メルロ=ポンティの現象野の方法論
『知覚の現象学』を読む(二)--緒論--
(中山 元)


第一節 純粋知覚の批判
 さて、緒論の部分は「古典的な偏見と検証への復帰」と題されている。この緒論の戦略は、伝統的な心理学が無視しているもの、あるいは伝統的な心理学の理論的な成果と考えられているものが、実は根拠のないものであることを批判しながら、現象学的な方法の有効性を主張することにある。

 ただ、伝統的な心理学といっても、メルロ=ポンティの立場は、ロック以来の連合心理学とヴント以来の実験心理学の理論と方法を、当時の「新しい」心理学であるゲシュタルト心理学の立場から批判するという方法をとっていることを確認しておく必要があるだろう。その意味ではここはあくまでも「緒論」である。

 最初の「感覚」の節では、心理学が前提として、与件として想定している感覚そのものが、まず形成される必要があること、感覚を無前提の与件として、データ(与えられたもの)として取り扱うことはできないことに重点をおく。実験心理学の手法は、人間の心理的な「データ」を分析し、計量するものであるが、メルロ=ポンティはこの書物の最初で、この実験心理学的な方法のそもそもの方法論的な前提を破壊しようとしていると考えることができる。

 感覚をデータとして取り出すことができるという考え方は、経験的な事実に依拠しているようにみえるが、それは人間の印象や感覚を、その場から切り離すことができることを想定するものである。しかし人間の感覚を、感覚が可能になった場から分離することができるかどうかは、必ずしも疑問の余地のあるものではない。

 メルロ=ポンティはフッサールの志向性の概念と、ゲシュタルト心理学の「地と図」の理論に依拠しながら、そもそも感覚というものが可能となるためには、それに「意味」を与える主体と、その「意味」を可能とする世界が必要であることを指摘する。フッサールにならって、すべての意識がなにものかについての意識であると考えれば、その意識は本来、意識する主体や意識を可能にする場から切り離すことはできない性質のものではないか。

 ある現象が知覚と呼ばれるためには、世界の中の一つの位置から、一つの方向に向けられるまなざしがまず必要とされるのであり、それを普遍化し、抽象化し、客観的なものとしうる根拠、それを科学的なデータとして提示しうる根拠をまず問わなければならないとメルロ=ポンティは考えているはずである。

 知覚の科学的な取り扱いが可能であると考えるためには、データを分析し、抽象化し、客観的に取り扱うことができる必要がある。メルロ=ポンティは知覚を科学的に取り扱うことができないと正面から主張しているわけではない。科学的な処理を可能とする根拠を考察しなければ、科学的なデータの科学性が保証されないだろうし、だれもが世界の中で知覚するのだとすると、それを上から眺めるような視点がどのようにして可能となるかという問題は、科学的な処理よりも先に分析する必要があると考えるわけである。

 ここは、序のところで姿をみせていたメルロ=ポンティの科学批判とも関連してくるところで、メルロ=ポンティの「反科学的」ともみえる主張が散見する。俯瞰的な視点を拒否するということが、科学的な超越の可能性を否定するようにみえるからだ。この問題は実はメルロ=ポンティではあまりうまく解かれなかったように思う。エピステモロジーの分野の方が、この問題にはうまく処理できているのではないか。

 ところで、この場所でメルロ=ポンティが展開している「純粋な印象」の批判には、ヘーゲルとベルクソンの理論の反響がある。まずヘーゲルの『精神現象学』の直接的な感覚の理論では、ヘーゲルは直接的な感覚を「真理」とする思い込みを批判しながら、それがつねにある普遍的なものを基礎としていることを指摘した。

 少し先走って言えば、メルロ=ポンティの理論は、ヘーゲルの批判を受け継ぎながらも、その普遍性の「根」にさかのぼろうとするものだと考えることができる。メルロ=ポンティがここで試みているのは、科学としての心理学の「根拠づけ」であるよりは、カントのカテゴリー論を感性の領域で試みる『純粋感性批判』だと言えないことはないだろう。

 もう一つは、ベルクソンの「エラン・ヴィタル」の理論との親縁性とそれに対する批判である。メルロ=ポンティは、一方ではベルクソンの「純粋持続」の概念と同じものを取り出しながら、現象学的な手法に依拠することで、ベルクソンの「純粋持続」の概念の思弁性を批判しようとしていると考えることができる。ただしこの問題については、ここでは簡単に触れておくにとどめたい。

第二節 錯視の哲学的な意味
 さて、「感覚批判」においてメルロ=ポンティは、感覚をまず二つの側面から考察する。感覚を、感官をもって感覚する主体の側面から考えると、感覚とは純粋な印象である。熱さ、寒さ、熱さ、冷たさ、そして赤や黄色の感覚は、わたしが自らのうちで感じるものであり、もっとも純粋で確実に感じられるものである。

 あるいはこの感覚を、わたしの感官を触発する客体の側面から考えると、感覚とは触発する客体にそなわった性質である。フワフワとした羽毛は、ガッシリとした木の机とは異なる性質をもち、赤い花は青い花とは異なる性質を持つ。わたしが赤の感覚を受けるためには、わたしを触発する花が「赤い」性質をもつ必要があるのである。

