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ポリロゴス通信第一号(1999/11/10)
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 ポリロゴス通信をご講読いただきまして、ありがとうございました。
旬刊をめざして発行していきたいと考えています。ご意見欄を設置したいと思いますので、マガジンの内容に限らず、さまざまなご意見をいただけると幸いです。


この号の内容
○エセー:デカルトの斜視
○インターネット・リソース紹介:アイヒマン、ヒトラー、反ユダヤ主義のテキスト
○オンラインの哲学雑誌(E-Journal)の目次
 □ポリロゴス
 □LES CAHIERS VIRTUELS
○オフラインの哲学雑誌(P-Journal)の目次
 □哲学論集(上智大学哲学会) October 1999, No.28
 □季報唯物論研究 August 1999, N.23
 □思想 July 1999
 □思想 June 1999
 □思想 May 1999
 □Philosophy & social criticism, 1999, v.25-3
 □The journal of philosophy, June 1999, v.96-6
 □Philosophy and phenomenological research, June 1999, v.59-2
 □Religious studies, June 1999, v.35-2

=エセー=
デカルトの斜視
(中山 元)

 デカルトが斜視だったかどうかは知らない。サルトルの「やぶにらみ」は有名だが、本人にとっては斜視でもきちんと像はあっているのだろう。しかしたとえばぼくがやぶにらみをしてみたら、像はぼけるだろう。この斜視という比喩で西洋の哲学の問題を指摘したのがメルロ=ポンティだ。メルロ=ポンティは『見えるものと見えざるもの』の断片で、次のように書いている−−デカルトの存在論についての反省、西洋の存在論の「斜視性」(*1)。

 両目が普通にみえると仮定して、右目を覆ってみよう。すると急に世界が平板化して見える。次に覆いを左目に移してみよう。やはり世界は平たくみえる。片目でも事物は立体的にみえるが、両眼でみた時と、世界から生気が失われるような印象がある。メルロ=ポンティは、この単眼視は、それを両方合わせてみても、両眼でみる時とは異なることを指摘する(*2)。それは真の対話と、二つのモノローグが異なるようなものである。

 メルロ=ポンティは、「まなざす」ということは、両眼でありありとみることであり、事物を片目ずつでみることではないと考えた。しかし西洋の形而上学は、いつか物事を片目でみて、その片目の像を合わせて、それが事物の真の姿だと言い始めたのではないだろうか−−これがメルロ=ポンティがデカルトの「斜視」という言葉で考えていることだろう。

 デカルトは世界には精神と延長という二つの実体がある(少なくとも人間にはその二つの実体しか認識できない)と考えた(*3)。そして精神は延長をもたず、延長は精神をもたない。人間の身体は延長のカテゴリーに属するものであり、ここには心はない。人間の心は精神のカテゴリーに属するものであり、人間の身体には属さない。そして精神は考えるものであり、存在するものである。デカルトは人間においてこの二つのカテゴリーを統一することはできなかった。これが触れ合う松果腺という器官の存在を想定しただけである(*4)。人間が眼でみると、その印象がこの小さな腺に伝えられ、そこから人間の精神へと渡されると考えたのである(この松果腺という器官が、一部の動物では眼の役割をする器官であることは象徴的である。バタイユはこの器官が人間の頭蓋の中の眼であり、人間の頭蓋が破裂して天を向いた眼が開けることを夢想していた(*5))。

 ここに思考する主体と、思考によって認識される客体という近代哲学の基本的な思考の枠組みが成立する。現代の科学的な思考も、この思考する主体と認識される客体という構図に依拠していることは、西洋医学と呼ばれる学に象徴的に示されている。この医学にとっては人間の身体は「もの」の世界に属するものであり、人間の思惟とは独立したシステムとして捉えられている。病とはこのシステムの欠陥または故障であり、人間の精神とは独立した形でこれを処置する必要があると考えられているのである。

