幻影肢の問題性
『知覚の現象学』を読む(四)
−−第一部「身体」、第一章「客体としての身体と機械論的な生理学」
(中山 元)

★哲学的な難問の意味
 今回は第一部「身体」の序にあたる部分であるが、身体がメルロ=ポンティにとっての「キーワード」であることは明らかだろう。身体の概念がときに過剰な負荷の重みに苦しんでいる時があるように思えるほどである。

 この部分でメルロ=ポンティが提示しようとするのは、人間が身体をもつということによってどのようなことが可能となるかである。いや、これは正確な言い方ではないかもしれない。メルロ=ポンティがここで提示するのは、近代の科学的な認識論においてほとんどアポリアのように考えられてきている主観と客観の対立という概念が、人間が身体をもって生きるという現実の事態からみると、いかに歪んだものであるかということである。

 ただ、これは哲学のかなり宿命的ななりゆきなのであるが、ふつうに考えると、だれもこのようなアポリアを生きているわけではない。天文学者も日常の生活の上では、太陽が朝、東から昇ってくることを疑うわけではないし、そのようにみえることを疑問に感じているわけではない。

 メルロ=ポンティがここで提示するアポリアも、日常生活の上ではほとんど意識されることもないアポリアである。このアポリアによると、人間は客観について何も理解できないし、主観についてもなにも理解できない(PP#86, JT:134)ということになるのだが、こんなことを真面目に信じている人間がいるとは思えないからである。

 しかしこの主観と客観についてのアポリアを取り上げる必要があるのは、科学的な認識、あるいは科学的な認識の背景にある考え方が、ふつうの事態では無害なものとして現れていても、その考え方の論理を究極まで押し詰めると、人間の生そのものにとって重大な結論を引き出す場合があるからである。

 医学における臓器移植の問題や環境保護問題など、われわれの生活にとって重大な帰結を及ぼす可能性のある問題が、科学的な認識論的な前提によって生まれてくるものだとしたら、このような帰結をもたらす認識論上の諸前提は、哲学の領域において考察する必要があるテーマだろう。

 メルロ=ポンティがここで試みるのは、日常生活においてはそれほど重大な帰結をもたらさないはずのいくつかの前提が、どのような認識論的な難問を秘めているかを、哲学的に「拡大」して提示することである。そしてこうした難問を解決する道を示すというよりも、こうした難問を別の視点からみる見方を提供することだと考えることができるだろう。

★主観と客観のパラダイムのアポリア
 さてメルロ=ポンティがここで提示した二つの不可能性は、主観による客観の認識の不可能性と、主観が主観自身を認識することの不可能性である。この二つの不可能性が組み合わさると、すでに指摘したような認識論的なアポリアが生まれるのである。

 まず主観が客観を認識することの不可能性は、カントの物自体の理論からの遺産であり、カントでは逆にこれが人間の自然認識の法則の基礎を提示した。しかしカントのこの理論は、認識論的には大きなペシミズムを生み出すことになった。クライストがカントの理論を学んで、人間には真理を認識することはできないのかと絶望として自殺を考えたというのは有名なエピソードである。

 カントの思考方法をかなりの程度まで受け継いでいるフッサールの現象学が示したのは、物自体という概念が無意味なものであることを指摘しながらも、人間が物そのものを認識するということの不可能性を提示するものであった。誰もがある視点(パースペクティブ)からしか物を認識することはできず、物の背面を含めて、その全体を一挙に把握することはできない。これが志向性という概念に含まれていた一つの前提である。

 フッサールはここから相対主義を引き出すわけでも、不可知論を引き出すわけでもない。これは人間のまなざしというもののもつ不可避的な特性を確認したことにすぎない。しかしこれを同じような観点を提起したライプニッツの視点と比較すると、不可知論的な意味合いははっきりしてくるだろう。ライプニッツはモナドはある都市をさまざまな視点からみるようなものであり、都市そのものは同一でも、それをみる個人によって「見え」が異なることを指摘していた。