 「科学的な」心理学では、この二つの要素を分離して考察することで、人間の感覚というものの神秘を解読しようとする。感官の主体である人間は、その内部においてどのようなメカニズムによって、感覚することができるのかを分析するのである。ここでは心理学は生理学に近付く。感覚する主体のどのような変化が、感覚にどのような影響を及ぼすかという考察は、人間の身体のメカニズムと分離することができないからである。

 また変化する客体に対して、同じ人間がどのように異なる印象を受けるかという実験的な分析では、生理学の差異よりも、人間一般の感覚のメカニズムそのものを考察することになる。ここでも心理学は生理学と離れることはできないが、デカルトの精神と延長の区別、あるいはロック以来の「第一性質」と「第二性質」の区別に無意識的に依拠する「科学的な」心理学は、物自体にそなわる「性質」というものを安易に前提してしまう傾向がある。一般的な心理学にみられる人間の錯覚の分析などは、ある客観的な正しい感覚があって、それに対して人間がどのような「錯覚」を抱くかを分析する傾向がある。

 メルロ=ポンティが批判するのは、人間の感覚と心理的な現象を、物−刺激−反応という「科学的な」前提が無批判に想定している条件である。客観的に世界というものを想定して、これが感官を刺激して、人間はそれを解読することで、感覚と印象を受けるという前提自体が、世界に生きる人間の条件を正しく捉えていないのである。

 科学的な心理学では、感覚すること、印象を受けることを「与件」として捉えて、その与件から出発して考察するが、メルロ=ポンティが問題とするのは、この感覚すること、印象を受けることは、自明なことではなく、そこにこそ、心理学にとっての(あるいは哲学にとっての)重要な謎が隠されているということである。

 「みえる」ということは自明なことではあるが、「みえる」ことが可能ああるためにはどのような条件が必要であり、それがどのような「見えない」前提を隠しているのか、メルロ=ポンティの関心はそちらに向かう。たとえばミュラー・リュエルの錯視という古典的な例でいえば、二本の線分は定規で計ってみると、数値的には同じ長さであることが確認できる。しかし人間にはこれは同じものには「見えない」。それは錯覚であるよりも、世界の中で生きる人間にとって正しい見え方なのである。

 人間にとって、知覚はその世界に「粘着」し、そこから切り離すと、知覚そのものの意味が失われる。この人間と世界と知覚の「粘着性」viscosite(PP#19,JT:42)の関係を無視して、分析的に知覚を考察することにはそれほど意味はないとメルロ=ポンティは考える。錯視の問題は、もっと動物行動学的に考察することができるだろうし、メルロ=ポンティがちょっとだけふれているレヴィ=ブルュル「未開人の心性」の概念も、文明論的および宗教的な考察を要請するものであるが、メルロ=ポンティがこの書物で特に関心を持っているのは、感覚という自明なものに含まれる「前客観的な領域domaine preobjectif」(Ibid.)の分析であり、この領域のもつ「身体論」的な意味である。

第三節 感覚論批判
 このようにメルロ=ポンティは、実験的な心理学が人間の知覚を扱う方法を批判する。ミュラー・リーエルの錯視の線を定規で計ってみれば、二本の線は「同じ」長さである。だから同じものを違った長さにみえるのは、人間の感覚の「欺き」であり、この原因を探求し、この錯視の発生する機構を分析するというのが、心理学の「科学的な」方法である。

 これに対してメルロ=ポンティは、それが人間の知覚の「感覚論」的な取り扱いであると批判する。感覚の理論theorie de sensationとは、メルロ=ポンティによると次のようなものである。
  感覚の理論は、すべての知を規定された性質から構成するものであり、
  いかなる曖昧さもない純粋で、絶対的な対象をわれわれに作ってみせる。
  しかしそれは実際のテーマではなく、認識の理想であり、遅れて登場す
  る意識の上部構造にあてはまるものにすぎない(PP:18-9)。

 メルロ=ポンティは、心理学の理論にこの「感覚」という概念が導入されると、その後の分析がすべていわば「ボタンのかけ違い」のようになると指摘する。感覚sensationという語には、さまざまな意味合いがあるので、メルロ=ポンティがここでこの概念にこめている意味合いでいうと、感覚とは人間の知覚する意識のうちで、分析し、分離し、客観化し、抽象化することのできる要素と考えられているわけである(これは伝統的な哲学的な流れとはすこし食い違う)。

 この感覚論は、知覚に対していわば唯名論的な哲学を行使するものであり、意識が外部の世界に対して、自ら意味を与える至高の権力を備えていると考える傾向がある。たとえそれが錯視において「過つ」としても、意識の孤立した主権が疑われてないのである。

 これに対してメルロ=ポンティは、次の三つの観点から批判を加える。
●地と図
●物と物でないもの
●過去という地平

 ここでは相変わらずカントの感性論が考えられているのは、これが時間と空間という人間の認識の「直観」にかかわる領域を対象としていることからも明らかだろう。しかし同時にフッサールの志向性の理論と時間論、ハイデガーの存在論の影も濃い。

 今回はまず地と図というゲシュタルト心理学ではおなじみのテーマを考えよう。「科学的な」心理学では客観化の必要性から、意識が認識するものをまず与件(データ)として考えようとする。しかしすでに指摘したように、メルロ=ポンティは、この「与えられたもの」というデータの可能性そのものに問題をみいだす。与えられるためには、まず人間が世界のうちに住み、世界を世界として分節したものとしてみることができる能力が必要とされる。人間は何を地とみて、何を図とみるかを、幼児の頃から学びとるのであり、それが認識を可能にする。

