質問する人:二木 麻里
答える人 :中山 元
二木: あの、はっきり言ってフーコーは取っつきにくいという声があるんですが。
中山: やっぱり? このあいだ四苦八苦して『フーコー入門』という本を書いたんですが、この本ではフーコーの一つの読みかたを提示したかったんです。でもやはりフーコーというのは、膨大な知識量を背景にした作品が多いこともあって、入りにくいところはあるかもしれない。『入門』でも、なんとかフーコーの良さをわかりやすく伝えたかったんですが、編集者さんに「まだ難しい、まだ難しい」って言われまして……。いっしょうけんめい書き直したんですが。
二木: どうでしょう。フーコーを読みたいという方に、文献を紹介してみては?
中山: それはいいですね。フーコーのどんな著作を読んだらいいか、考えてみましょう。そうすれば少しは楽に読めるかもしれない。歴史的な順序でもいいんでしょうが、クロノロジーにこだわらないで、フーコーのとらえた主体、真理、権力という問題構成の軸で考えてみたいですね。
★三つのテーマ〈主体・真理・権力〉
二木: では、まず〈主体〉から。
中山: フーコーにとってこの問題は「主体が、真理の主体であり、権力の主体であり、性の主体であるためには、どんな条件が必要で、どんな歴史的前提が必要だったか」ということだと考えられます。
二木: でも、それではどれも重なってしまいますね。さっきの主体・真理・権力というのが、全部出てきますから。
中山: そう。そうなんです。すべての軸はひとつに収斂していく。同じ問題を別の側面で眺めているといってもいいかもしれません。
★主体の問題系
二木: フーコー自身の視点が、時期によって変わるという面はありませんか。
中山: あります。問題のとらえかたが変化していく。たとえば主体という問題系についても、四つの時期を考えることができます。最初の頃の、〈主体の死〉というテーマを中心とする〈人間学的な主体〉の時代がまずありますね。それから、身体的な面からみてどのように主体が形成されるかを考えた〈身体論的な主体〉の時代。さらに主体が性という面から形成されることを考えた〈性的な主体〉の時代。そして実存の倫理としての〈倫理的な主体〉の時代です。
二木: それぞれの時代で、何を読めばいいでしょう。
中山: まず〈人間学的な主体〉の時代(これは構造主義的な知の時代ともいえます)については『言葉と物』(新潮社)の人間の死の章が有名です。ですが重要なのはこの章だけではなくて、この作品全体に通じる「主体という概念が、いかにして近代科学の自己了解として形成されていったか」という掘り下げ方だと思います。人間のアイデンティティは、こういう自己了解を基礎にしてますから。フーコーは、西洋の近代的な知の布置を解き明かしていくことで、近代的な主体概念が抱え込んでいる問題に、焦点をあてるようになるんです。
二木: なんの疑いもなく前提になってしまっていた〈主体〉というものの形成のプロセスを分析したわけですね。
中山: ある意味では構造主義自体に〈主体という概念の否定〉という発想が含まれているとも言えるんです。バルトには「主体の死」という文章があるし、フーコーにも「作者とは何か」という文章がありますね(『作者とは何か』哲学書房)。
二木: フーコーの『レーモン・ルーセル』もその一つでしょうか。伝統的な〈作者〉を否定する文学的実験について考えているという印象を受けました。
中山: そのとおりだと思います。もちろん『知の考古学』(新潮社)も全編、主体概念をどうやって否定するか、という問題意識に貫かれている作品です。
二木: では、次の〈身体論的な主体〉の時代では。
中山: これは何よりもまず『監獄の誕生』(新潮社)をあげるべきでしょう。パノプティコンという建築構造がどうやって〈従順な主体〉、つまり自己のうちに道徳的な規範をそなえた主体を形成していくかということを分析した作品です。フーコーのなかでは一番読みやすくて、入りやすい本かもしれません。あとは一九七七年の「権力の眼」(『エピステーメー』一九七八年一月号)や、一九七五年の「権力の戯れ」(『エピステーメー』一九七七年一二月号)も参考になります。
二木: 〈性的な主体〉についてもあげてください。
中山: 『エルキュリーヌ・バルバン』(解説だけが『海』一九八〇年九月号に所収)がありますね。さらに『性の歴史』の第一巻『知への意志』(新潮社)で、この問題を中心に分析しています。自分の性的な欲望を告白することによって、人々がどうやって自分を〈性的な主体〉として形成していくか、そのために権力がどういう働きかけをするか。そして〈セクシュアリテ〉という装置が、どうやって主体を形成し、社会を維持していくかという重要なテーマがここで出てきます。