 このいわゆる主観と客観の二元論的な世界像のゆきずまりはかなり早い時期から認識されているものの、わたしたちはまだこれから完全に脱却したわけではない。西洋の科学は、人間を認識する時に、片方では事物と同じ客体として認識し、次にそこに精神を重ね合わせる。これは人間を認識するのに、まず片目で事物をみて、次に別の眼で精神をみて、この二つの単眼視を重ね合わせるという方法をしていることになる。メルロ=ポンティは、西洋の科学とその背景にある存在論は、「斜視」のようなものだと批判するのである。

 それでは「斜視」でなく世界を両眼で焦点を合わせてしっかりと「まなざす」にはどうすればよいか−−それが『知覚の現象学』以来のメルロ=ポンティの課題である。『見えるものと見えないもの』の頃のメルロ=ポンティはこれを「間身体性」という概念で考えるのだが、これはベルクソンの心身論の概念を引き継いだものと考えることができる。

 ベルクソンは、心身二元論を批判しながら、人間が身体と意識の二つの次元で構成された存在であるという見方は虚妄であると主張した。ベルクソンが特に批判の矛先を向けたのは、人間は脳で思考するという意識の局在論である。ベルクソンはこれを釘に掛けた衣服の例で批判する。コートを玄関のコートかけに掛けたとしよう。もしもコートかけの釘が抜けたとすると、コートは下に落ちるだろう。コートかけが揺れれば、衣服も揺れるだろう。釘がとがりすぎていれば、コートは破れるかもしれない(*6)

 だからといって、コートかけの細部にコートが対応しているとか、コートはコートかけと同じだという人はいないだろう。ベルクソンは、意識が脳にあるというのは、コートがコートかけにあるというようなものだと批判する。脳が失われれば、たしかに意識は失われる。しかし意識が脳と同一であると考える理由はないのである。

 メルロ=ポンティの間身体性の概念の基礎にあるのは、身体全体が思考し、意識するというベルクソンの着想だろう。メルロ=ポンティの間身体性とは、人間が客観を認識するためな必要な条件である。これが認識において直観を綜合する統一のような役割を果たすのである。

 カントは人間の認識の同一性が存在する場として、純粋統覚というものが必要だと考えていた(*7)。カントは、「わたしは考える」というデカルトのコギトが成立するためには、自己意識の統一性が必要だと考えたからである。そして認識が成立するためには、この自己意識の純粋な統一性が「超越論的な条件」として存在していなければならないと考えていた。カントはこの純粋統覚を措定しただけで、それについては深く考察しなかった。これが時間であることを明らかにしたのは、『カントと形而上学の問題』のハイデガーである(*8)。

 メルロ=ポンティはカントの間身体性は、カントのこの純粋統覚に相当するものであり、認識を可能にする条件のようなものとして考えられている。それが身体性を媒介に考えられている点では、フッサールのキネステーゼと似ている。ただし、メルロ=ポンティの間身体性の概念は、もっと言語的なものであることに注目する必要があるだろう。メルロ=ポンティは、人間がものを「みる」時には、すでにそこで認識が成立しているのであり、カントのように感性的な直観を悟性のカテゴリーで「総合」するという手続きは不要だと考えている。

 それはメルロ=ポンティは人間の認識は言語によって構造化されていると考えているからである。ラカンの構造主義的な概念を受け継いだ晩年のメルロ=ポンティは、視覚も認識も行動も、すべてが言語によって構造化されていることによって、両眼で自然をありありと「みる」ことができると考えていた。メルロ=ポンティにおいては言語は肉体と同じような役割を果たす。
  あたかも身体がおのれを感じながら世界を感じるように、[言葉は]他
  のさまざまな意味をおのれの網の中に引き寄せる自然な魔術を授けられ
  ているのである(*9)。
 しかしこの自然の魔術がどのようにして可能であるか、それがどのように機能するかは、メルロ=ポンティは語らない。それは解明すべきものであるよりも、人間がまず前提にすべき事実であり、それを認めることから始めるべきだと考えたのである。