 知覚野が図と地に分節されることが、そもそも知覚の可能性の条件となるのであり、この「超越論的な条件」を問わずに、与件としての感覚データを科学的に操作しても、あまり意味はないとメルロ=ポンティは考える。メルロ=ポンティはこの書物で、人間の知覚世界のインベントリー(PP:33, JT:63 邦訳は財産目録)を作成したいのであり、「科学的な」心理学は、人間の知覚の「在庫」のうちで、もっとも重要なものを見過ごしているのである。

 これは、企業が倉庫の中の部品だけが自分の資産だと考え、その部品を使う製品に組み込まれたノウハウの価値を理解していないのと類比して考えることができるだろう。メルロ=ポンティはそれは一種の「心の眼の盲目」だと考える。

 このあたりは、ごく分かりやすい批判であるが、メルロ=ポンティはつい行き過ぎてしまう傾向がある。それがたとえば知覚が最初から刻みこまれている「真理の場所」(PP:24, JT:49)を見出だそうとする場所に顕著である。「科学的な」心理学が、知覚の結果を通して知覚そのものを眺めるという循環論的な過ちを犯しているとすれば、メルロ=ポンティはそれを批判しながら、逆にだれにも示すことのできない「ほんとうの知覚」の場所を想定してしまうという傾向があることに注意しよう。

 哲学の問題としてはこれは、真理の問題としてではなく、カントの図式論とシノプシスの理論(とハイデガーのカントの時間論の詐取)の観点から考えるべきテーマなのではないだろうか。これはメルロ=ポンティの次のテーマである「物と物でないもの」にもかかわる観点であろう。

第四節 知覚することと思い出すこと
 次に、メルロ=ポンティは、人間がある物を認識するメカニズムの理論として、伝統的な心理学では主流の考え方である「連合」説を批判する。メルロ=ポンティがここで使っている図形についての説明は、それほど説得的ではない。もっとよい例があったはずだと思うが、メルロ=ポンティの議論の進め方は明確である。人間はあるものを認識して、それと連合する形で別のものを認識すると考えることは、別の物の認識において、それと類似した物を過去の記憶として保持していることを前提とする。

 心理学の連合説は時間論を前提としていないのだが、メルロ=ポンティは連合説が機能するためには、現在の知覚においてつねに過去の記憶が生きていて、それとの「連合」が発生すると暗黙のうちに想定していることを批判する。知覚が成立するのは、現在の意識が過去を展開するからであり、過去の記憶が現在の知覚を規定するわけではないということである。

 この時間論的な観点からの批判は、次の論点「過去という地平」と直接にかかわってくる。錯視のところですでに指摘されているが、人間の錯覚が発生するのは、例えば過去にみたものに規定されているからではなく、つねに現在において、繰り返し錯視が発生する。錯視はつねに「現在」の現象なのである。

 これをメルロ=ポンティはなじみ深い校正の錯覚の比喩で語る。物書きにとっては校正というものは厄介なものであり、自分の書いた文章を読み返す時には、ある漢字が誤って記載されていても、その文脈から当然と思われる語に自然に置き換えてしまう。これは過去の記憶とはほとんどかかわりがなく、その文の地平の空気のようなものによって規定されてしまうのである。メルロ=ポンティが指摘しているように、読み直しのような作業では、われわれは読みながら語に「意味」を与えてしまう(だから本職の校正者が必要とされるのである)。この意味がどのようにして発生するかということが、重要な問題である。

 メルロ=ポンティは、連合説や経験論の考え方には、一つの「心の化学」chimie mentale(PP:29)が前提とされていると批判している。知覚の与件があり、これがいわば正しい原本のようなものであり、これに対して人間の感官が反応して、正しい(あるいは誤った)与件を「演繹」すると考える。感官の純粋な与件に、人間の感官の機能を加え、融合すると、そこで人間の知覚が発生すると考える。

 ここで化学という語をメルロ=ポンティが使いたかったのは(あまり適切な概念とは思えないが)、知覚の成立が異なった要素の結合によって成立すると想定するとともに、知覚を考察するには、それを「分析」する(化学的な意味で)ことが可能であり、これが必要であると想定していることを示唆するためだろう。水が水素と酸素の分子の結合であることを明らかにするのが化学であり、化学はそれを証明するために、水素と酸素を結合して水を生成し、水を分解して水素と酸素に分けてみせるからである。

 この「心の化学」説では、人間の知覚をこのような分子的な要素に分解して考察しようとし、考察できると考える。これに対してメルロ=ポンティは、人間の知覚はこのような方法で「分析」することはできないと指摘する。人間の知覚を可能にする地平はつねに変化し続けるものであり、時間の経過とともに、「景観の構造」そのものが変わってしまうからである。

 メルロ=ポンティは、記憶が知覚を可能になるのではなく、人間がこの世界のうちで生き、世界に意味を与え、世界から意味を受け取るという事態がまず存在しているのでなければ、記憶そのものが可能ではないことを指摘する(このあたり、大森さんを思い出させますね)。

