現象学的な方法の功罪
『知覚の現象学』を読む(六)
−−第一部「身体」、第二章
(中山 元)

●科学的な説明と実存的な了解
 さてメルロ=ポンティは、シュナイダー症例に対する心理学的で「科学的な」説明や、ギリシア哲学以来の伝統に依拠した哲学的な説明が、実証主義的な「後知恵」に終わるか、形而上学的な問題へと逸脱するだけで、真の意味での「了解」に到達しないことに不満を抱いている。

 メルロ=ポンティがこの症例をてがかりに考察しようとしているのは、世界における存在である人間の実存を「了解」することであるが、これらの二つの方法は、こうした人間の実存的なありかたには届かないのである。

 メルロ=ポンティはこの二つの視点の問題を掘り下げながら、メルロ=ポンティが手にしようとしている「了解」へと歩を進めている。このメルロ=ポンティの議論にしばらくつきあってみよう。

 最初の点についてはメルロ=ポンティは、ハイデガーの用語での人間の実存カテゴリーを生理学的な用語に還元しようとする試みに反論することを試みている。人間の心理学は、物体に適用される「カテゴリー」とは異なるものであるはずだが、シュナイダーの運動障害を完全に生理学の視点から説明しようとする場合には、心理学を生理学に、そして生理学を物理学に還元することを意味する。そして物理学とは実存する人間よりもまず、自然と道具を対象とした科学的な法則なのである。

 これについてメルロ=ポンティが指摘するのは、この症例の運動障害を視覚障害に還元し、この視覚障害を生理的な機能だけに還元することができると想定するためには、いくつかの前提が必要だということである。この前提が「科学」においてはみえなくなっているために、科学はその前提が存在するかのように振る舞う。

 この科学と哲学の考察の「前提」に対する考え方は、すでにハイデガーが『カント論』で指摘している点であり、科学と哲学の役割と位置を考える上でも示唆に富む点だろう。自然科学が自然の事物や、人間を含む生物に対して考察する際に、いくつかの「還元」を行う。古典的な物理学においては空間と時間の概念は前提とせざるを得ないものであり、これを基本的な枠組みとして、空間の中における時間的な運動を考察する。

 さらに物理学が生命体の運動について考察する際にも、生命体と自然の無機物を同じ手続きで取り扱うことができると想定する。物理学ではこの手続きが通用する範囲でしか考察しないのである。

 これは学問の対象と手続きに関する当然の制約であり、メルロ=ポンティも、それぞれの学が対象に適用する手続きに異議を申し立てるわけではない。ただメルロ=ポンティは、動物や人間などの生物においては、行動という物理学や生理学が適用できるはずの分野においても、自然の無機物や道具類とは異なる考察が必要とされることが、生理学において十分に考慮に入れられていないことに不満を感じているのである。

 そのことを示す例には事欠かないが、メルロ=ポンティがここで示しているのは、ドアをノックするという「能力」を備えている患者が、そのドアが手に届かない距離にあると、ノックするという「しぐさ」をすることもできない例をあげている。生理学的には、ノックをするというしぐさと、実際にノックをするという「動作」に違いはない。腕をあげ、指を丸めて、手首を軽く上下させればいいのである。

 しかし実際にドアを叩くという動作と、ドアを叩く「真似」をするという動作は、実は人間にとっては精神的に異なった次元のものであり、なんらかの心的な障害が存在した場合には、この次元の差を乗り越えることができないという場合がありうるのである。

 この障害は、視覚や触覚という生理的な機能だけにかかわるものではない。視覚的にはこの患者はドアを目の前に見ることができるし、触覚的にはさわり、その感触を得ることもできる。しかし実際のドアのノックはできても、その「真似」はできなくなる。この障害では、人間が「世界に対して開かれている」という実存の様態をとっていることが顕になるのである。

 このような存在様態においてしかありえない人間にとっては、同じ物理法則が異なる意味をもつようになる。その心的な機制を明らかにしない限り、こうした行動を(あるいは行動の不可能性)を説明することも、了解するともできないのである。

 第二の「見ること」と「触れること」についても同じことがあてはまる。世界において存在する人間にとっては、「見ること」と「触ること」は、哲学的にテーマではなく、どちらか根源的であるかとか、どちらが基礎づけの関係にあるという形而上学的な問題の出し方では、その存在様態を説明することができない。