二木: 人々に欲望を告白させ、自分の秘密の主体とさせることによって、支配を貫徹するというのは、司牧者権力と統治性のテーマでもありますね。
中山: そう。その問題を考えるには、「全体的かつ個別に」(『現代思想』一九八七年三月号)が必読です。それと司牧者権力についてフーコーが日本で行なった講演があります。「政治の分析哲学」(フーコー+渡辺『哲学の舞台』所収)という文献です。あと一九八二年の「主体と権力」(『思想』一九八四年四月号)も、とても参考になる。
二木: 最後の〈倫理的な主体〉というテーマでは。
中山: まず『快楽の活用』ですね(新潮社)。ここでフーコーが倫理のテーマを取り上げた時は、あのフーコーが〈転回〉した、という感じで取り沙汰されたものです。この作品は、実存の美学という形で、自己の生き方を美的なものとしようというフーコーの最後のマニフェストだったといえます。 それから『自己への配慮』(新潮社)があります。これはギリシア社会の倫理的な側面が、どのように主体を構成する〈技法〉だったかを示す作品だと思います。
また、この問題はまだ十分に展開されていませんが、美学的な生き方の問題を分析した「啓蒙とはなにか」(『ルプレザンタシオン』五号)をあげておきます。ボードレールのダンディズムを取り上げながら、思考の倫理という問題を取り上げている作品です。
さらに、〈倫理的な主体〉という問題では、『自己のテクノロジー』(岩波書店)に収められた文章やインタビューも大事ですね。
二木: こうしたふりかえってみると、フーコーは主体という問題について考えていくうちに、倫理という問題に行き着いたという印象を受けますね。つまり〈主体についての思考〉が、やがて〈思考する主体の倫理〉という問題に収斂したと……。
★真理の問題系
二木: 次に第二のテーマ〈真理〉の資料を紹介してください。
中山: フーコーの真理の理論は、一九七〇年頃に大きく転換します。それ以前は真理という問題は、エピステーメーの問題として提示されていました。〈真理が真理として成立する条件〉を分析するのが、それまでのフーコーの中心的な課題だったと思います。しかし一九七〇年頃からは、〈真理を語る主体〉という問題として、真理がとらえ直されます。真理が成立する条件が、エピステーメーの問題としてよりも、主体の問題として分析されていくわけです。
二木: 最初の頃のフーコーは、真理という言葉をかなり無造作に使っているような印象を受けるんですが。
中山: そうだと思いますね。初期の『狂気の歴史』(新潮社)では、真理という言葉がまだ伝統的な意味で使われている。たとえば「狂気の真理」という言い方をする時には、「狂気のもっとも本質的な意味があらわになる」というようなニュアンスで使われています。
二木: 一九七〇年というと、ニーチェの〈系譜学〉の概念がフーコーの著作に登場した頃ですね。
中山: あそこで変わるんです。それを象徴するのが、『言語表現の秩序』(新潮社)であり、『ニーチェ・系譜学・歴史』(パイデイア一一号)です。どちらも読んでおきたい作品です。
『言語表現の秩序』は、翻訳がわかりにくくて問題がはっきりみえないんですが、ここでフーコーは、真理への意志が、西洋社会の主体や権力といかに密接な関係にあるかということを言っています。これは『知への意志』や、「真理、権力、自己」(『自己のテクノロジー』所収)などにもはっきりみられます。「全体的かつ個別に」も、真理をこの観点から取り上げています。
二木: その頃のインタビューで「真理への気遣い」(『エピステーメー』II-0号)というのがありますね。タイトルがいかにもフーコーらしいのですが。
中山: あれも参考になります。真理と主体の問題系が、密接な関係にあるということがよくわかります。
あと忘れてならないのは、晩年のフーコーに出てくる〈真理ゲーム〉という概念です。真理は既定のものではなく、たえず作り上げられていくという考えで、この概念はもっと重視されていいと思います。
二木: どの文献にありますか。
中山: 一九九四年に出版された『Dits et Ecrits』(Gallimard)という四巻の『著作集』に出てきます。ただ残念ながらこれを含め、まだ翻訳のあるテクストがほとんどないんです。『Dits et Ecrits』は、生前未刊だった文章やインタビューがいろいろ掲載されている本なので、早く翻訳が出るといいですね(筑摩書房が版権を取得しています。蓮實さんが中心になって翻訳が進められていると聞きます)。