  思い出すということは、それ自体として存在し続けていた過去の像[タ
  ブロー]を、意識のまなざしのもとに取り戻すことではない。思い出す
  とは、過去の地平の中に入り込み、重層した視点をそこから次々に展開
  し、それをまとめあげる経験が、その時間的な場において、再び生きら
  れたものとなるようにすることである。知覚することは、思い出すこと
  ではない(PP:30, JT:58-9)。

 さて、メルロ=ポンティのこの部分の論点をまとめると、次のようになるだろう。

 まずメルロ=ポンティは、第一性質と第二性質を区別したロック以来の経験論と連合節を批判する。その論拠は、人間の知覚というものを、コンディヤックが彫像に一つずつ知覚の能力を追加していったような形でモデル化することはできないということである。人間が認識し、知覚するという動作一つにしても、その人間がおかれた場の過去という地平と世界の意味を問わなければ。解明することはできない。

 これには二つの意味があると考えることができるだろう。まず、「心の化学」者のように、これは人間の認識能力の要素によるものであり、こちらは物そのものがもっている要素であると分離することはできない。人間の認識や知覚は、人間の感官の性質や認識される対象の客観のもつ性質に分離することも、還元することもできないとのである。

 第二に、記憶と想起についてすでに指摘されたように、人間の認識は過去という地平のもとではじめて可能になる。コンディヤックの彫像のように、認識の主体をいまはじめて世界に目を開いた成人として想定することはできない。人間は誕生以来の歴史と記憶をそなえているのであり、幼児以来の歴史が、人間の認識や知覚そのものを可能にしているのである。

 ただしメルロ=ポンティがすでに批判しているように、この過去の地平と記憶に導かれて人間の知覚が可能になると考えるべきではない。世界は決して「過去」になることのできない性質をそなえていると考えることができる。これがハイデガーの基礎存在論の結論の一つでもある。人間が認識する時はつねに現在であり、この現在によって過去の記憶が(現在の必要に応じて修正されながら)呼び出されるのである。

 しかし過去という地平は、現在における認識を可能にする超越論的な条件である。過去と記憶が存在しなければ、人間の認識そのものの成立しうる条件が失われるのである。この意味で時間はカントの考えたような直観の形式であるよりも、知覚や認識の超越論的な条件を形成しているというべきだろう。

 メルロ=ポンティの経験論批判は、特に世界の文化的な意味の主張の場所で明確に示される。世界は主体にとって喜ばしいものや主体を拒むものとして感受される。世界は主体にとって「実存を養うもの」なのである。メルロ=ポンティの目指す現象学的な知覚分析は、主体にとっての世界を生理学的な事態に還元することなく、人間の知覚にとって、世界の意味がどのようにして現れるかという秘密を解こうとする。

第五節 「主知主義的な」心理学批判
★投光モデル批判
 さて、これまでメルロ=ポンティが主として批判してきたのは、経験論と素朴な化学論の見地だった。その基本となるのは、タブラ・ラサの理論と「心の化学」の方法論だろう。タブラ・ラサの理論は、人間の心を白紙と考えて、そこれにさまざまな経験が書き込まれると想定する。

 連合説に始まる心理学の基本的な方法の一つは、ロックの経験論やカンディヤック以来の「イデオローグ」(イデア=観念の発生の学)の方法を引き継いでいる。また数値的な処理を行ういわゆる「科学的な」心理学は、人間の心の働きを要素に分析して考察することが可能であるという立場に立っている。

 これに対して、「注意」と「判断」の部分で批判されているのは、経験論を批判する要素のある主知主義intellectualismeである。メルロ=ポンティが「主知主義」という言い方で批判するのは、心理学における一つの傾向としでもいうもので、特に明確な理論体系をそなえているわけではないとみるべきだろう。

 経験論が「恒常性仮説」hypothese de constanceに依拠していて、操作することのできる恒常的な客観と、無記の主体の存在を想定していたとすれば、この主知主義は、人間の知覚における「知性」intellectの働きを重視するものである。

 この主知主義による経験論の批判は、特に「注意」という概念に向けられる。メルロ=ポンティは、経験論における「注意」の概念の特徴は「投光モデル」にあると考える。主体があるものに注意を向ける。その時には、主体からまなざしが対象に投じられるわけだが、これをあたかも闇の中からその対象だけを浮かび上がらせる「投光」のように想定しているのが科学的な心理学だということになる。

 メルロ=ポンティがこの「投光モデル」に問題があると考えるのは、それが主体の側の至高の権能と、注意の機能の不変性を想定するからである。主体はあるものに注意を向けることによって、それを知覚する。主体が注意しなければ、その対象は主体によって知覚されるという栄誉に預かることはできない。客体はいつも存在しつづけるかもしれないが、主体が注意なければ、知覚されることはないのである。

 さらに主体が投げ掛ける光としての注意そのものの特質は考察されることがない。光は対象を照らしだすものであり、対象の性質が問われることはあっても、光そのものの特質、なぜ光がそこに向けられたか、そしてある対象に注意を向けることで形成された知覚は、その後どのような発展をとげるかのなどは問われ得ない。「経験論には、外的な結び付きしかないので、意識の状態を重ね合わせることしかできない」(PP:34-5, JT:66)。

 これに対して主知主義は、経験論の注意概念を批判しながら、注意が可能となるためには、意識の側にある前提が必要なのであり、タブラ・ラサのような主体には、ある対象に注意を向けることも、それをたとえば「丸いもの」として認識ることもできないことを指摘する。

