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ポリロゴス通信第六号(2000/01/15)
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○ハルが沈黙するとき (中山 元)
○新椋鳥通信3:スローターダイクの手袋(中山 元)
○オフラインの哲学雑誌(P-Journal)の目次
 □Philosophy and phenomenological research, December 1999.v.59-4
 □International philosophical quarterly, December 1999, v.39-4
 □Philosophy of the social sciences, December 1999, v.29-4
 □Phronesis, 1999, v.44-3
 □Philosophical studies, November 1999, v.96-2
○お便りコーナー

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あけましておめでとうございます。
今回はどうやら無事におわったらしい2000年問題について考えてみました。まだうまく言えていないのですが、この問題はまださまざまな観点から考えるべきものを含んでいると思います。今回のエセーはその最初のてがかりということで。

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ハルが沈黙するとき

 クラーク原作、キューブリック監督の『2001年』は、宇宙へのオデッセイとともに人間とコンピュータの「戦争」状態を描いた映画だった。もちろんコンピュータが意思をもって人間に叛乱を起こしたのではない。人間の意図を受けつぎ、その真の目的を実行するために、コンピュータが宇宙船の乗員を殺害しはじめ、やがて乗員がコンピュータを「武装解除」するという物語だった。武装解除されるコンピュータ・ハルは、それまでの人間に対する支配力を失い、幼子のごとく「メリーさんの子山羊」を歌い続ける。そしてやがて完全に沈黙する。

 人間はコンピュータとの戦争に勝ったかのようにみえるが、実は人間もコンピュータも敗北する。人間はもはやコンピュータなしでは宇宙船を操縦することはできないからだ。ところで今年2000年をめぐって発生した2000年問題は、もっと別の形で人間がコンピュータに依存することから生まれる問題をまざまざと示してくれた。2000年問題はどうやら無事にクリアできたようだし、準備のできていなかった日本が、「うまくやった」ようにみえる。

 元旦のフランスのラジオ放送では、「準備不足」の日本でなにごとも起きていないことをなにやら不満げに伝えていた。アメリカでは、多額の経費をかけて2000年対策をしたことに、無駄ではなかったかという意見がだされているようだ。ビル・ゲイツがわざわざ「準備していなかったら、とんでもないことになったに違いない」というコメントをだしているくらいだ。

 しかしこの問題は、ぼくたちとコンピュータとのあいだに発生する問題が、ハルとの「戦争」のようにドラマチックなものではないことを教えてくれる。バグという虫は人間のごくわずかな不注意から、コンピュータのプログラムのうちにかならずすみついているものらしい。今回ほど大規模なものではないとしても、これがなくなることは、ほとんど理論的にありえない。これからも「2000年問題」は姿を変えて、繰り返し現れるだろう。

 それがどのようなものとなるかは、ぼくたちの想像を越える。今回はまだコンピュータ利用の成熟途上の出来事だった。たとえばなかばジョークで、ロシアの原子炉は「安全だ」といわれたものだ。「だってコンピュータ制御していませんから」というわけだ(笑)。しかし2000年問題をめぐるさまざまな想定は、ぼくたちの生活のすみずみまで、コンピュータ制御が活用されていること、これが狂い始めたら、たちまちのうちにぼくたちの生活がストップしてしまうことを教えてくれた。

 送電設備のコンピュータが誤作動すれば、たちまちのうちに停電し、同時に水道の供給もガスの供給も停止してしまう。意外だったのは、石油ストーブの点火まで、電気制御だったことだ。ああ、アラジンがなつかしいなぁと思ったものだ(笑)。七輪が、昨年の年末にとぶように売れて、生産が追いつかなかったというのもよく理解できる。これが二〇年後のことだったらと思うと、ぞっとする。

 だからぼくたちにとって深刻なのは、コンピュータとの戦争ではなく、コンピュータの誤作動や機能不全だろう。いくさではなく、ストライキこそが、ぼくたちを脅かすのだ。これは第二次世界大戦以前には想像もつかなかった事態である。

 コンピュータがストライキを起こせば、ぼくたちは一挙に戦前の時代に連れ戻される。しかも戦前にはそなわっていた技術的な装備がみんな衰退して状態で(まだマッチとライターはあるから、新石器時代みたいに木をこすって火を起こす必要がないだけ、まだましだ(笑))。現代の社会は、社会の内部にコンピュータという形で、新しいリスクをかかえているわけだ。