 メルロ=ポンティは「見ること」と「触ること」が、人間における行動のさまざまな「構成要素」のように存在しているのではなく、人間の行動を可能にしている統一的な機能のさまざまな「現れ」にすぎないと指摘している。人間の心的な障害によって、世界における存在様態が攪乱された場合には、見ることにおいても、触ることにおいても同じように障害が発生するのであり、これを「見ること」だけからも、「触ること」だけからも説明することはできないのである。精神盲、触覚の不完全性、運動障害は、ある基本的な障害の表現であり、病的な行動を「構成する要素」ではないのである(PP:138-9, JT:208)。

●即自と対自の概念による説明
 さてメルロ=ポンティはこの運動障害を説明する別の可能性を示唆する。これはサルトル的な「即自」と「対自」の概念を利用すれば、これを説明できるのではないか。「掴むこと」ができて、「示すこと」ことができないということは、その患者にまだ「即自的な」運動の能力が残れさていて、「対自的な」運動の能力が失われていると考えることができるのではないか。

 これはメルロ=ポンティが指摘するように、運動の質的な内容ではなく、形式から考察しようとするみかたであるが、ここでもいくつか難問が発生する。まず、メルロ=ポンティは明言していないが、「即自」と「対自」の構造的なありかたが不明である。

 この考え方では、「対自」的な能力が「即自」的な能力の上に重なるように考えられていることに問題がある。二つの能力の層は互いに独立していて、上の層が失われても、下の層がそのままで残っているかのように考えられているが、そのようなことが可能かどうかが、実は重要な問題となのである。これはサルトル的な概念に新しい視点を導入するものとなるだろう。

 もう一つの問題は、同じ「即自的」な運動であるはずの生理学的な運動においても、患者には同一の意味を持たないことが指摘できる。蚊に食われた場所はすぐに掻ける患者も、医者が定規で当てた場所を示すことはできない。しかしメルロ=ポンティは、生理学的にはこの二つの意味は区別できないことを指摘する。これを区別することができるのは、その主体が世界において存在する実存的な主体だということだけである。

 たしかに蚊に食われた場所を掻く行為は「即自的」にみえるかもしれないし、医者という他者から定規を当てられた箇所を示すという行為は「対自的」にみえるかもしれない。しかしメルロ=ポンティが指摘したいのは、世界に実存する人間にとって、「即自的」なる運動は存在しないということである。

 そもそも空間の認識から「掴む」運動の全体を可能にし、支配しているのは、カテゴリー的な態度であり、このカテゴリー的な態度が人間のすべての行動の基礎となっているのである。そしてこのカテゴリー的な態度の形成が可能となるのは、人間が他者との間で形成する関係という「対自的な」場が存在する限りにおいてである。

 メルロ=ポンティは、サルトル的な即自と対自という哲学的な概念は、人間の知覚と行動について考察する場においては、実は身体と精神という古典的な哲学的な区別と同じような欠陥をそなえていると考えている(これはサルトルの哲学を否定するという意味はもたない)。

 抽象的な運動と具体的な運動というここでの問題を、「形式的な」側面から考察しようとするこの考え方は、これを「内容」から区別しようとする考え方と同じように、人間の行動のもつ基本的な問題を捉え損なってしまうのである。

●シンボル論批判
 前回の部分でメルロ=ポンティは、シュナイダー症例だけでなく、身体と精神との間に生じる齟齬が「病」として表現される症例について、即自と対自という存在論的な考察方法を検討し、その不十分な点を指摘した。今回の部分では、この問題に対する「主知主義的な」考察方法について批判する。

 ここで「主知主義」という(かなりメルロ=ポンティに独自の)用語で考えられているのは、ドイツ観念論と人間学の伝統、特に新カント派の伝統をつぐカッシーラーの「象徴」論である。カッシーラーの象徴論は、人間の言語能力以前の象徴化の能力を基礎にして哲学の問題を考察する興味深い視点であるが、メルロ=ポンティはこの「象徴」という概念の重要性をまず認める。象徴という概念は、言語的な概念と身体的な意識の間をつなぐカテゴリーとなりうるからである。メルロ=ポンティが苦闘しているのも、この象徴という概念の目指している領域と同じ場所だからだ。

