レヴィナスにおける哲学と宗教

−−レヴィナス「神と哲学」を読む

(中山 元)

 レヴィナスにおいて、哲学と宗教がどのような関係にあるかを考えるには、『超越と知解可能性』の他に、この「神と哲学」が重要な位置をしめている。この論文は『観念に来れる神』に収められているものだが、まだ邦訳がないので、さまざまな問題を考えながら読んでみたいと思う。

★存在論神学批判

 一九七五年に発表されたこの論文は、アリストテレスを意識した「哲学しないためには、また哲学しなければならない」という文で始まっている。哲学の必要性を再確認するこの文章は、明らかにデリダのレヴィナス批判に呼応したものである。

 デリダは「暴力の形而上学」の最後近くで、「一人のギリシア人」の言葉として、この「哲学しないとしても、やはり哲学しなければならない」というアリストテレスの『形而上学』の言葉を引用して、レヴィナスの「幻想」を批判した。デリダの批判は、哲学の言葉を使わなくては、哲学批判を行うことはできないというところにあった。

 理性を批判するのは、やはり理性であり、理性の外部から理性を批判することはできないというのは、フーコーを批判した頃からのデリダの確信であり、デリダの脱構築という戦略は、この理性内部からの理性批判の理路を探ったものであった。理性の外部から(たとえば狂気のような反理性から)理性を批判するのは、ごまかしであるとデリダは考えていたのである。

 このデリダの観点からは、レヴィナスがユダヤ教を理性=哲学批判の武器として使用することに、疑念が生じる。理性の外部から理性を批判している、すなわち哲学の言葉を使わずに哲学批判ができるかのような幻想に依拠しているようにみえるわけである。

 レヴィナスがこの批判に答えるために、アリストテレスのこの言葉をこの文章の冒頭にもってきたことは、ほぼ確実であろう。それではレヴィナスは理性の外部からの理性批判が可能であると考えていたのだろうか。あるいはレヴィナスのユダヤ教の概念は、理性の「外部」なのだろうか。

 まずレヴィナスは、ギリシア哲学に普遍性がそなわっていることを認めていたことを確認しよう。レヴィナスはフッサールのように、西洋の哲学は理性のヒロイズムであり、ギリシアの知にデュナミスとして含まれていた人間性が顕現するエンテレケイアであるとはいわない。しかしギリシアの知は一つの完全な普遍性をそなえていて、他のすべての哲学は地方的な訛にすぎないと考えていたのである(「同化と新しい文化」、『聖句の彼方』所収)。

 レヴィナスがどのような根拠からこのように考えていたかは、それほど明らかではない。あるいはデリダが「暴力と形而上学」の論文で指摘しているように、ギリシア哲学において「存在の彼方」が考えられ、他者性を意味の根源において思考する営みが一つの課題として考えられるようになっているため、「ギリシア」哲学はすべての他なる思考に対する「備え」ができているということかもしれない。

 しかしレヴィナスは、哲学しないためにも、哲学の言葉で語る必要があるとしても、哲学、すなわちギリシアの叡智とは異なる普遍性が存在することを主張する。この普遍性はいかにして可能となるか−−これがこの文章の中心的なテーマである。

 「同化と新しい文化」の論文では、レヴィナスはギリシア哲学の普遍性に対して、ユダヤ教の普遍性を対置させている。この普遍性とは、「特異性は普遍性の彼方で思考可能である」ことを示すという奇妙な普遍性である。このほとんど自己矛盾的な表現で、レヴィナスはなにを考えているのだろうか。

 まずレヴィナスは理性による理性批判、普遍性による普遍性批判という言葉だけの思考をしないことを指摘しておこう。レヴィナスは言葉の根源にもどって考えるのである。ただしそれはハイデガー的な語源に溯るという意味においてはではない。語源に依拠する限り、ギリシアのポリスの共同性に溯るか、ゲルマンの土着性に溯るかしか選択の余地がないからである。レヴィナスはそれよりも、フランス語という日常的な語から離れない。フランス語において、たとえば理性性とはなにかと問うのである。

 フランス語では理性性(ロゴス性)に近い言葉は、合理性という言葉である。合理的とは、理性的なことを意味するからだ。そしてこの合理性ということは、senseということだとレヴィナスは考える。senseとは、意味があるということであり、理性的な言葉を話すことである。すると理性性とは、意味sensがあるということであり、世界にどのように意味をみいだすかということだとレヴィナスは考える。だから理性性とは、哲学的な思考において世界を理解する方法につながることになる。それをレヴィナスは知解可能性という表現で提示する。

 世界が主体にどのように「現れる」かということを、概念化したのが、この知解可能性intelligibiliteという言葉である。「(物が)みずから現れること、みずからをを照らし出すこと、それはまさしく意味をもつことであり、まさに知解可能性をそなえていることそのもの」である。「思考がそれを思惟するものを訪れる時、それはまさしく知解可能性である」(DQVL:94)。

 だから哲学的な思考においては伝統的に、「意味」をもつものは理解し、把握することができなければならないと考えられるようになった。だから哲学は神についても、それを思考することを自らの任務とする。そして哲学は神を存在者、卓越した存在者として思考するのである。しかしここに哲学の限界があるとレヴィナスは指摘する。伝統的にキリスト教神学は、神を最高の存在者として考えようとしてきた。神は完全なものであり、至高なものであるために、存在性を欠くということは「欠陥」であり、神にふさわしくないと考えられたのである。

 レヴィナスは、神学、特にキリスト教神学は、神を存在者の次元に貶めるながら、神を考察しようとしてきたと考える。そしてその意味で、キリスト教神学は、哲学の支配に屈しているのである。