 しかしライプニッツの場合には、モナドの認識の背後に、神という唯一点が存在しており、これがそれぞれのモナドの認識の正しさを保証する仕掛けになっていた。これにたいしてフッサールではこのような正しさを保証する装置は存在せず、しかも認識の正しさの根拠を認識する「自我」の能力だけに求めたために、独我論的な見方が登場する可能性が残されていた。

 メルロ=ポンティはここから、現象学に引き継がれた認識論的な視点が(フッサールにおいては現象学が科学的な認識を基礎づけるものと考えられていた)、結論としては対象と客観的な認識を否定することを指摘するのである。志向性としてのまなざしは、「対象をその完全な姿で所有」するものではない(PP#84, JT:131)。

 このような客観の認識の不可能性は、逆の意味で主観そのものの認識の不可能性を招き寄せる。この部分のメルロ=ポンティの記述はすこしわかりにくいが、人間の意識がこのような物そのものの認識の不可能性を認めるとともに、その地平を踏み越えて、理念へと赴いてしまう性質があることを指摘しているだろう。

 人間が理念の領域で語る場合には、個別の具体的な認識ではなく、理念としての身体、時間、空間、宇宙について語る。しかしこうした理念は、人間の直接的な経験の対象である知覚との接触を失ってしまう。意識が自己知に閉じこもり、理念について語っている限り、意識は自己についての真の認識の可能性を放棄することになる(これはカントの経験論論駁と似た論理の運びである)。

 メルロ=ポンティは、このアポリアを解く場所があるとすると、それは人間の意識が事物としての対象を認識する場所でもなく(これは客観認識の不可能性が適用される領域である)、人間の意識か自己知を認識する場所でもなく(ここは主観認識の不可能性が適用される領域である)、人間の意識が主体ではなく、対象となる自己を認識する領域である。メルロ=ポンティにとって人間の「身体」が認識論的に特権的な位置を占めるのは、身体がもつこの特異な性格のためである。

★幻影肢の問題性
 第一部「身体」の最初の節では、「客体としての身体と機械論的な生理学」というタイトルで、まず身体を客体として捉える生理学の観点から、身体のもつ複雑な特性を考察する。中心となるのは、有名な幻像肢の問題である。

 しかし最初に、メルロ=ポンティにおける客体の概念には、サルトル的な即自の概念に強く影響されていることを確認しておくべきだろう。身体を客体としてみるということは、「相互外在的」にみるということであり、身体を意識の主体ではないもの、サルトル的な意味での「即自」的なものとしてみるということである。メルロ=ポンティが客体の問題を考える際には、デカルト的な心身二元論とはいくらか異なる文脈からスタートしていることに注意が必要だろう。

 しかし同時にメルロ=ポンティの視線は、即自的なものに対する意識の主体としての対自的なものというサルトルの弁証法的な論理に従うものではないことにも注意する必要がある。弁証法的な発展ではなく、弁証法がそもそも可能となるために必要な条件が模索されているというべきだろう。

 このことは幻影肢の問題の考察から明らかになる。メルロ=ポンティが幻影肢の問題を提示するのは、これがまず生理学という人間の身体の自然科学的な分野において発生する問題であるからである。これは緒論で考察されてきた「錯視」の問題とは異なり、人間の自己の身体についての幻覚を含むものであり、世界という環境に対応するために必然的な「誤謬」である錯覚として片付けることができない重要な問題を提起する。

 そもそも錯視の問題が心理学者を魅惑したのは、それが人間の心理学的な機構をその否定性において、すなわちそれが本来の機能を果たさないという逆の機能において、明確に示すものだったからだろう。人間のさまざまな特性は、その否定性においてはじめて明瞭になる場合が多いのである。言語の機能が失語症においてあらわになり、健康が病において、生命が死においてあらわになるように。

 しかしこの錯視のテーマが心理学で繰り返し指摘される背景には、これが「科学的な」実験においてなんどでも反復できることがあるはずである。被験者を問わず、場所を問わず、環境を問わず、わたしたちはほとんどいつでも同じ錯視を繰り返す。水を半ば満たしたビーカーにさした箸を横からみれば、だれでも曲がっているというのである。