 しかしカッシーラーの『象徴形式の哲学』を読んでみるとわかるように、象徴論は、精神の障碍における身体的な意識と精神の関係をその具体性において捉えることには成功していない。たしかにカッシーラーもゴールトシュタインの症例や失語症の症例などを検討しながら、言語と精神の関係を考察するのだが、カッシーラーはこうした症例を「シンボル的な思考」の重要性の傍証として考えてしまう傾向がある(「第二部 表出機能の問題と直観的世界の構造の第六章「シンボル意識の病理学によせて」などを参照)。カッシーラーはこの精神疾患の問題を、あくまでもカントの図式論と産出的構想力の欠陥の問題として考えようとするからである。

 この書物ではカッシーラーとメルロ=ポンティは同じ症例を検討しているので、比較して読んでみるとおもしろい。カッシーラーにとっては問題はあくまでも表象と象徴の空間の問題であり、空間において生きる身体と精神の問題が正面から取り上げられることはないのである。この書物を読むと、カッシーラーはフンボルト以来のドイツの言語哲学の流れの中にいるために、かえって言語の原初的な問題をうまく捉えかねているという印象を受ける。

 メルロ=ポンティの批判に戻ると、「主知主義」が把握できないのは、疾病の具体的な本質、すなわち、その普遍性と特殊性を同時に表現する「構造」だということになる(PP:147, JT:218)。「構造」というだけでは、「象徴」といったのと同じように、問題の解決にはならないのだが、メルロ=ポンティではこの概念は自分の理論を構築するためのキー概念になっていないということだけは言えるだろう。

 メルロ=ポンティにとって関心があるのは、人間と世界の関係を象徴のような概念によって説明することではなく、人間が世界のうちに「住む」ことが可能であることの不思議さを、原初的な事実にたち戻って、何度でも考え直すことである。なぜ精神疾患の患者は、アナロジーや隠喩を理解できなくなるのという問題一つを考察しながらも、メルロ=ポンティは人々が比喩で意思を伝達しあえることの不思議に直面する。

 メルロ=ポンティはまだこの不思議さを、人間が世界に実存することの不思議さとしてしか表現できないが、メルロ=ポンティのこの著作の強みは、その不思議さをたとえば後年のメルロ=ポンティのように「肉」とか「キアスム」とか表現してしまわずに、またカッシーラーのように哲学的な伝統から引き継いだカテゴリー群を使わずに、考えようとしているところにあるといえるだろう。

 肉とか象徴などの概念やカテゴリーによってこの問題を考察することは重要な営みであり、哲学的にも含蓄の深い考察が可能となる。ドゥルーズならずとも、哲学とはそもそもこのような概念によって、理解しがたい世界に取り組み営みだともいえるだろう。しかしこうした方法は魅力的であるだけに、それによって取り逃がしてしまうものがあることに注意する必要があるだろう。

 メルロ=ポンティのこの書物の重要性は、哲学的な「見返り」のない場所で、ほとんど徒労のような無為の試みを粘り強く続けたところにあると思う。そしてそのためにもメルロ=ポンティにとっては、現象学によって可能になった方法が、貴重なものだったのである。

●現象学的な方法の功罪
 さて、メルロ=ポンティが考えるのは、象徴のような概念的な操作に頼るのではなく、人間が世界に「住む」ということの意味をもって身体的なレベルで掘り下げられないかということだった。そのためにメルロ=ポンティがこれまで利用してきたのは、失語症や幻影肢などの症例だった。正常な人間の世界との関係を、ある欠落から逆に読み取るというのが、ここでのメルロ=ポンティの方法である。

 たしかに正常な人間の世界との関係を前提にしていたのでは、人間が世界に住むことがどれほど複雑な前提を必要としているかを考察することは、非常に困難になる。わたしたちはごく自然に世界のうちにいきているので、その不思議さに驚くことが困難なのである。

 そしてこの困難さに伝統的な哲学の手段で立ち向かおうとすると、どうしても哲学的な概念に頼らざるを獲なくなる。『存在と時間』のハイデガーの試みは、メルロ=ポンティにとっても驚嘆すべき手本であると同時に、避けるべき手本でもあったはずである。ハイデガーは実存の概念についてサルトルを批判していたが、人間の本質や実存という哲学的な概念でものを考えていたという意味では、ハイデガーもそれほどサルトルと異なるわけではない。議論のあるところだが、本来性、非本来性、頽落、世人など、ハイデガーが『存在と時間』で駆使した概念には、その哲学的な負の伝統が重くのし掛かっているのはたしかだろう。