(*1)メルロ=ポンティ『見えるものと見えざるもの』(Le visible et l'invisible:22,JT269)
(*2)同上(Le visible et l'invisible:219,JT:16)。
(*3)デカルト『哲学原理』8 節
(*4)デカルト『人間論』Descartes Oeuvre Lettres, Gallimard, p.846
(*5)バタイユ『眼球譚』
(*6)ベルクソン「心と身体」『ベルクソン』中央公論社、p.175
(*7)カント『純粋理性批判』B132
(*8)ハイデガー『カントと形而上学の問題』32節
(*9)メルロ=ポンティ『見えるものと見えざるもの』(Le visible et l'invisible:158.JT:192)

=インターネット・リソース紹介=
アイヒマン、ヒトラー、反ユダヤ主義のテキスト


アレントがイェルサレムで傍聴し、論評したアイヒマン裁判の記録がWWWに掲載されました。
Nizkorプロジェクトというところに、イスラエルの司法省のファイルが掲載されました。
ここはDedicated to the nearly twelve million victims ruthlessly destroyed by Adolf Hitler and his Nazi regime というところですのでほぼ性格はおわかりのことと思います。

The Trial Of Adolf Eichmann
http://www.nizkor.org/hweb/people/e/eichmann-adolf/transcripts/
これは別に印刷版で発行されている同名の書物9巻本のうちの最初の六冊です。
実際の法廷でのすべての証言、外国での証言、判決などがダウンロードできます。
アイヒマン自身の証言は、セッション76から81までです。

『イェルサレムのアイヒマン』を書いたアレントは、「死体の製造に従事した人間
を絞首刑にしても、何の意味もない」と苦々しく語っていました。アイヒマンを処刑するかどうかよりも(もちろんアレントはそれ以外に道はないことを認めています)、人間性を破壊するための実験室としてのナチの強制収容所の謎について考えるほうが重要だと思っていたのでしょう。
その意味でも、この「実験室」の責任者の一人の裁判記録がWEBで読めるようになったことは、アレントについて考える上でも、ホロコーストの異様さについて考える上でも、貴重なことだと思います。

これとは別に、アイヒマンの自伝がドイツの新聞Weltに掲載されています。
アイヒマン自伝
http://www.welt.de/politik/dokumentation/eichmann//index.htx
十数回の連載とさまざまな歴史家のコメントがあります。
数人のコメンテーターがアレントの「悪の凡庸さ」という表現を
使っています。キャッチコピー風(笑)に使われているにすぎませんが。

ヒトラー『わが闘争』
http://www.thulenet.com/strafbar/kampf.htm
ヒトラー演説集
http://home.earthlink.net/~centurion88/hitler_speeches
 全体主義の基本的なテキストとして、ヒトラーの二つのテキストを紹介します。『わが闘争』は現在はドイツ語原文だけが入手できます。また演説集は英語訳だけです。提供しているサイトの性格は別として、こうしたテキストが入手できるのは、ありがたいことです。

『シオンの賢者の議定書』
http://www.thulenet.com/strafbar/zion.htm
 また、アレントの『全体主義の起源』で繰り返し登場し、ヒトラーが暗誦するほど読み込んで、ナチズムのイデオロギーの根幹に取り入れた『シオンの賢者の議定書』が英訳版で入手できます。この書物はWebcatで検索してみると、日本の大学図書館で1館しか所蔵していないものです。ユダヤ人の「陰謀」というテーマは、現代の日本でも書店でよくみかけますが、その基本的な筋書きを示したこの書物も、ファシズムを理解する上では役立つはずです。

 