 フランスの都市学者で哲学者のヴィリリオは、すべての技術に特有のリスクがあると指摘している。新しい技術は新しいリスクをもたらす。自動車がなければ交通事故はないし、飛行機がなければ墜落事故はない。「事故は技術と科学の進歩の隠された顔である」(Viliio, 89)。

 そして現代のコンピュータ社会を代表するのが、2000年問題に代表されるような「コンピュータ事故」である。この「事故」はコンピュータの「攻撃」ではなく、コンピュータの便利さに頼りすぎた人間が、コンピュータの沈黙によって、生活の能力を喪失するという形であらわれるだろう。2000年問題はその「事故」の深刻さを、予感のようにして示してくれたのである。

 この「事故」は、自動車や飛行機の事故のように「局地的」なものではない。社会全体の運動をその根幹から停止させるという形をとるだろう。だからヴィリリオのように、インターネットに代表されるコンピュータ技術への過度の依存から発生する危険性に警鐘を鳴らすのは、十分に根拠があるのである。

 しかし現実として、ぼくたちの生活は、コンピュータと一体化してしまっている。コンピュータはたんなる新しい技術ではなく、ぼくたちの社会という身体の一部なのだ。自動車なしではもはやぼくたちの生活はいまのままではなくなるように、コンピュータなしでは、ぼくたちの社会はたちゆかない。

 この状態では、ぼくたちはドゥルーズが考えたような「機械」の一部として、コンピュータたちと共生関係にあると考えるほうがふさわしいだろう。ヴィリリオは、コンピュータや新しい技術が時間の速度を信じられないほどに早めることで、人間の生活のリアリティを崩壊させてしまうことを指摘する。しかし人間の生活のリアリティは、新たに登場する技術によって変化していく性質のものであるというべきだろう。

 グーテンベルクによって印刷された書物が登場する。するとやがて印刷物が生活の不可欠の一部を構成する。ぼくたちにはもはや新聞も書物もない生活を想像することは、リアリティをもたなくなっている(『華氏四五一度』という小説は、書物の不在が現実となる世界を描いていて、感動的だった)。そしてこの書物のうちに、自分の一生をかけたりするような人々も登場するのだ。

 いまのぼくたちには、コンピュータなしの生活は、書物なしの生活ほどリアリティがないという性質のものではないだろう。しかしぼくたちは、コンピュータへの依存度を減らす方向に進むという道は残されていないようだ。コンピュータがもたらしたものが、自動車などとはことなる次元で、人々の欲望を作り出し、充足させるからである。このような可能性をもったマシンは、ハルのように沈黙させることができない。

 たとえばぼくにとっては、インターネットがもたらした生活の新しい可能性を捨て去ることは、とてもつらいことだし、自分の可能性の一部をむざむざと捨ててしまうようなものだ。コンピュータは書物とは別の形で、まだみぬ人々との交流の可能性を示してくれたからだ。だからコンピュータは、すくなくともぼくの生活においては、書物に近い不可欠なものになりつつある。

 2000年問題はかならず再発するだろうし、ヴィリリオが指摘するまでもなく、世界の金融構造が「コンピュータ事故」によって崩壊する可能性もある。この新しいリスクの性質について、ぼくたちまだうまく理解できていないのだ。しかしだからといってぼくたちは「都市」や「共同体」の堅固さに立ち返ることもできないし、それを拠り所とすることもできないのだろう。ヴィリリオの警鐘は貴重なものだが、ぼくたちは社会の身体のうちに組み込まれ、ぼくたちの眼の一部、手の一部となったこのコンピュータたちといかにして共生していくかを模索すべきだろう。

参考
○Paul Virilio, Cybermonde,la politique du pire, Les editions Textuel, 1996
○Delueze/Gattari, L'Anti-Oedipe, 邦訳『アンチ・オイディプス』河出書房新社
○日本縦断!全都道府県のWWWサイトで報告されたトラブル発生状況
http://bizit.nikkeibp.co.jp/it/y2k/anchor/index.html


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●新・椋鳥通信3
スローターダイクの手袋

スローターダイクというドイツの哲学者をご存じだろうか。一九八三年に『シニスム理性批判』という書物をだして、日本でも評判になった。ドイツでもっともうれた書物のひとつで、本人によると、数万部でたという。これは古代のキニク派ではなく、ローマ以来のシニックな理性が啓蒙の伝統を引き継ぎ、それがファシズムをもたらしたと分析する書物のようだ。フーコーやアレントの理性批判とかなり共通の部分をもっている。また彼は、精神分析の誕生を考察した小説仕立ての本『1785年における精神分析の成立』も出版していて、邦訳もある。