 後期のメルロ=ポンティの営みをみると、あるいは彼も『存在と時間』のような本、『存在と無』のような本も書きたかったのかもしれないとも思うが、この時点でメルロ=ポンティが目指したのは、精神や身体の病理的な欠陥から、人間と世界の関係を逆照するということだったと考えることができる。

 ただしこの方法には逆の意味での欠陥があることを指摘しておく必要があるだろう。欠落しているものを解明することで、正常な人間についての哲学を構築するためには、なにが欠落であり、なにが正常であるかという規範が必要とされる。これは「病」として生じていることから、一応は実証的に示すことができるものだが、人間の病を病として指定するには、人間の全体像についての規範的な像が必要とされるのである。

 だからここである種の循環論が存在している。ハイデガーの頽落という概念が本来性の概念を想定していたように、メルロ=ポンティの欠落や病理の概念は、正常な人間の活動という規範を前提とする。この前提は方法論に必要なものであるため、これは不可欠であるが、このことがうまく意識化されない場合には、欠落によって照らし出された人間の像に歪みが発生する可能性があるということである。

 具体的な例は、シュナイダーの知覚障害や知能障害の分析にもみられるだろう。メルロ=ポンティは、シュナイダーが万年筆を万年筆として認知するために、どのような迂回路を取る必要があるかを詳しく説明する。シュナイダーは万年筆を万年筆として知覚するのではなく、まずそのものの色、形、素材などを順に考察しながら、これはものを書く手段に違いないと推論し、最後に万年筆と呼ぶという。

 わたしにはこの部分を読むと、医者がからかわれているような気がするのだが、それはきっと思い過ごしだろう。しかしここで患者は、欠落のある人間としては非常な困難な推論を経由する。万年筆の形から、筆記道具であるという推論を下すこと、それを万年筆と呼ぶことには、通常であれば、越えがたいギャップが存在する。患者は実は最初からこれを万年筆であると知っているのでなければ、この推論の鎖をたどることはできないと思えるのである。正常な「人間」であっても、万年筆に類似の筆記道具を使う社会に住んだ経験がなければ、その形から筆記道具であることを推論できるはずがないと思えるからだ。

 メルロ=ポンティはこの症例から、患者における対象との「交信」(Communication) の欠如を指摘し、世界に住むということは、物事が一挙に「語りかけてくる」ことであると指摘する。正常な人間にとっては世界は「表情」をもっているということになる(PP:153)。メルロ=ポンティがここで考察していないのは、患者には世界の表情が欠けているとしても、この西洋の現代社会に住む患者と医者は、現代の別の社会に住む「正常人」と「正常人」よりも円滑に意思疎通をしているかもしれないということである。

 これはメルロ=ポンティ自身のうちでの無意識的な人間学的な前提によるものと考えられるかもしれない。この規範性の問題は、メルロ=ポンティの問題意識を受け継いだミシェル・フーコーによって取り上げられることになる。

 もう一つ、メルロ=ポンティの方法には循環が存在するが、これはこの書物の方法論からして仕方のないことかもしれない。それは人間が世界において存在することについて、この書物のように、知覚、空間性、性的存在、言語という順序でたどることができるかどうかという問題にかかわる。シュナイダー症例の分析においても明らかなように、知覚そのものにおいて、最初から言語の利用が前提とされている。

 欠陥があるにせよ、患者が他者と交信できるためには、言語が必要であり、患者もすぐれて言語的な存在である。知覚の成立そのものにおける言語的な契機は、知覚の考察においても、身体の性的な活動の意味の考察においても前提となる。メルロ=ポンティは患者にとっては他人の言葉は「解読しなければならない記号」に化すと語るが、患者において、他者の言葉を解読する能力が存在することの重要性は、この章の最後の「表現としての言葉と身体」の節まで、あまり重視されないようである。

 これはないものねだりかもしれないが、メルロ=ポンティは人間の認知や知覚そのものにおける言語の契機をもっと早い段階から考察に組み込むべきではないかと思わざるをえない。メルロ=ポンティが哲学的な概念に頼らずに、身体という場から人間が世界に住むことの意味を考察しようとしたことは大きな功績だけに、身体の考察が言語の考察と(一応)切り離して行われているこの書物の構成が少し残念になる。

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M. Merleau-Ponty, Phenomenologie de la Perception, Gallimard, 1945 TEL (PPと略記)
メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(中島盛男訳、法政大学出版局)(JT と略記)
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