=オンラインの哲学雑誌(E-Journal)の目次=

ポリロゴス26号
http://nakayama.org/polylogos/
★性の歴史のプロジェクト
フーコー論二六章
(中山 元)
★国家についての新しいディスクールの登場
−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義『社会を守れ』(11)
(中山 元)
★レヴィナスのタルムード解釈と西洋の形而上学批判の道筋(二)
(中山 元)
★書評:レヴィナス『外の主体』
(中山 元)
★アレントの初期
=アレントの生涯と著作(1)=
(中山 元)

LES CAHIERS VIRTUELS
http://brise.ere.umontreal.ca/~lepagef/cahiers
モントリオール大学哲学部の雑誌です。以下はここで講読できる既刊分の総目次です。
すべてPDFファイルがリンクされています。政治哲学などに関連して、面白そうな論文がありますね。

○Egbert J. Bakker: Homer, Hypertext, and the Web of Myth
○Egbert J. Bakker: Mimesis as Performance : Rereading Auerbach's First Chapter
○Luciano Boi: Reflexions epistemologiques et historiques sur la geometrisation de la physique et la nature de l'espace-temps
○Yvon Gauthier: The Mathematical Foundations of Quantum Mechanics by Hilbert and Von Neumann
○Yvon Gauthier: De Hilbert a Kronecker. Les fondements de la logique arithmetique
○Yvon Gauthier: La mesure du chaos
○Maurice Lagueux: Omniscience and Rationality in Microeconomics
○Maurice Lagueux: Menger and Jevons on Value: a Crucial Difference
○Maurice Lagueux: Affirmation nationale ou regionale en architecture : Le cas de l'Amerique du Nord
○Maurice Lagueux: Qu'est ce que le neoliberalisme?
○Maurice Lagueux: Three Concepts of Rationality
○Maurice Lagueux: The Rationality Principle and Classical Economics
○Maurice Lagueux: Von Mises' Apriorism and Austrian Economics: From Menger to Mises
○Maurice Lagueux: Economists' Flight from Ontology
○Maurice Lagueux: Ronald Coase on Methodology
○Daniel Laurier: Nature sans raison n'est que ruine de la conscience
○Daniel Laurier: La publicite du langage et de la pensee
○Francois Lepage: A Many-Valued Probabilistic Conditional Logic
○Jean-Pierre Marquis: Ontology on Shaky Grounds
○Claude Piche: Kant and the Problem of Affection
○Claude Piche: Heidegger et Cohen: lecteurs de Kant
○Fabienne Pironet: Sophismata de Guillaume Heytesbury
○Michel Seymour:On Redefining the Nation
○Michel Seymour: Quebec and Canada at the Crossroads: A Nation within a Nation
○Michel Seymour: La philosophie de la logique
○Michel Seymour: Rawls et le droit des peuples
○Christine Tappolet: La personne depourvue d'emotions : un monstre ou un ideal?
○Christine Tappolet: Emotions and Akratic Actions
○Daniel Weinstock: Building Trust in Divided Societies
○Daniel Weinstock: How Not to Bridge the Gap: Cummiskey on Kantian Consequentialism
○Daniel Weinstock: La philosophie politique
○Daniel Weinstock: On Some Advantages of Constitutionalizing the Right to Secede
○Daniel Weinstock: Democracy, Value and Truth: Saving Deliberation from Justification
○Luciano Boi: Reflexions epistemologiques et historiques sur la geometrisation de la physique et la nature de l'espace-temps
○Philip Pettit: The Cost of Non-Consequentialism

=オフラインの哲学雑誌(P-Journal)の目次=

●哲学論集(上智大学哲学会) October 1999, No.28
○「ブルさん」の退任にあたって
(渡部清)
P.1-4
○アルムブルスター先生業績目録
P.5〜7
○理想と実存――シェリングの後期哲学を通じて見たる
(ルートヴィヒ アルムブルスター)
P.9〜21
○日本主義的形而上学としての「現象即実存論」――井上哲次郎の立論を中心に
(渡部清)
P.23〜31
○意志の哲学――西田とショーペンハウアーの間
(斎藤智志)
P.33〜44
○根源と無――西田幾多郎とヘルマン・コーエン
(板橋勇仁)
P.45〜59
○初期ハイデガーにおける「事実性の解釈学」への道
(村井則夫)
P.61〜78
○芸術作品における真理――ベンヤミンとハイデガーの芸術論をめぐって
(柿木伸之)
P.79〜95
○写真技術の発明が我々にもたらしたもの
(城丸美香)
P.97〜109