 メルロ=ポンティがここで示唆しているのは、ロックの認識論を批判したライプニッツの理論、そしてカントの図式論とその後の観念論の系譜だろう。このいわゆる合理論の系統においては、人間がそもそもものを知覚し、認識するために、人間の「知性」(「悟性」)という能力にどのような資格が必要であるかを検討することで、経験論的な見方におけるある単純さを批判するからである。

 メルロ=ポンティが「注意」論を経験論と合理論の対抗軸として取り出してのは興味深いところがあり、フランスの哲学の伝統的な雰囲気を感じさせるが、この投光モデルには、いくつかの含意があることだけを指摘しておきたい。一つはフッサールの注意論がある種の光のモデルを採用していたことである。

 ただしフッサールの注意の理論で中心となるのは、光そのものではなく、光のあたらない場所の方であることにその違いがある。闇を貫く灯台の光は、暗闇の中に次々と対象を浮かび上がらせるが、移動する光は一瞬の後には、その対象を闇の中におとし込み、別の対象を浮かび上がらせる。光は対象を浮き彫りにするとともに、別の対象を忘れ去る。意識されているものの周囲には、意識されないもの、注意の光のあたらないものがつねに存在し、それが「地平」を構成するのである。

 もう一つは、ハイデガーの『存在と時間』において、自己の意識が灯台のように対象を照らしだすというモデルそのものが批判されていたことである。ハイデガーはこれを「世人」の一つの様態として提示する。これは日常的に自己の在り方であり、いわば普遍的な人間の意識の様態である。主体は至高の権能をもって他者や事物を認識する存在者ではなく、世界の中で他者から眺められることによって、存在する存在者にすぎないのである。

第六節 注意論と判断論
★注意論−主知主義と経験論の批判
 このように「主知主義」という呼び名でメルロ=ポンティはカント以来のドイツ観念論で問題としてきた人間の認識能力への問いを踏まえながら、それとはいくらか位相のずれたところで問いと批判を発する。メルロ=ポンティは人間の認識の能力の側に知覚を受け入れるものが存在していなければならないという「主知主義」の議論そのものは認めながらも、この理論にはまだ欠陥があることを指摘するのである。

 たしかに「主知主義」は、経験論の欠陥を指摘した。経験論には、「対象と対象が喚起する作用との内的な関連」についての洞察が不足していた。われわれが認識するということが可能となるためには、その認識を可能にする条件がすでにそなわっていなければならない。循環論的にみえるとしても、われわれがものを認識できるのは、それをすでに「知っている」からなのである。

 メルロ=ポンティは、この経験論の「素朴さ」に対して、主知主義は、「注意」という概念を提示すると考える。ここのところはかなり風変わりな観念論批判のようにみえるが、メルロ=ポンティのいいたい道筋は理解できるだろう。主知主義という概念は、経験論の素朴さの裏返しであり、これを決定論のレベルにまで進めた考え方である。

 主知主義の「注意」することにおいて、私はすでに認識するものを自分のうちにもっていなければならない。私はそこに私の意識の構造を再認するのであり、それ以外に認識ということはありえないと考える。たしかに私は意識する私であり、私が実現されるのは、この認識や意識や注意である。しかしわたしはそこに自分以外のものを見いだすわけではない。意識で露になるのは、つねに意識する私自身である。

 メルロ=ポンティは「主知主義」をこのように経験論に対置する形で示しながら、主知主義の欠陥を指摘する。経験論における意識は、あたかも「白い紙」のように外部から書き込まれるにまかせる受動的な意識であり、そこでは意識は「過少」であり、貧困である。これに対して主知主義の意識は、自分の外部に自分の意識しか見いださないのであり、そこでは意識は「過大」であり、豊穣である。しかしいずれの場合にも、人間の意識の固有の「学びつつ知る」という在り方から的を逸らせてしまう。

 メルロ=ポンティは、経験論でも主知主義でも、「知りつつある無知」という人間の意識の構造がうまく取り出せないと考える。人間の意識は、意識し、知覚することにおいて、受動的に外部から書き込まれるのでも、自分の意識を外部に書き込むのでもなく、一つの自由を行使し、一つの創造を行うとメルロ=ポンティは考える。

★認識という名の自由
 たしかにこれは奇妙な自由であり、奇妙な創造である。私が窓の外の一本の木を眺め、その葉の茂りぐあいを認識することが「自由」であり、「創造」であると考えるのは、自由と創造という語の濫用のように思えるからである。これについては、次の二つのことを考えておくべきだろう。

 一つはメルロ=ポンティには、人間がこのような認識を行うことが可能であるというところに、人間の「成立」をみる(かなり人間学的な)考え方が存在するように思えることである。人間が人間であるのは、植物を単に食べ物であるかどうかで区別するのではなく、それが樹木であり、その欅の樹であることを認識できるところにあるという考え方である。ここでは人間が人間である所以としての「自由」が成立する根拠が、このような認識においてみられていると考えることができる。

 もう一つは、メルロ=ポンティがこれを人間学的な見地だけではなく、人間の成長における認識能力の発達というビアジェ的な見地から考察しているということである。私が欅の樹を欅として認識し、欅の葉の色を緑として認識することが可能となるためには、幼児以来の成長において、どのように大きなことが達成されなければならないかということである。