 しかしこのような実験は人間の身体という問題を考察するには適切ではない。ここでは錯視する主体は、抽象的で客観的な主体、無名で中性な主体であり、「科学的な」心理学には好都合であっても、主体であり、同時に客体であるという特質をもつ人間が、自己の身体についてもつ知覚を分析するには不適切なのである。

 メルロ=ポンティが考察しようとしている「身体」は、このような無名で中性なコギトのような主体が、その外部にもつものではない。わたしたちが世界にすむことではじめて考察することが可能となるものであり、抽象的な思考実験のような形で考察することができない性質のもの、「世界に立ち向かう身体」としてしか考察できないものである。

 身体とは、純粋に生理学の対象として考えることはできないことをあらわにするのが幻影肢の問題である。このテーマはデカルト以来、哲学の重要な問題系となってきた。デカルトが『省察』で指摘しているように、たとえば脚部を切断された人が、自分の失われた脚が「かゆい」と感じるとしたら、それは自分に身体があるという知覚の正しさを疑わせる原因となりうる。わたしたちは身体をもっていると思っているだけかもれしないのである。

 デカルトはこの幻影肢の現象を利用して、身体の可疑性と、精神の存在の不可疑性を提示した。身体は切断されて存在しないかもしれないが、それを感じる精神は存在するのだけは確実だと考えられるからである。このデカルトの二元論を生理学的に表現すると、切断された脚は存在しないが、脚につながる部分から精神(脳)につながる神経系統が残存し、ここで誤った信号が送られるということになる。

 これは身体は「よく掃除された機械」une machine bien nettoye(PP:90, JT:141)と考える視点であり、これをその主人である精神(脳)が利用するというデカルト的な生理学につながる。

 これに対して、現代の生理学的な調査から、幻影肢が生理学的な現象であると同時に、心理学的な現象でもあることが明らかになってきている。生理学的に根拠のない場合にも、心的な外傷によって幻影肢の現象が発生するのである。現代の生理学は、この現象を解明する手段をもたないようにみえる。心理学と生理学を統合する場が、科学的な領域に存在しないからである。

 メルロ=ポンティはこれを即自の領域に属する神経衝動という客観的なプロセスと、対自の領域に属する思惟に共通な場がみつからないと表現する。ここでもサルトル的な概念構成があらわであるが、幻影肢の問題は人間の身体を客体的なものと考える「科学的な」思考が破綻していることを告げるわかりやすい例なのである。

★「世界での存在」について
 メルロ=ポンティは幻影肢と関連して、これまで前提にされてきた「世界での存在」という概念をかなり詳しく展開する。これまでは「世界」という概念がハイデガーの世界内存在を踏まえて語られてきたが、それがどのような概念であるのかは明確にされていなかった。

 メルロ=ポンティの世界での存在etre au mondeという概念は、ハイデガーの世界内存在とかなり共通した概念であるが、異なる部分もある。ハイデガーは世界内存在の概念を考察するにあたって、世界とはなにか、「内」とはなにか、「内存在」とはなにかというふうに概念を分節して考察した。しかしその際に第一の前提とされていたのは、現存在と他の存在者の間の「存在論的な差異」であった。

 現存在とは、存在とはなにかという問いを問い掛われる対象であるとともに、こうした問いを問うことができる主体である。存在と存在者の差異が明確になったのは、そしてそもそもこの問いを提示することができるのは、現存在という卓越した存在者が存在するからであり、またこの存在者に対してだけである。後期のハイデガーにおいても、人間は言葉の「牧人」としての特権的な地位を失うことがない。

