精神疾患とパーソナリティ』の解説で少し触れたことだが、フランスでは心理学を専攻しようとする学生に、「君はメルロ=ポンティのような心理学をやりたいのか、それとも科学的な心理学をやりたいのか」と聞くのが通例だったという(すくなくともフーコーはそう尋ねられたといっている)。

 このようにメルロ=ポンティの哲学(心理学)が、「科学」と対立するものだと受け止められたのは、メルロ=ポンティのこうした科学批判の視点が原因になっているのかもしれない。しかしメルロ=ポンティはハイデガーの存在論の優位の理論に基づいて科学批判を展開しているので、そのように解釈するのは、少し一方的だろう。

 ハイデガーが指摘していたように、現代科学以前の数学は数とはなにかについては問わず、物理学は時間とは何か、空間とは何かにとついては問わない学だった。そのためにこうした自然科学には、あるナイーブさがつきまとっていたのである(現代科学はこの問題に対する反省から出発する)。

 メルロ=ポンティは、こうした自然科学の「僣越さ」を批判しながら、人間の世界内存在の根源性と知覚の根源性に立ち戻る必要があることを主張する。フッサールは現象学的な分析の根拠として、アウグスチヌスの「内なる人間」の概念を提示したが、メルロ=ポンティはこの「内なる人間」という概念にも、不十分な点があることを指摘する。アウグスチヌスのこの概念では、人間が内部において世界と断絶して存在しうるかのようなイメージを与えるからである。

 メルロ=ポンティがまず分析の出発点としようとしているのは、世界に委ねられた人間の存在様式であり、このような世界内存在としての存在様式をとる人間の意味である。人間はこのような存在として、はじめて世界の内で生き、世界を認識し、自己を認識すると考える。

 この問題にはいくつかの面倒な問題がつきまとう。カントの純粋統覚以来、人間の内部と外部の問題は哲学的なテーマとなった。ハイデガーの「時間」の優位性の主張、フッサールの現象学的な還元の方法論などは、この内なる人間の優位性の系譜につらなる思考方法であり、メルロ=ポンティも基本的にこの系譜にある。

 しかしこの方法で本当に世界と人間の関係が把握できるのかという疑問は、ヴィトゲンシュタインの私秘的な人間論や、言語と社会の理論を代表として、現代の重要なテーマの一つである。しかし先走りはすまい。ここでは、「わたしは絶対的な根源である」(PP:III, JT:2)と語るメルロ=ポンティの知覚の優位の理論の背後に、世界との幻想的な一体性へのある蠱誘的な願望、あるいはそのような関係の喪失の感覚が潜んでいないかどうかを、問題として提起しておこう。

第三節 メルロ=ポンティと他我論
 次にメルロ=ポンティは、フッサールの有名な他我の問題を提起する。フッサールが現象学的な還元を基本的な方法としたことによって、他我はつねにフッサールの理論につきまとうアポリアとなり続けた。もしも絶対的な根源が「わたし」であり、その根拠がわたしの意識にあるならば、他者がわたしと同じように絶対的な根源でありうるのはどうしてかということが、悪夢のようにつきまとう問題となるからである。

 アドルノは、『認識のメタクリティーク』で、認識の根源性を「意識の直接性」に求めようとした場合には、他我問題が必然的に解きがたい問題として登場することを指摘していたが、メルロ=ポンティにとっては、この問題はもう少し違った意味合いをおびてみえるようである。メルロ=ポンティは、認識の根源が個別の意識の確実性にあるのではなく、個別の意識を含み込んだ大きな前人称的な世界に根差していると考えているからである。
  世界はわれわれが表象するものそのものである。しかもわれわれが人間
  として、または経験的な主体としてではなく、われわれがだれも一つの
  光であり、われわれが一なるものに参与し、これを分割することが
  ない限りにおいてである(PP:VI, JT:9)。

 メルロ=ポンティがこの一なるものの存在が自明であり、真理の体系であり、真理が可能となるために前提として必要とされるものであると言い切ってしまうことによって、メルロ=ポンティはフッサールが生涯悩んだ問題をあっという間に解消してしまう。カントはカテゴリー論と図式論でこの「真理」の問題を解明しようとしたが、メルロ=ポンティにとっては、それは真理の超越論的な条件であり、問題として提起することが無意味なものなのである。

 このアプローチの違いはあまりに顕著なので、世界に対する描像そのものが違うのではないかと考えたくなる。メルロ=ポンティは独我論の問いを悩んだことがない人物であり、それが意味のある問いだとは思えなかった人物なのだろう。「わたしが他人を思惟することがどうして可能なのか、理解するのに困難はない」のである。

 メルロ=ポンティにとっての問題は、この根底にある同一性から、いかにして一つの意識が析出されてくるかという「自我と他者の弁証法」の方にあるだろう。メルロ=ポンティにとって根源的なものは、意識であるよりも、意識を可能にする世界である。そしてこの弁証法は、サルトル的な「見ることと見られること」のモデルで考えられている。

 サルトルの存在論が現象学的な存在論と銘打ちながらも、フッサールよりもハイデガーに近かったのと同じ意味で、他我論についてのメルロ=ポンティの方法は、フッサールよりもはるかにハイデガーに近いというべきだろう。

 しかしいくらか奇妙なことに、メルロ=ポンティ自身は、この方法はフッサールの後期の生活世界論から可能となると考えている。『イデーン』の超越論的な自我の概念と現象学的な還元の方法を、後期の生活世界論にそのまま適用することができるかどうかは、いささか疑問であるが、メルロ=ポンティは現象学的な還元が生活世界論、実存哲学、ハイデガーの存在論の基本的な方法論となると考えているのである。