スローターダイクはこれまではフランクフルト学派の第三世代の哲学者のように考えられてきた。しかし本人はこの評価には納得していなかったようだ。このほどドイツの週刊誌Zeitにハーバーマスあての公開書簡を発表し、「批判理論は死んだ」と公然とハーバーマスの引き継ぐフランクフルト学派の「死」を宣告したのである。

ドイツではこれで大騒ぎになったらしい(笑)。ハーバーマスは今やドイツの哲学界の重鎮として構えているからである。ドイツとフランスでは哲学の世代観にかなりのずれがある。フランスではサルトルのような「近代派」の哲学者はすでに力を失い、その後構造主義とポストモダン系のフーコー、ドゥルーズ、デリダのような思想家が輩出した。その後をすぐにヌーボー・フィロゾーフたちが追っている。

しかしドイツではファシズムとハイデガーの問題が重くのしかかり、「啓蒙の未完のプロジェクト」を推進しようとするハーバーマスが大きな勢力を維持している。これに対してスローターダイクはどちらかというと、ヌーボー・フィロゾーフ風の哲学者だと思う。イメージとしてはグリュックスマンに近いかなぁ。フランスでシニシズム哲学論をだしているミシェル・オンフレーも、年は若いが、少し感じがにている。

だからハーバーマスはサルトルとフーコーの間に入り、スローターダイクは突然ヌーボーフィロゾーフの世代に突入するという感じだ。ハーバーマスは対話的な理性、コミュニケーション的な理性によって、近代のプロジェクトを推進しようとしながら、民主主義的なモラルを基礎づけようとする。良識派なのだ。ぼくは彼の哲学的なスタンスも、鋭い哲学史的な分析も、よくわかるし、嫌いじゃない。でもお説教くさいところには、ときどき辟易してしまう。

スローターダイクもハーバーマスのヒューマニズムに攻撃の焦点を絞っている。かれは「国家社会主義の父親たちからうまれたハイパーモラリストの息子たちの時代は終わった」宣言する。フランクフルト学派の「徳のご託宣」はもはや、「批判のデカダンス」となったと。ちょうどフランクフルト学派の土台である社会研究所が設立75周年を向かえ、批判理論のアクチュアルティをテーマとする会議が開催されようとしていただけに、スローターダイクの批判は二つの世代の対決となった。

じつはスキャンダルの火種はべつのところに潜んでいた。しばらく前にスローターダイクがElmauというところで講演を行い、そこで遺伝子工学が人間に適用される場合の危険性と可能性について考えることを促していたのである。スローターダイクは刺激的な表現を使ったので、ナチスの優生学を思い出させるという「タブー」を犯した。

このタブーがどのように大きな波紋を広げたかは、フランスの週刊誌Nouvel Observateur誌のインタビューが次のような質問で始まっていることからもわかるだろう。「スローターダイクさん、あなたは遺伝子操作の技術の利用を推奨し、「あたらしい人間」を作り出そうとしていると非難されていますね。淘汰というナチスの亡霊をわざわざ呼び起こしたと」。もちろんスローターダイクは講演でこのようなことを言っているわけではない。この講演については、次号で紹介しよう。

スローターダイクによると、ハーバーマスはこの講演のあとで、スローターダイクを公開の場で批判するのではなく、学会のボスらしい行動を示した。スローターダイクが公開書簡で指摘していることによると、ハーバーマスはスローターダイクに直接問い合わせることなく、スローターダイクの理論の「危険性」をさまざまな形で流布させたという。スローターダイクの個人的な文書を公開したり、ZeitやSpiegelに影響力を行使して、スローターダイクに批判的な記事を書かせたりしたのだそうだ。

スローターダイクは、講演のテクストの誤読に基づくこうしたハーバーマスの行動は、民主的な対話を主張する理論家としてはまったく信じがたいものだと指摘する。ハーバーマスの行動は、その理論をまったく否定してしまうものだというわけだ。ぼくはハーバーマスが実際にどのような行動をとったのかはしらないし、確認しようもないが、これはよくある話ではある(笑)

しかしスローターダイクはハーバーマスの行動だけで、ハーバーマスを否定しようとするわけではない。ハーバーマスの理論が、批判理論の第二期の理論として(第一期はアドルノだという)、潜在的なジャコバン主義に陥っているとみるのである。ヘーゲルが『精神現象学』で描いたように、ジャコバン主義はフランス革命において、「徳の騎士」として振る舞った。ハーバーマスは社会民主主義的な「徳の騎士」となり、人々に道徳のお説教をするようになったというわけだ。