 ハイデガーは『存在と時間』では他の生命をもつ存在について考察しないが、動物という概念は、その後のハイデガーにとってはひとつの「罠」となる概念となるのである。

 しかしメルロ=ポンティにとっては、この世界での存在とは、そのような動物と人間、現存在でない存在と現存在との存在論的かつ認識論的な切断を前提とする概念ではない。切断線は人間と動物の間ではなく、動物と(たとえば)油滴のようなものの間に引かれる。世界にある動物は、重力の法則に従う油滴とは異なる振る舞いを示す。

 たしかに動物は、本能というアプリオリなものに従うようにみえるが、これはプログラムのように作動するものではなく、個体差を生みながら発動する。メルロ=ポンティは、これは人間についても同じであると考えているようである。世界のうちに生きる動物は、生理学的な機能だけに従うのではなく、世界に生きることを可能にするようなある「前・客観的な視」vue preobjectiveに規定される。

 メルロ=ポンティはまだこのがどのようにして形成されるか、これがどのように機能するかについては詳しくは語らないが、このをもつ動物は、単に世界に「ある」のではない。この主体は本能のようなアプリオリなものに動かされながらも、世界との間で一つの抜き差しならない関係を結ぶ。この関係は、生理学的な法則だけで解明することはできないし、認識論だけで考察することもできない。

 個体としての動物は、世界について知覚し、世界を認識する。しかしこの認識や知覚そのものは、客観的な生理学だけで解明しつくすことができない。個体には個体史的な世界との関係が存在するのである。それはその個体の歴史において、それまで形成されてきた世界との関係が変動した際に、それぞれの個体が示す反応によっても確認できる。

 動物が一つの能力、たとえば視力を失った場合を考えよう。ある個体はこの変動にうまく適応できない。世界がそれまでのその個体にとっての世界のままであると考えて反応する。その個体はいたるところで障害物にぶつかるが、自らの視力の喪失をうまく認識できない。ここではその個体は、世界が遠のいてしまったことに対処できないのである。

 これに対して、こうした変化に過剰に反応する個体もある。世界がすべて失われてしまったかのように振る舞い、世界との接触の可能性を自ら絶ってしまう。世界との関係が、視力以外の他の能力によってまだ可能であるのに、視力を失ったことによって、世界との関係の全体が絶たれたかのように振る舞ってしまうのである。

 メルロ=ポンティは、このような世界との振る舞い方の差異は、人間を含む動物と世界との関係を、生理学的なデータだけで解明することができないことを示すものだと考える。そして逆に言えば、このような「世界での存在」という振る舞いを示す人間の行動を考察することで、生理学と心理学という二つの領域の「橋」をかけることができるのではないかと期待するのである。

 幻影肢という事例は、その面でもメルロ=ポンティにとって重要な意味をもつものとなる。これは人間がたんに世界に「ある」だけでなく、「世界での存在」として、世界に実存しているということを、疑問の余地なく示してくれるからである。

★身体と世界
 メルロ=ポンティが指摘するように、幻影肢の問題は、生理学的にも心理学的にも十分に解くことができない。生理学的には、切断された腕は存在しないが、心理学的には主体にとって腕は「存在する」。この二つを「科学」は統合できない。切断する腕を「存在する」と感じる主体の経験は、科学的に分析されることを拒む種類の経験なのである。

 科学的な分析では、主体がなぜ切断した腕がまだあるかのような幻覚を抱くかを解明することができないが、メルロ=ポンティはこれは人間の実存という事態を表現するものだと考える。人間が世界のうちにおいて、行動し、行動する欲望をもつ主体として存在しているために、失われた腕をまだ使うことができるという幻想が発生するのである。

 「自然科学」は、この人間の世界における実存の意味と、こうした幻想の性格を分析するには適していない。「ないものがある」という両義的な性質の現象は、科学的な分析にはそぐわないものを含むのである。メルロ=ポンティが目指すのは、科学的な分析では手が届かないこの実存という現象を、現象学的に分析することである。

 メルロ=ポンティは、人間がこのような奇妙な幻想を抱くことの根拠が、世界に実存するという事実であることを指摘するとともに、世界がそもそも「世界」という人間に立ち現れてくること条件を考察する。ハイデガーが『存在と時間』の中で指摘しているように、人間が世界において存在しているのは、机が空間の中にあるように存在しているのとは異なる。それでは人間が机と異なる資格をもつ存在者として存在しうるのはなぜか。

