個人の歴史と公共の歴史における「制度」
(メルロ=ポンティ、中山 元訳)

 制度という概念に、意識哲学の難点の治療法を探してみよう。意識の前には、意識が構成した対象しか存在しない。対象のうちのあるものは、「完全ではありえない」(フッサール)としても、それぞれの瞬間において、対象は意識の行為と権能を正確に反映したものであり、対象には意識を他の視点に投入できるようなものはなにも存在せず、意識と対象の間には、交換も運動もない。意識が自らの過去を検討する場合に、意識が知っているのは、そこには不思議にもわたしと呼ばれている他者がいるということだけであり、この他者がわたしと共有しているのは、まったく普遍的な自己性だけであり、わたしはすべての他者とこの自己性を共有することで、その概念を形成できるのである。

 わたしの過去が現在に座を譲ったのは、一連の連続した炸裂によってである。そして意識が他者について考えるとき、意識にとってはその他者に固有の存在は純粋な否定性にすぎないし、意識は他者が自分を見ていることを知りえない。意識が知っているのは、自分が見られているということだけである。さまざまな時間とさまざまな時間性は共にあることが不可能であり、相互に排除するシステムを形成するにすぎない。

 主体が構成されたものではなく、創設[制度化]するものであるとすれば、逆に主体は瞬間的なものではなく、他者は単に自己自身の否定ではないことが理解できよう。ある決定的な瞬間にわたしが始めたことは、客観的な記憶として遠い過去にあるものではなく、引き受けられた記憶として現在にあるのでもない。実際はこの間のわたしの生成の場として、その二つの中間の場所にあるのである。そしてわたしと他者の関係は、あれかこれかという関係に還元されることはないだろう。創設[制度化]する主体は、他者と共存することができる。創設されたものは、その主体の固有の行為の直接的な反映ではなく、すべてを再び作りだすことはないとしても、その主体や他者によってこれをやり直すことができるからである。そしてちょうど蝶番のように、わたしと他者の間にあり、わたしとわたし自身の間にあり、わたしたちが同じ世界に属することの帰結でもあり、保証でもあるからである。

 このように制度化ということで考えたいのは、ある経験の出来事である。この出来事が経験に持続的な諸次元を与えるのであり、こうした持続的な次元とのかかわりで、他の一連の経験が意味をもつようになり、これが思考可能な系列としての歴史を形成するのである。またこの出来事は、わたしのうちに意味を沈殿させるが、この意味は残存物や残滓としての資格においてではなく、あとにつづくものへの呼び掛けであり、未来の要請としての沈殿するのである。

 この制度化の概念について、講義では現象の四つの次元を通じて検討した。最初の三つの次元は個人的または間主観的な歴史にかかわるものであり、第四の次元は公共の歴史にかかわるものである。

 動物性においても制度化のようなものが存在する−−動物が生まれる際に、その周囲の生物によって影響を受けることがある。また純粋な「生物学的」と考えられている人間の機能にもみられる−−思春期には、制度化に特徴的な古代的な出来事(ここではエディプス的な葛藤)が、一定のリズムで保存され、再発し、追い越す現象がみられる。しかし人間においては、過去はたんに未来に向かうだけではないし、成人が直面する問題を引き起こす原因となるだけではない。過去はカフカ的な意味での探求の場、際限のない精密化の場となるのである。保存と追い越しはさらに奥行きのあるものとなる。行動はその過去によっても、その未来によっても説明できるものでなくなり、互いに響きあうものとなる。

 プルーストの愛の分析は、過去と未来、主体と「客体」、肯定的なものと否定的なものの間で相互に発生するこの「同時性」、結晶化作用を明らかにしている。ごく概略的にいえば、情緒は幻想であり、制度化は習慣であるようにみえる。そこにあるのは、幼年期やほかの場所でまなんだ愛し方であり、愛は「対象」の内的なイメージだけにかかわるものであり、真のものであるためには、すなわち他者にとどくためには、愛がだれによっても生きられたものでないことが必要だからである。しかし純粋な愛とは不可能であり、それは純粋な否定になってしまうことが理解されれば、この否定は一つの事実であり、この不可能なことが起こることを認める必要がある。

 プルーストがかいまみたのは、悲しみのうちにまぎれなくも存在する愛の否定的な生である−−たとえその悲しみが離別や嫉妬の現実だとしてもである。錯乱の極において、嫉妬は無関心となってしまうのだから、現在の愛が過去のこだまにすぎないと主張するのは不可能である。逆に過去が現実の準備あるいは予謀という形をとるのであり、現在は過去のうちに自らを再認するとしても、過去よりも大きな意味をもつのである。