●季報唯物論研究(季報唯物論研究刊行会 季報「唯物論研究」刊行会) August 1999, N.23
○梟vs雄鶏 他者が皆、吾より愚者に見える日は…
(田畑稔)
P.1〜4
□特集 ニッポン・イデオロギー――新世紀ヤプーたちのたくらみ
○特集リード
(高根英博)
P.5〜9
○侵略イデオロギーと実践的に対決しうる唯物論を!
(キム チョンミ)
P.10〜23
○対談 ジャパン・イデオロギー批判
(大越愛子;小倉虫太郎;町田哲生)
P.24〜42
○上野千鶴子とフェミニズムのゆくえ
(近藤和子)
P.43〜55
○笠井潔論――全共闘世代のマルクス葬送からスキー的思考まで
(高根英博)
P.56〜68
○「偏差値」と儒教イデオロギー
(やもり たろう)
P.69〜74
○「対話・現代アメリカ思想」のためのプログラム
(山本晴義)
P.75〜80,92
○「まともさの感覚」の民主主義について――鶴見俊輔論
(木村倫幸)
P.81〜92
○マルチン・ブーバーにおける「対話の社会学」
(島崎隆)
P.93〜108
○社会主義・官僚主義・マルクス疎外論――西田論文に対する反批判
(岩淵慶一)
P.109〜131
○自然の弁証法と弁証法の真正性
(Miladin Zivotic;田上孝一(訳))
P.132〜144
○グラムシ『獄中ノート』校訂版研究について――鈴木富久氏のコメントによせて
(松田博)
P.145〜152
○現在ロシア哲学事情
(元春智裕)
P.153〜163
○美しき魂の告白――ゲーテが描いた女流哲学者
(橋本直樹)
P.164〜166
○阿満利麿『法然を読む』
(稲岡義朗)
P.167〜170
○やすいゆたか『キリスト教とカニバリズム』
(結城慎次)
P.170〜172
○黒沢惟昭『市民社会と生涯学習――自分史の中に「教育」を読む』
(藤田友治)
P.172〜174


●思想, July 1999, no.901
=古代ギリシア史研究の現在=
○思想の言葉
(岩田靖夫)
P.1
○古代ギリシア史研究の新しい潮流
(桜井万里子)
P.4
○理性の都市
(O. マリー)
P.9
○大ディオニュシア祭と市民イデオロギー(上)
(S. ゴールドヒル)
P.30
○ギリシア宗教の意味をつかむことについて
(J. グールド)
P.51

○韻文形式
  ――表象の疫学における予備的研究――
(J.カンスタブル)
P.88
○教会闘争と罪責告白(下)
  ――シュトゥットガルト罪責宣言論争――
(宮田光雄)
P.115
○自由概念をめぐる戦略
  ――ヒュームからウィリアムズまで――
(高濱俊幸)
P.137
○書評 趙 景 達『異端の民衆反乱』
P.84
○書評 Y. ヨベル『スピノザ 異端の系譜』
P.110

●思想, June 1999, no.900
○思想の言葉
(外岡秀俊)
P.1
○教会闘争と罪責告白(上)
  ――シュトゥットガルト罪責宣言論争――
(宮田光雄)
P.4
○主体」・「個人」・「実存」
  ――その差異と関係について――
(三宅芳夫)
P.22
○戦略としての歴史叙述
  ――歴史のヘテロロジーのために(5)――
(上村忠男)
P.55
○理性の歴史化
  ――大学哲学という形態について――
( U.=J.シュナイダー)
P.81
○言語横断的実践・序説(下)
(L.H.リュウ)
P.102