 メルロ=ポンティはこれを幼児における色彩認識の段階として描いている。幼児の色彩認識の発達は、心理学的および生理学的にはさまざまな描き出すことができるだろうが、色彩を色彩として、緑を緑として認識できるようになるためには、世界の「相貌」的な差異を認識する能力が必要であることをメルロ=ポンティは指摘する。

 幼児にとって、自分の世界が次第に分節され、相貌をそなえるようになり、さらに個別の色という抽象的な認識が可能となるプロセスは、それぞれが「新しい経験の次元」を形成するものであり、あるアプリオリが展開される「劇」のようなものである。ここでは、成長の過程において「意識の新しい構造」が形成され、前に述べられたのとは別の意味で、「学びつつある無知」のドラマが展開されるのである。メルロ=ポンティが述べる自由と創造は、この人間の能力の発達のドラマを言い換えたものと考えることができるだろう。

★判断論−−二つの誤謬
 しかしメルロ=ポンティが「主知主義」に対してとくに批判的になるのは、主知主義が「判断」を行使する場面である。この判断Urteilという能力は、Ur-teil(原分割)として、ドイツ観念論では人間が物と出合う基本的な能力とみなされてきた。ハイデガーの存在論もこの流れに棹さすところがあるが、メルロ=ポンティが考えているのは、このような認識の原場面における判断ではなく、知覚に対して知性が後から行使する判断、いわば原分解のような判断ではなく、判断である。

 その一例が錯視に対する「合理的な認識」である。人間の知覚はツェルナーの錯視において二本の傾いた線分をみる。これは人間の知覚に固有の特性であり、世界における人間の在り方に条件づけられた知覚である。これに対して判断は、この二つの直線が平行であることを「判断」する能力である。

 判断をこのように規定すれば、判断という能力がメルロ=ポンティの目指すものから外れていることは、すぐに分かる。たしかに人間には、デカルトが述べた臘の塊が、さまざまな変化しても、同じ臘であることを「判断」する能力がそなわっていること、これが客体的な世界の認識に必要な科学的な認識に根底にあり、人間の高度な能力である。

 メルロ=ポンティも、判断のこの能力を否定するものではないが、それが知覚よりも高度なものであり、知覚を否定し、科学的な客観性と妥当性を主張することに異議を申し立てる。それは人間の感官に与えられたデータの意味を発見しようとするだけで、そもそもそのデータに意味そのものを与える知覚の作用を解明することができないからである。

 しかし判断とは、これだけのものだろうか。メルロ=ポンティは判断にはさらに別の機能があることを認める。ただし判断としての原分割にさかのぼるのではなく、知覚や意識についての知覚としての自己言及的な機能を「判断」と呼ぶのである。

 この機能は、知覚の対象であり、知覚をそもそも生み出すものである「即自的な世界」から出発して、その世界を意識する主体に遡行し、主体の思惟に到達し、自らを見いだす。しかしこの機能においては、「世界の本性はそのまま」であり、あたかも世界の外部に主観が単独で世界を眺める主観として存在しているかのようである(このように主観の外部に主観と独立して、それを構成する意識と分離して存在する世界をメルロ=ポンティは、宇宙universと呼ぶ)。

 最初の判断が、錯視や幻視に代表される人間の知覚の「主観的な誤謬」を指摘しながら、科学的な視点の「絶対的な」客観性を主張するものだったとすると、今度の自己意識的な構造をもつ判断は、「絶対的な」主観性に移行する。

 メルロ=ポンティは判断論のこの二つの対極的なありかたが、じつは主知主義の本質を示すものだと考える。世界について知覚が生まれてくる原初的な場を問題としない限り、この両極端は同じ「独断論」の二つの相貌にすぎないと考えるのである。そしてメルロ=ポンティは、この「独断論」において、知性主義と経験論は、一般に考えられているよりもはるかに深い「血縁関係」にあることを指摘する。
   実は、身体とともにある私は、他の対象の一つとしてしか存在しない
   ような形で構成された世界のイメージと、絶対的に構成する意識の理
   念は、対立するようにみえても、それはみかけだけのことである。こ
   の二つは、それだけで完全に明瞭な宇宙が存在するという先入観を表
   現している。真の意味での反省とは、悟性の哲学がやるように、この
   二つの見方をいずれも真実なものとして交互に登場させるのではなく、
   いずれも誤ったものとして拒否するのである(PP:51, JT:90)。

 メルロ=ポンティのこの主知主義の批判がターゲットとしているのは、戦前のフランスにおいて支配的であり、当時のアカデミズムをまだ支配していたブランシュヴィックの新カント主義だと考えることができる。感情の働きに影響されない理性的な判断の重要性を説いたアランの哲学とともに、ブランシュヴィックの哲学は戦後のフランスの哲学界にとって、解き放つべき軛のようなものだったと言えるだろう。

 戦後の実存主義と現象学は、フランスの哲学界の伝統となっていたこの主知主義と合理主義に対する批判として、ヘーゲル、マルクス、フッサール、ハイデガーで対抗しようとするものだった。メルロ=ポンティのここでの主知主義批判も、こうした思想的な潮流の一つの証言だと考えることもできる。