第四節 前述語的な世界
 メルロ=ポンティのフッサールの「誤解」は、本質の概念についてもあらわである(誤解が悪いわけではない。思想家というものは、既存の理論を誤解して、それを自分の道具に組み立ててしまうものである。そうでなければ思想家ではなく、注釈者や護教家になってしまうだろう)。

 わたしはフッサールの本質(直観)という概念は、イデア的な意味を取り出すための手続きとして利用されたと考えている。この概念は、語や認識が「意味」をもち、他者との間で共有できる根拠を示すために使われているはずである。しかしメルロ=ポンティの考えでは、本質(直観)は、言語的な意味に先立ち、これを可能にするような前述語的で原初的な意味を浮かび上がらせることを目的とする。
  原初的な意識の沈黙のうちに、言葉が言わんとするものだけでなく、物
  が言わんとすることが立ち登ってくるのがわかる。これが原初の意味作
  用の核となり、これを中心として呼称と表現の行為が組織されるのであ
  る(PP:X, JT:16)。

 しかし重要なことは、メルロ=ポンティのフッサール理解を問題とするよりも、メルロ=ポンティがフッサールの方法(と信じたもの)を使って、どのように思考を進めていくかであろう。その意味ではメルロ=ポンティが、フッサールのイデア的なコギトの理論ではなく、世界における意識の事実性の確認から考察を進めることに注目したい。

 メルロ=ポンティは、われわれが世界に生きるというよりも、人間とは世界に生きるものであると考える。世界が意識や主体の外部にあるのではなく、意識とは世界のうちに生きることによって定義されるようななにものかなのである。意識が世界を知覚するのではなく、意識とは世界を知覚しているようなものである。世界を知覚することなしには、意識は存在しえない(これは次の節で触れられるように、フッサールの志向性の概念をメルロ=ポンティ的に言い換えた表現である。言い換えられた時点で、その戦略的な価値は変動している)。

 メルロ=ポンティは『省察』のデカルトの懐疑を思い起こしながら、懐疑そのものが、世界についての意識に支えられていること、こうした意識によってはじめて可能となるものであることを指摘する。デカルトはコギトの考えるという行為の確実性から世界を演繹した。

 しかしメルロ=ポンティにとっては意識とは世界において生きる意識以外のものではないのであり、自分の外部の世界を疑うことは、すでに世界において生きることであり、世界の確実性を証明しているのである。ここでは世界は演繹されるものではなく、懐疑において自己を証明しているものである。
第五節 歴史の「総身」
 この部分でメルロ=ポンティはカントの批判哲学からフッサールの現象学を経由して、一挙にヘーゲル的な歴史哲学へと到達してしまう。文章を通じて現象学という用語が使われているが、それがなにであるかは、あいまいである。

 まずカントの批判哲学における客観認識の現象学が提示される。メルロ=ポンティはカントの観念論論駁における外界の世界の優先性に、意識の志向性の概念を見いだす。カントは『純粋理性批判』では人間の対象の認識が可能なる根拠と、それが客観性をおびることの意味を取り上げたが、メルロ=ポンティはこれが現象学的な志向性の概念の最初の考察だったと指摘する。
 フッサールは、この客観認識のもつ共同性の要素を志向性の概念によって明示的に提起したことになる。これはカントが『判断力批判』で提起した問題意識を引き継いだとされる。フッサールがメルロ=ポンティのいうような意味で、志向性の概念を考えていたかどうかはかなり疑問であり、還元の意味もかなりかけ離れている。そのことは、世界に意識に現れてくる状況が、「分析できない」とされていることからも明らかである。フッサールなら、この状況とその世界の意味について繰り返し考察するだろう。しかしメルロ=ポンティの哲学の構えからは、これはあらゆる分析に先立つものであり、「確認するしかない」性質のものである。

 メルロ=ポンティの「前述語的な世界」という概念は、人間の意識が世界に「委ねられる」ことを前提としているので、意識に世界の意味が付与される構造については、それを前提として受け入れるしかないのである。メルロ=ポンティのまなざしは、その(ある意味では不思議な)事態を分析することではなく、その意味を了解することに向けられる。
   それぞれの文明において、ヘーゲル的な理念を見いだすこと、すなわ
  ち客観的な思考に開かれる物理・数学的な法則ではなく、他者に対して、
  自然に対して、時間と死に対する独特な振る舞い方、世界を形づける特
  定の方法を見いだすことが重要であり、歴史家はこれを取り出し、引き
  受けることができなければならない(PP:Xiii,JT:21)。

 ここではフッサールにとって重要な問題はあっという間に消滅する。メルロ=ポンティにとっての現象学は、世界に委ねられた個人が世界との間で結ぶ関係を考察しようとしながら、カントとフッサールの問題を通り越してしまう。歴史の頭や手ではなく、「総身」をヘーゲル的な理念において捉えることができるのはなぜかという問いは問われない。メルロ=ポンティにとっては、それはあまりに自明な問いであり、問われるべき問いではないということになるだろう。意識にとっての意味の問題は、一挙に歴史の意味の問題へと切り替えられるのである。

 しかし本書でメルロ=ポンティが分析しようとしているのは、この歴史の意味の問題ではない。ハイデガーのように時間について、死について分析するのではなく、人間が意識と身体をもって世界の中で存在することの可能性をかなり心理学的な見地から分析しようとするのである。この序文のメルロ=ポンティは、『知覚の現象学』の後にまなざしを向けているというべきだろう。