書評ドイツの一歴史家の見た日本のヴェーバー研究
  ――W.Schwentker: Max Weber in Japanについて――
(佐野 誠)
P.132
○宮原 勇『ディアロゴスの現象学』
P.48
○S.ストレンジ『国家の退場』
P.98

●思想, May 1999, No.899
○思想の言葉
(島薗 進)
P.1
○「漢語」とは何か
  ――漢字論・不可避の他者――
(子安宣邦)
P.4
○言語横断的実践・序説(上)
( L.H.リュウ)
P.21
○中国文明の境界
  ――朝貢システムのジオモラルな文脈――
(D.R.ハウランド)
P.45
○国語学史的成立
  ――時枝誠記論の一環――
( 藤井貞和)
P.83
○「方言」の語り方と植民地
  ――大東亜省調査官・寺川喜四男の場合――
(安田敏朗)
P.112
○ 戦後日本のアジア的視座を読む
  ――アジアによるアジア像の時代をむかえて――
( 河 世 鳳)
P.129
○ 書評: 谷 徹『意識の自然』
P.102
○ A.クロスビー『ヨーロッパ帝国主義の謎』
P.108


●Philosophy & social criticism, 1999, v.25-3
○The politics of memory and forgetting after Auschwitz and apartheid.
(Duvenage, Pieter)
P.1
○Charles Taylor: the malaises of modernity and the moral sources of the self.
(Kitchen, Gary)
P.29
○The marriage of time and identity: Kant, Benjamin and the nation-state.
(Chowers, Eyal)
P.57
○Foucault and the contemporary scene.
(Ewald, Francois)
P.81
○Existence and the communicatively competent self.
(Matustik, Martin Beck)
P.93
○Review Essay: A coherentist epistemology with integrity.
(Linker, Maureen)
P.121


●The journal of philosophy, June 1999, v.96-6
○Internalism Exposed.
(Goldman, Alvin I.)
P.271
○Calibration and the Epistemological Role of Bayesian Conditionalization.
(Lange, Marc)
P.294

●Philosophy and phenomenological research, June 1999, v.59-2
○ Obituary: Roderick Milton Chisholm (1916-1999).
(Sosa, Ernest)
P.v
○The Inescapability of Moral Reasons.
(Myers, R.H.)
P.281
○Knowledge and Design.
(Hunter, Bruce)
P.309
○Naturalistic Epistemology for Eliminative Materialists.
(Rosenberg, Alex)
P.335
○An Externalist Solution to the "Moral Problem."
(Cuneo, Terence D.)
P.359
○A Cause for Concern: Reasons, Causes and Explanations.
(Hutto, Daniel)
P.381
○How Many Possible Worlds Are There?
(Rescher, Nicholas)
P.403
○Is There a Problem in Physicalist Epiphenomenalism?
(Horowitz, Amir)
P.421
○Harmonizing Plato.
(White, Nicholas)
P.497
○Explaining Attitudes: A Practical Approach to the Mind.
(Elugardo, Reinaldo)
P.513
○Morality and Self-Interest.
(Sterba, James P.)
P.525

●Religious studies, June 1999, v.35-2
○Betting on God: why considerations of simplicity won't help.
(Armour-Garb, Bradley)
P.119
○Religious pluralism.
(Rowe, William L.)
P.139
○Kant and religion: conflict or compromise?
(Firestone, Chris L.)
P.151
○Mere addition and the best of all possible worlds.
(Grover, Stephen)
P.173
○Stump's theodicy of redemptive suffering and Molinism.
(Perszyk, Kenneth J.)
P.191
○Can science explain mysticism?
(Fales, Evan)
P.213


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ポリロゴス通信第1号(1999/11/10) [419部]
発行:ポリロゴス事務局 polylogos@geocities.co.jp
配信: まぐまぐ(http://www.mag2.com/ )
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