★ゲシュタルト心理学批判
 さて、緒論も長く続きすぎる感じがあるので、今回は、残された部分の要点だけを簡単にまとめたい。一つは、メルロ=ポンティのゲシュタルト心理学への不満である。これまでのところからも明らかなように、メルロ=ポンティは基本的に科学的な心理学と合理主義的な心理学を批判するのに、要素的な認識を批判するゲシュタルト心理学を利用してきた。心理学的な理論の枠組みでは、メルロ=ポンティはゲシュタルト心理学を越えるものを提示していないようにみえる。

 しかしそのことは、メルロ=ポンティがゲシュタルト心理学に満足していることを示すものではない。ゲシュタルト心理学は、あくまでも心理学的な理論であり、それが世界の中で身体をもって生きる人間の現象学的な批判を試みるメルロ=ポンティにとっては、いくつかの限界を示すことになる。

 メルロ=ポンティのゲシュタルト心理学に対する批判は、ここでは二つの点に集中しているようにみえる。一つは、ゲシュタルト心理学では、人間が世界で生きることで生まれる必然的な錯覚(なんども取り上げられたいくつかの錯視)について、その科学的な「根拠」を探し、これを説明しようとする。

 これは科学的な理論をめざすゲシュタルト心理学には当然の営為であるが、メルロ=ポンティはこの科学的な説明(根拠)を求めることにおいて、この心理学が自然主義的な傾向に復帰し、「説明的な心理学」の理想からふっきれていないと考える。

 メルロ=ポンティは、人間がたとえば錯視のような現象は、人間が世界に生きることにおいて「動機づけ」として発生するのであり、その科学的な根拠を探すことは、人間が世界で生きるという事実に対する自然主義的な説明を求めることになってしまうと考える。

 この錯視のような事実は、人間が自分の環境の中で生きるための「動機」という観点から、現象学的に解明する必要のある事実であり、ゲシュタルト心理学は、そのためのカテゴリーを作り上げることに成功していない。これはメルロ=ポンティのゲシュタルト心理学に対する第二の批判につながる。

 ゲシュタルト心理学は、要素主義的な認識の理論を批判し、認識の全体的な分節という観点から考察する必要性を指摘したが、人間の認識に対して古典的で客観的な思考方法を変更することができず、思考のカテゴリーを一新することができなかった。

 メルロ=ポンティはゲシュタルト心理学に対して、人間の認識という問題をまったく新しい視点から眺めること、そのために世界について既存のカテゴリーを適用することをやめ、世界と人間の認識の実在性に対ついての前提を破棄し(これは現象学的な還元を遂行することを意味する)、外部にある客体を認識する主体という視点を放棄する必要がある。

 メルロ=ポンティがゲシュタルト心理学に求めるのは、世界を認識することで生きる主体、世界を認識しながら、錯誤し、誤りを訂正し、新しい認識を獲得する主体、認識することにおいて初めて自己を認識するような力動的な認識の主体の概念を構築することである。もちろんゲシュタルト心理学がこのような課題を遂行することをメルロ=ポンティは期待しているわけではなく、メルロ=ポンティ自身がそのための模索をこの書物で試行することになる。

第七節 身体の存在論
 さて緒論の最後の部分で、メルロ=ポンティはこれまでの心理学批判に基づいて、この書物での課題を見定める。メルロ=ポンティが立ち返るのは、ヘーゲルの『精神現象学』の試みとかなり共通した場所である。われわれが「感じる」ということはどういうことであるかを、「言葉の普通の意味」にもどって、現象学的に捉え直そうとする。

 メルロ=ポンティは、知覚の秘密を、科学的な心理学では解き得なかった方法で、日常生活の場に立ち戻って解明しようとする。人間は生きた動物と剥製の動物をどうして瞬時に見分けるのか、蝋燭の光が暖かく感じられたり、危険なものに思えたりする差異はどのようにして生じるのか。これらは、「科学的な」分析では解明できない問題であり、世界の「相貌」の問題である。

 もちろんこれはハイデガーの提起した世界内存在のテーマであり、ユクスキュルの環境のテーマである。しかしメルロ=ポンティの「相貌」のテーマが、世界内存在の超越のテーマとも、「環境」という動物行動学的なテーマとも異なるのは、メルロ=ポンティの視点が人間の「身体」に定位されていることにある。
   感じるということは、[純粋な質ではなく]性質に生きられた意味を
   与えるのであり、性質をまずわれわれにとっての意味、われわれの身
   体というこのマッスにとっての意味において把握する。だからこそ、
   感じるということには、つねに身体への参照が含まれるのである[PP#
   64, JT:104]。

 ここで提示されているのは、ハイデガーの存在論とは異なる身体の存在論である。ハイデガーは「物との出合い」がいかにして可能となるかを問うことから存在論を提起するが、メルロ=ポンティは、感じるという現象学にとってのもっとも基本的な営みにおいて、世界が現前し、身体を通じて人間が世界と生き生きと交信するかという事実から存在論を提起する。

 このメルロ=ポンティの視点は、最後の自由論まで一貫している。人間が政治的に行動する可能性も、身体をもつ人間が世界や他者と交信し、世界の中で生きる可能性に依拠しているのである。

 このメルロ=ポンティの野心的な試みは、卓越した部分と困難な部分を兼ねそなえていることは、容易に理解できるだろう。感じるという知覚の営みにおいて、認識の問題だけでなく、人間の本能という「下部構造」と、政治的な行動にまでいたる人間の知性という「上部構造」までを同時に解明しようとしているからである。