〈真理ゲーム〉については、今後ポリロゴスの「ミシェル・フーコー論」でくわしく紹介していくつもりですが、まだ数年先の予定です。『Dits et Ecrits』が日本で刊行されるのも、かなり先になるでしょう。しかし、たとえば『快楽の活用』は全体にわたって、古代における真理ゲームを描き出したものと考えることができますし、この序文では真理のゲームという概念で、これまでの自分の思索の過程を振り返っています。
つまり、人間はどういう真理ゲームを通じて、自己を狂人として判断するか、病者として判断するか(これは『狂気の歴史』と『臨床医学の誕生』のテーマをさらい直したものでもあります)。あるいは生命をもち、働き、語る存在として認識するか(『言葉と物』のテーマ)。あるいは性的な欲望の持ち主として判断するか(『知への意志』のテーマ)ということです。
「自由のプラティックとしての自己の配慮の倫理」(『最後のフーコー』、三交社所収)でも、この〈真理ゲーム〉の概念がくわしく説明されています。ですから、あちこちに散りばめられているというか…宝探しのつもりで読んでいくのも楽しいかもしれません。
二木: 〈主体〉と同じように、〈真理〉もやはり倫理の問題に収斂していくのでしょうか。
中山: むずかしい質問です。そう言っても間違いではないとは思いますが、フーコーの究極の問題が倫理的なテーマだったと考えるべきではないと思うんです。主体と真理と権力の問題は、倫理の問題だけに還元できるものではないからです。
二木: ただフーコーの問題は、倫理の問題を軸に考えるととてもわかりやすいような気がして……。
中山: たしかに重要な視点ですね。
★権力の問題系
二木: それでは最後の〈権力〉という問題系に移りましょう。
中山: 権力の問題は、フーコーが自分の経験から、とくにこだわったテーマです。『狂気の歴史』では、精神病院での患者と医師の関係が取り上げられていますが、この権力的な関係に対するまなざしに貫かれている作品だといえます。
でもフーコーの権力論がなによりはっきり出てくるのは、やはり『監獄の誕生』でしょう。権力とは、抑圧するのではなく、身体の規律を通じて主体に働きかけるのだということを、ここでフーコーは強調しています。つまり権力は、マルクス主義が考えたように国家権力として外部から主体に加えられるものではなくて、逆に内部から主体を形成することによって、その正統性を確保するということなんです。
さらに『知への意志』では、権力が主体を構成する力をそなえていることが、さらに重視されています。『監獄の誕生』ではまだ、権力は内部から構成する力でありながら、かつ外部からも従順な身体を作り出そうと働きかける側面が強いんですが、『知への意志』では権力は、すべての人間の間に存在する、微細な力関係のようなものとして理解されるようになる。非常に迫力のある視点です。
二木:〈ミクロな権力〉という概念ですね。
中山: そうです。権力がミクロな形でわたしたちの間につねに存在すると意識することが、実は社会を変えていく力になるというんです。それを教えたのがフーコーでした。
たとえばベルリンの壁の崩壊や、ソ連・東欧体制の終焉の時、「人々が自分の欲望に忠実であることによって、社会主義体制を崩壊させた」と言われましたよね。〈ミクロな権力論〉は、ああいった歴史的な大事件の原理を、前もって思想的に提示したものだと考え得るんです。フーコーは、マルクス主義革命のように未来のいつかに実現するはずの遠い革命ではなく、今、ここで、自分の立場から変革を提案することが、ほんとうの変革をもたらすのだということを原理的に示したといえます。
二木: 最後に、フーコーの主体や真理や権力の問題をとらえるには、他にどんな作品があるでしょうか。
二木: 一九七六年の「真理と権力」(『ミシェル・フーコー』新曜社所収)もいいでしょう。権力が内部から働きかけるものであることを強調しながら、新しい知識人像を提出したものとして興味深い文章です。「主体と権力」(前掲)や「真理・権力・自己」(前掲)も、後期のフーコーの権力論をわかりやすく説明しています。
フーコーは一生を通じて、つねに自己の問題、自己の実存の技法の問題、倫理の問題にたち戻っていくとも言えるでしょう。。
二木: ありがとうございました。