スローターダイクは今回のハーバーマスのスローターダイクに対する行動は、ハーバーマスの対話的理性の概念が「よすぎるtoo good to be true」こと、実行できないものであることを白日のもとににさらしたという。「いずれにせよ、あなたが、そしてあなたの教養高い弟子たちが、議論、思考、問題への対処、公共性、公開性などの概念で、なにを考えているかが、いまや明らかになりました」とスローターダイクは皮肉る。「強制なき強制」という概念が、無効であることをハーバーマスは身をもって示したというのである。

ハーバーマスはスローターダイクの講演を「ファシストのレトリック」と難詰しているらしいが、もはやファシズムだけを批判していればすんだ「戦後のこどもたち」の時代はすぎたというのがスローターダイクの信念である。「批判理論は九月二日に死亡しました。このむっつりした老女はながく床についていましたが、ついに往生したのです」。スローターダイクはおごそかに批判理論の死を宣告する。しかしやるもんだね(笑)。学会のボスに向かって、なかなかの勇気ではある。

参考
○Die Kritisch Theorie ist tot, Peter Sloterdijk, Die Zeit, No.37
○"Meine Arbeit dreht sich um das zur-Welt-Kommen", Peter Sloterdijk, Felix Schmidt, Die Zeit
○Hirsche auf der Lichtung des Denkers Peter Sloterdijk und Jurgen Habermas, Thomas Schmidt, Die Welt
○"Mir waren Irrtumer erspart geblieben, Hans Peter Kunish, Suddeutsche Zeitung, 19 Novembre 1999

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○オフラインの哲学雑誌(P-Journal)の目次
●Philosophy and phenomenological research, December 1999.v.59-4
○Reasons Explanations of Actions: Causal, Singular, and Situational.
(Roth, Abraham S.)
P.839
○The Judgment of a Weak Will.
(Tenenbaum, Sergio)
P.875
○Global Supervenience and Identity across Time and Worlds.
(Sider, Theodore)
P.913
○A Defense of Cartesian Materialism.
(O'Brien, Gerard; Opie, Jonathan)
P.939
○Resemblance Nominalism and the Imperfect Community.
(Rodriguez-Pereyra, Gonzalo)
P.965
○Endurance, Psychological Continuity, and the Importance of Personal Identity.
(Merricks, Trenton)
P.983
○Derrida's Differance and Plato's Different.
(Wheeler III, Samuel C.)
P.999
○Carnap and Two Dogmas of Empiricism.
(O'Grady, Paul)
P.1015
○Peirce's Sumum Bonum and the Ethical Views of C.I Lewis and John Dewey.
(White, Morton)
P.1029
○Just What Is Cognitive Science Anyway?
(Garfield, Jay L.)
P.1075


●International philosophical quarterly, December 1999, v.39-4
○Is There a Medieval Philosophy?
(Aertsen, Jan A.)
P.385
○Chary about Having to Do with "The Others": The Possibility of Community in Kierkegaard's Thought.
(Prosser, BrianT.)
P.413
○The Dilemma of Materialism.
(Peterson, John)
P.429
○The Language of Being: Between Aristotle and Chinese Philosophy.
(Yu, Jiyuan)
P.439
○Kant and the Antigone: The Possibility of Conflicting Duties.
(Adkins, Brent)
P.455
○Feature Review Article: The Cambridge History of Seventeenth-Century Philosophy.
(Blackwell, Richard J.)
P.467

●Philosophy of the social sciences, December 1999, v.29-4
○Theories, Practices, and Pluralism: A Pragmatic Interpretation of Critical Social Science. (Bohman, James)
P.459
○Foundations of Niklas Luhmann's Theory of Social Systems.
(Viskovatoff, Alex)
P.481
○How Can We Increase the Fruitfulness of Popper's Methodological Individualism
(Wettersten, John)
P.517
○Market Socialism and Non-Utopian Marxist Theory.
(Jacobs, Lesley A.)
P.527

●Phronesis, 1999, v.44-3
○The Theaetetus on How we Think.
(Barton, David)
P.163
○Aristotle's Literary Aesthetics.
(Ferrari, G.R.F.)
P.181
○Book Note; Socrates and Plato.
(Rowe, Christopher)
P.242
○Aristotle's Two Intellects: A Modest Proposal.
(Caston, Victor)
P.199
○Aristotle Against the Hippocratics on Sexual Generation: A Reply to Coles.
(Tres, Daryl McGowan)
P.228