 はたして知覚という水準が、こうした分析に適したものかどうかという疑問は、実はこの書物の最後まで消えない疑問であるが、メルロ=ポンティが身体的な感覚という拠点から、できるかぎり遠くの場所まで「遠征」しようとしたことだけは認められるだろう。

 そのためにメルロ=ポンティが根拠とするのが、「現象野」champ phenomenalという概念である。これは科学が前提とする客観的な時間と空間の概念とは異なる場の概念であり、それぞれの主体に固有の場として想定されている。知覚を科学的な対象として客観化し、抽象化した際に失われてしまうもの、こうした科学的な対象の成立する根底にあるものを指している。

 メルロ=ポンティは、この現象野の概念は、近代科学の有効性が失われた始めた現代において、必要とされ、求められている概念であると考えられている。近代科学の主体と客体の概念は、その起源を忘却することにおいてはじめて可能となった概念であり、生物や人間の社会に対しては、本当に有効であったためしはないのである。

 こうした科学的な客観的な視点に対抗するためにここで提示されているのが、後期フッサールの名前を借りた「生きた世界」の概念であり、それを作り替えた現象野の概念である。これは観察する主体と観察される客体という対立的な構図を否定しながら、無機物にはその具体的な相貌を、有機体にはその生物としての生き方を、人間という主体にはその歴史への所属を取り戻そうする哲学的な試みである。

 この哲学的な試みを可能にしているのは、現象の場にある人間であり、そこにおいて「私−他者−物」というシステム[PP#69, JT:111]が誕生しつつあると考えられている。これがどのようなものかは、この時点ではまだ「言葉、言葉、言葉」にすぎない。『見えるものと見えないもの』でキアスムや肉chaireと言い換えられる概念だと考えておけばいいだろう。これがどのようにして可能となるか、その条件と機能は何かが、いわばメルロ=ポンティの究極の課題となるわけである。

★メルロ=ポンティの現象野の方法論
 メルロ=ポンティが提示した「現象野」の概念は、ここでは十分に展開されないが、緒論ではこの概念は三つの機能を負わされていると考えることができる。最初の機能は、すでに述べたような科学的な心理学の要素主義を批判して、意識の志向性の概念を強調することにある。

 第二の機能は、その逆の「行き過ぎ」である生の哲学に歯止めをかけることにある。メルロ=ポンティはここでベルクソンの「直観」の概念を批判する。ベルクソンの持続や直観の概念は、いささか神秘的な生の体験に対する思いいれが含まれているとメルロ=ポンティは考える。。

 これについては異議のある方もおられるだろうと思うが、ここではメルロ=ポンティが直観による体験の概念とは、つねに意識の彼方にあり、意識では把握できないものを考えていることを確認しておけばいいだろう。いわばそこにたどりつく方法のない概念、方法論的に意識や認識では到達できないことを前提されている概念である(ハイデガーの存在の概念も、このような性格の概念であった)。

 メルロ=ポンティの現象野は、持続や直観のような神秘性のある概念ではなく、意識の手前にある概念である。現象の概念は、意識の前・科学的な生に光をあて、これを明るみに出すことを試みる(PP#71, JT:114)。

 この現象野の第三の機能は、この第二の機能と密接にかかわる。現象野の第二の機能は、生の素朴な体験を否定しながら、体験そのものの可能性の条件を探ることにあった。このためこれは、現象学の超越論的な機能に近いことを感じさせる。意識の超越論的な分析は、フッサールが試みたように、科学の前提とする意識の領域、科学的な認識を可能にする条件を探求するからである。しかし現象野の概念は同時に、フッサール的な超越論的な自我の概念を批判する役割も果たすのである。

 メルロ=ポンティは現象野の概念は、意識に対して現象学的な還元をほどこした後で残る超越論的なコギトのようなものではないことを強調する。野champとしての場は、コギトやモナドのように点的な性格をおびるものではなく、つねに身体をもって世界に開かれた場であるという性質のものだからである。

 現象野は、つねに一つのパースペクティブをもって世界に向き合っている。身体をもつわれわれは、つねに有限で、偏りがあり、受動的な主体として、世界にまなざしを向ける以外にないのであり、還元の「残余」として残ったものでも、特権的な地位を保持するものでもないのである。

 メルロ=ポンティは、カントの名前において、超越論的な自我の概念と、この自我による他我の構成の概念を批判するが、この他我批判はほとんどそのままでフッサールにも適用されるだろう。他我が「構成」しなければならないものとして登場すること自体が、メルロ=ポンティにとっては奇妙なことなのである。
   …哲学の中心は、どこにでもあり、しかもどこにもない自律的な超越
   論的な主観性ではない。哲学の中心は、反省を永続的に開始し、個人
   的な生が自らについて反省しはじめる場所にあるのである(PP:75-6,
   JT:121)。

 メルロ=ポンティの方法論は、持続のような特権的な体験に依拠することも、構成と還元する主観の至高性に依拠することも拒みながら、世界に開かれた身体(肉)における意識の現象から、性的な欲望から政治的な自由にいたるまでの人間の意識の経験のさまざまな運命を考察しようとすることにある。

注:
M. Merleau-Ponty, Phenomenologie de la Perception, Gallimard, 1945 TEL (PPと略記)
 メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(中島盛男訳、法政大学出版局)(JTと略記)