 ハイデガーは『存在と時間』においてこの問いを明示的に立てることはなかった。存在の問いがそもそも立て得るということは、現存在という特別な存在を前提とするものであり、その問いは当然のことを問うようにみえたからであろう。しかしメルロ=ポンティは、ハイデガーには自明にみえたこの問いを問い直す。人間が世界において存在することが可能となるのはなぜか。

 この問いに対してメルロ=ポンティが提示する最初の答えは、人間が身体をもつ存在者であるということである。実はこれではまだ十分な答えとはならないのだが、最初の回答としてメルロ=ポンティは、人間が世界に存在することと、世界の存在を意識するのは、身体によってであることを提示する(PP:97, JT:150)。

 しかしこれは回答としては不十分である。世界において存在するという事態を、身体という別の概念で言い換えたにすぎないからである。それでは身体をもつということによってなにが可能になるか、その根拠はなにかが問われる必要がある。

 その答えは、この書物一冊では提示されず、メルロ=ポンティの遺稿『見えるものと見えないもの』にいたっても、明確な形では示されない。この問いは、メルロ=ポンティの探求を進める駆動力として、メルロ=ポンティの考察のうらにつねに息を潜めているのである。

 この部分はまだ客体としての身体を問題とする箇所であり、メルロ=ポンティは身体の二つの層を提示するにとどめている。一つは習慣的な身体という層であり、もうひとつが現実的な身体という層である。人間の身体は現実的なものである。これは生理学の対象であり、医学の領域でもある。

 しかし人間は自分の身体に対して、つねに現実的に対処するとは限らない。というよりも、人間が世界に存在するという存在様態そのものが、人間が自己の身体に対して「現実的に」対処することを妨げるというべきであろう。

 人間がこのような存在様態をするということは、ハイデガーが『存在と時間』の世人論で素描したものであるが、ハイデガーはそれを人間の非本来性として描き出した。ハイデガーはそれが人間の本来的な非本来性であることを認識していたが、それを一つの「欠如」や「頽落」の様態として描き出したのである。

 それに対してメルロ=ポンティは、それこそが人間の「本来的な」存在様態であることを指摘する。メルロ=ポンティがハイデガーの世界内存在論に着想を得ながらも、後期フッサールの生活世界論に依拠するのは、フッサールの理論にはハイデガーのような半ば神学的な本来性の議論がないことも、重要な要素だっただろう。

 メルロ=ポンティが身体をこのように世界と人間の在り方の根本的な存在様態として考察することによって、二つの重要なことが可能となると考えることができる。一つは人間が世界と自己について抱く幻想を、身体を根拠にして考察することが可能となるということである。心理学から精神分析にいたるまでの人間のさまざまな心的な世界を、身体という視点から考察することが可能になる。

 もう一つは、人間の意識における「地平」を哲学的に考察することが可能となる。ここでは地平とは、後期のフッサールが考えたように、つねに消失する虚焦点のような意味で理解する必要がある。これによって、人間の意識の盲点の部分を「無意識」として考察しようとするフロイトとは異なる視野が開ける。この視点が、人間と世界との「非人称的な」関係、世界との「肉」の場という後期のメルロ=ポンティの考察の出発点となるのである。

 さて、幻影肢という生理学と心理学の境界にある事例は、人間の身体のもつ両義性を象徴的に示すものでもある。身体が両義的であるのは、それが人間の実存の可能性の根拠であると同時に、人間の実存の可能性の限界でもあるからだろう。

 人間は身体的な存在であることで、初めて世界での存在となりうる。身体をもたない存在は、世界にすむことができないのである。これは人間という存在様態(実存)を可能にする絶対的な根拠である。ハイデガーでは現存在が世界に存在することの根拠が、思惟の側面から問われる傾向があった。現在とはそもそも、問いを問い、問いを問われる存在たったからである。