 画家における作品の制度化、そして映画の歴史における様式の制度化にも、同じような論理が隠されている。画家たちは先輩たちを模倣することで、先輩たちと異なる描き方をまなぶ。画家の作品の一つずつが、後に続く作品を予告しているのであり、後に続く作品がそれと同じようなものになりえなくしている。すべてが互いに支えあっているが、どちらに向かっているかを言うことはできない。同じように絵画の歴史において、問題が直接解決されるのは稀である(たとえば遠近法の問題だ)。

 解決の試みは袋小路で行き詰まり、他の試みは方向を間違えているようにみえるが、実際にはこの新しい飛躍によって、別の角度から障害物を乗り越えることができるようになる。だから一つの問題があるというよりも、絵画の一つの「問い掛け」があるというべきである。この「問い掛け」があるだけで、すべての試みに共通の意味が与えられ、そこから一つの歴史が生まれるのだが、概念によってこれを予測することはできないのである。

 これは個人の生や芸術など、前客観的な領域にしかあてはまらないのではないだろうか。知の発展は、明確的な論理に従うものではないだろうか。真理が存在する必要があるのなら、さまざまな真理が一つのシステムに結びつけられているべきなのではないだろうか。そして少しずつしか姿を現さないこのシステムの全体は、時間の外部において、それ自体のうちにたたずんでいるのではないだろうか。知の運動は迅速であり、みたところ確固としたもののようではあるが、それでも他の制度化にみられたような過去と未来の間の内的な循環を示している。

 一連の「イデア化」の作用によって、整数は基本的な数の一つの特殊な例にすぎないと考えられるようになるのだが、この作用はわたしたちを叡智界に移し、わたしたちはそこから整数をとりだすのでなく、暗黙的なままてあった整数に固有の明証性を取り上げなおすのである。知の歴史性は、わたしたちが「そのままにある」真理を自由に分析的に定義できるような「みやすい」性格をそなえたものではない。精密な知の次元においても、真理の「構造的な」概念が必要とされる(ヴェルトハイマー)。知のさまざまな営みに共通の場という意味での真理が存在するのである。

 理論的な意識が、そのもっとも安定した形態においても、歴史性と無縁なものではないとすれば、逆に歴史がこうした理論的な意識との接近において恩恵をこうむり、システムという概念についてすでに述べたような留保のもとで、歴史が思考によって支配されるようになるのではないかと思われるかもしれない。しかしそれは、思考が歴史という他なる地平に到達し、他なる「心的な装置」(L.フェーブル)を利用できるようになるのは、思考のカテゴリーの自己批判によって、側面から浸透することによってでしかなく、同じ原則がどこにでもあるからではないということを忘れることである。

 わたしたちに固有の生の要素が同時に脱中心化し、再び中心に集まるのであり、わたしたちから過去へ、そして再び活性化された過去からわたしたちに向かう運動が同時に起こるのである。そして現在にさからった過去のこの営みは、閉じられた普遍的な歴史とか、たとえば親族関係のように、ある特定の制度について、人間に可能なすべての組み合わせでできた完全な体系に到達することはない。

 この営みが到達するところは、つねに局地的な状況に結びつけられ、事実性の係数を負った複雑で多様な可能性のタブローである。わたしたちはある可能性が他の可能性よりも偽であり、技巧を弄したものであり、未来への開かれ方が少なく、その未来はあまり豊かなものではないということはできるとしても、ある可能性が他の可能性よりも真であるということはできないのである。

 この断片的な分析が目指すのは、ヘーゲル哲学の修正である。ヘーゲルの哲学は現象学を発見し、世界のさまざまな要素の現実的で生きた原初的な結びつきを発見したものであるが、これをヘーゲルの組織的なみかたに従属させることによって、過去へとおいやってしまう。

 ところで現象学は、真なる知の導入にすぎないのか、それとも全体として哲学のうちに踏みとどまるかのどちらかである。真なる知の導入としての現象学は、経験のさまざまな冒険とは無縁なままである。また哲学のうちに踏みとどまった現象学は、「存在はある」という前弁証法的な定式でかたをつけることはできず、存在についての省察をみずから始める必要がある。ここで準備しようとしているのは、現象学を歴史の形而上学に発展させることである。