●Philosophical studies, November 1999, v.96-2
○A Scorekeeping Error.
(Ostertag, Gary)
P.123
○Inductive and Explanatory Irrelevance.
(Nelson, David E.)
P.147
○Other Things Being Equal.
(Morreau, Michael)
P.163
○Interrogatives and Contrasts in Explanation Theory.
(Markwick, P.)
P.183
○Content Naturalized.
(Mariano, Luciano B.)
P.205


=====お便りコーナー=========
ぽめりうむ さんからメールをいただきました。

> お便りをコーナー楽しんでいるひとりです。
> パートタイマー易者です。
>
> ナマステさんの
> >生物が自分の体組織の全てから常に情報の送受信を行いつつそれらを統一体と
> > 見なして行動するからには、「思考」について考えるとき体全体をなおざりには
> > できないと思うのです。
> >
> に共感いたします。
> 心臓移植を受けた人が提供者の記憶をも引き継いだ、という話
> がありますね。
> 東洋では魂を精神のアウラ・且つ転生可能の・そして
> 魄を肉体のそれ・且つ一回限りの・と表現します。
>
>
> >
> >それからメールは長くでも、大歓迎です。できればお便りコーナー>だけの別号を
> >出したいくらいです。どんどんご意見をお寄せください。。
> MLなんて考えていませんか(^。^)
>
>

メール、ありがとうございました。そうですよね。読者の方々どうしの意見交換も楽しいでしょうね。ただ、ポリロゴスにはすでにたくさんのMLがあります。そのいくつかをご紹介します。読者の方々もよろしければ、ぜひご参加ください。お申込みはPolylogos@geocities.co.jpまでメールをお送りください。

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ポリロゴスのメーリングリスト

○ドゥルーズ(モデレーター:湯山光俊、1996年2月開始)
これはドゥルーズの主要著作を読むことを目的としたフォーラムで、すでに『経験論と主体性』『ベルクソンの哲学』『ニーチェの哲学』を終了しました。
現在は「Francis Bacon:logique de la sensation」1981(フランシス・ベーコン 感覚の論理学)が取り上げられています。

○ドイツ思想--美と共同体をめぐって(モデレーター:清水 満 1997年1月開始)
ドイツ観念論の哲学の新しい解読を試みます。現在はフィヒテ『新方法による知識学』などが取り上げられています。

○ルーマン(モデレーター:本間直樹 1997年3月開始)
ルーマンのシステム論の概要を検討し、またルーマンに関連したさまざまなテーマを議論します。1997年3月スタートです。

○日本思想史(モデレーター:中原拓也)
日本の近代思想史を考えるMLです。とりあえず大正期に重点をおきながら、近代の日本の思想について自由に考察します。1997年4月開講です。

○フーコー(モデレーター:近藤一昭+中山 元)
フーコーの統治性の概念と、エヴァルトのノルムの概念を中心に考察します。1997年8月スタートです。

○アドルノ(モデレーター:中山 元)
アドルノだけではなく、第二世代と第三世代のフランクフルト学派や、ベンヤミン、ブロッホなど、ドイツの現代の思想を考察するMLです。1997年11月スタートです。

○アレント(モデレーター:遠藤智昭+中山 元)
最近特に注目を集めているハンナ・アレントのMLです。1998年3月にスタートしました。遠藤さんに、アレントのカント論の分析をお願いしています。

なお、これらの個別の哲学者のテクストについて話し合うMLとは別に、全般的な議論をするためのMLがあります。

○アゴラ
アゴラは、哲学だけでなく、さまざまな学問分野を対象とした研究発表の場として用意されています。入会をご希望の方は、agora-request@ml.mail.ne.jpに自己紹介メールをお送りください。

○カフェテリア
カフェテリアは、ものを考えたり議論するのに疲れたときに、人々と気楽な会話を交わすための場所です。どなたもお気軽にどうぞ。入会をご希望の方は、cafeteria-subscribe@egroups.co.jpに空のメールをお送りください。

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ただ、読者の方でどなたか哲学のMLを主宰しておられる、あるいはこれから主宰する予定があるという方がおられたら、おしらせくださいね。ここでご紹介しますね。
よろしく!

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ポリロゴス通信第六号(2000/01/15) [部]
発行:ポリロゴス事務局: polylogos@geocities.co.jp
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