 しかしメルロ=ポンティにおいては、人間がまず世界での存在となりうるのは、身体をもつからである。いわばハイデガーでは人間の実存の根拠は思考とロゴスにある。これに対してメルロ=ポンティにおいては、人間が実存しうるのは、なによりもまず身体的な存在だからである。

 以前指摘した人間と動物の境界の問題も、この世界における身体の位置づけに大きく規定される。思惟とロゴスで世界内存在を規定した場合には、世界における動物の位置はほとんど無に等しい。しかし身体によって世界での存在を規定した場合には、人間の身体性の固有性を無視することなく、他の動物たちの位置は排除されないからである。

 しかし同時に身体は人間の実存の限界をしるしづける。すべての人は、ただ一つだけの身体と、その身体に固有の歴史に刻印されている。ロゴスと思惟は(あるいは理性が)無時間的なものであり、言語の空間の中で無人称性をおびる傾向がある。コギトは思惟を思惟するという形式において、思惟を思惟する人物の固有性を消去しようとする。コギトはつねに抽象的なコギトなのである。

 これに対して身体的な存在は、理性的な存在であるとしても、単一で孤独な存在である。この身体は他の身体と交換することができない。この身体にすみついたこの自我の歴史は、固有のものであり、いかなる普遍性も客観性も拒もうとする強い性向をそなえている。一つの身体の歴史は、他の身体と交換することができないものである。

 この身体の固有性が、実存にも大きな限界を規定する。この実存は、個人的な生とその歴史によって規定され、ただ一つの実存でしかない。そこではこの孤独な実存が、他の実存に対して普遍的なロゴスを語ることは拒まれているようにすらみえる。身体の理性は、他者との交通を拒まれた理性、個別性という重要な限界に規定された理性なのである。

 この身体的な理性の両義性を、メルロ=ポンティはサルトル的な自由の概念で表現する。人間は身体的な存在であることによって自由な存在であることができる。しかし同時に人間の身体性は、人間の自由の領域を狭め、人間の自由をときにはほとんど不自由と同義的にものにしてしまう。

 人間は身体をもつことではじめて、世界のうちに存在することができるのであり、このような世界での存在として、初めて人間は自由な存在でありうる。その意味では身体存在は人間の自由の可能性の根拠である。しかし同時に人間は身体をもつことで、さまざまな不自由のうちに閉じ込められる。身体をもつ存在は、まず物理的な限界のうちにある。人間は鳥のように自由の空を飛ぶことはできない。

 さらに人間は身体によって、心理学的な限界のうちに閉じ込められる。人間が身体をもつことによって蓄積した人間の個体史、は、人間の行動に可能である領域と不可能な領域を設定する。ヒステリーを起こす患者は、そのヒステリーによって得られる「利得」とともに、みずからの自由な行動の領域を著しく狭めてしまうのである(これはヒステリー患者に限らない。すべての人間が自らこのような限界を設定しているのである)。

 これはサルトルの得意のテーマであることは、すぐにおわかりになるだろう。しかしメルロ=ポンティの理論の重要なところは、それを存在論という半ば形而上学的な伝統からではなく、人間の身体的な存在という構造から考えていったということにある。
   われわれの実存の中心を定めることを可能にするもの、それは同時に、
   それを絶対的に定めることを妨げるものでもある。われわれの身体の
   匿名性は、自由と隷属の分かちがたい結びつきである。要約すると、

   世界での存在の両義性は、身体の両義性に表現され、身体の両義性は
   時間の両義性によって理解できるようになるのである(PP#101)。

 どこかでハンナ・アレントが称揚していたように、人間の行動の逆説を、身体的な存在という人間の実存の構造から解明しようとしたのは、メルロ=ポンティの重要な功績だとといってよいだろう。


注:
M. Merleau-Ponty, Phenomenologie de la Perception, Gallimard, 1945 TEL (PPと略記)
メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(中島盛男訳、法政大学出版局)(JTと略記)