  西洋の哲学の歴史が、超越の破壊の歴史であったのは、偶然ではない。

  合理神学は、必然的に存在論的なものである…(DQVL:95)。

 しかし神が〈存在する〉と語ることは、神の「高さ」をただしく表現する方法であろうかとレヴィナスは問う。神を存在論的に考察することだけが、唯一の意味のある方法だろうか。これは、神の「意味sens」を存在性essenceとして考えるのが、唯一の「神学」的な方法だろうかという問いである。神の意味を存在性とは異なる次元で考えることはできないか。理性神学とは異なる理性の使い方はないのかと問うことである。

 レヴィナスがここで考えているのは、神学にとどまらず、ヘーゲルの絶対知の哲学とハイデガーの存在論に象徴されるような西洋の哲学の体系である。ヘーゲルの哲学は、知にとっては他者というものは存在しないという確信に依拠していた。ヘーゲルが自己の体系を確立したのは、論理学、自然学、精神哲学のすべての領域にわたって、人間が知性で認識できる推論の運動、すなわち普遍的、特殊性、個別性の運動が支配していることを確信した時である。

 カントを感動させた遠い天空を回転する星晨も、地球を含む太陽系も、地球上の事物も、ある自然法則にしたがっていると理解することができ、その自然法則は人間の思考の法則に依拠したものであると理解することができる−−ヘーゲルはここに人間の知の全体性の根拠をみたのである。太陽が人間の思考にしたがって移動するわけではない。しかし人間は太陽の運動を自己の思考の運動に依拠している理解することができる。その場面では、太陽の運動は人間の思考の理解の及ばない他者ではない。

 ヘーゲルの哲学にとっては、知の他者が存在するということは、その知の不完全性を示すことであった。ヘーゲルは、すべてのものを自己の知の枠組みにおいて理解することができると考えたのである。科学の営みは、ある程度まではこのような知への意志に駆られていると考えることができるが、この信念は、知の誠実さを示すと同時に、知の傲慢さを示すものでもある。

 レヴィナスが問題とするのは、この知の全能性にたいする信念、知の営みの「誠実さ」への信念である。人間は知の可能性、理論の可能性、世界の知解可能性をこのようにして信じることによって、他者に対してある赦しがたい傲慢さを行使することになるのではないか−−レヴィナスの問いはここから生まれる。

★非知の思想

 レヴィナスに特徴的なことは、この世界の知解可能性への疑念が、科学的な知や哲学的な知そのものへの疑念として提示されるよりも、それが存在論への疑念として提示されることにある。これはフッサールとハイデガーを経て思想形成したレヴィナスに固有の事情と考えることもできるだろう。しかし特に重要なことは、西洋の神学に存在論的な特徴が顕著だったことである。

 これは、「西洋の哲学にとっては、意味または知解可能性は、存在の顕示と一致するのではないか」(DQVL:97)という疑問である。そのことをレヴィナスは、ハイデガーの存在論の文脈で考える。ハイデガーは存在と存在者の区別を提示したが、レヴィナスにとっては逆に、すべてのものを存在に還元して考えるという西洋の形而上学の習癖が問題になる。神を存在の次元で考えよとするのは、迷妄ではないか。存在しないものを考えることはできないという古代ギリシアのパルメニデスのテーゼは、西洋の哲学の思考を拘束してきたが、すべてを存在との関係で考えるのは間違いではないか。

 このことは、すべてのものを存在論の光学から判断しようとする西洋の哲学の欠陥ではないかとレヴィナスは考える。存在と存在者のカテゴリーから外れる場所、いわば〈非−場〉を問題としなければならないのである。これは、視ることをモデルとしてきた西洋の哲学にとっては、大きなパラドックスを生む。しかし伝統的な西洋の哲学の思考の限界を超えたものを、思考することこそが必要なのである。

 これは思考にとってはある意味では不可能な問い、非知の知の試みである。ここでレヴィナスは、バタイユと出会う。バタイユが問題としたのは、涙、笑い、性的な体験、宗教体験など、存在論の領域からはみだす体験において、存在論と哲学的な思考の枠組みから逸脱した思考の可能性を追求することであった。この問題をレヴィナスは、神の思考の可能性において追求するのである。

 そのためにレヴィナスが提示する体験が、不眠であり、覚醒である。不眠の夜においては、主体としての核は消滅し、目覚めているのが誰かも分からないような意識のあわいに溶け込んでしまう。目覚めているのは、「それ」としかいいようのないものである。そして不眠においては、人間の営みにかかわるすべてのカテゴリーが失われる。主体は意識の主体ではなくなり、意識は志向性として、〈…についての意識〉であることをやめる。

 あるいは疲労という体験がある。疲労や倦怠においては、意識は外部の支えを失い、自閉し、消耗していく。これらの体験は、「〈同〉のトートロジーの肯定性にも、弁証法の否定性にも、主題化する志向性の脱自にも還元されない」(DQVL:98)。この体験は、自己同一性の明証性を失い、否定すべき対象をもたず、志向すべき対象をもたない。レヴィナスは、これはカテゴリーに分類できるものではなく、メタ・カテゴリーの「メタ」性を可能にするようなものであると考えている。

 この体験そのものは、哲学的に重要な意味はもたない。それが重要であるのは、通常の〈経験〉という概念を越える〈体験〉を示唆しているからである。レヴィナスは〈経験〉という概念が、西洋の近代の形而上学において、コギトの明証性を保証するような重要な役割を果たしてきたことを指摘する。デカルトからフッサールにいたるまで、意識する自我の明証的な経験が、哲学の営みの根幹として考えられきた。

 そのことを明示しているのが、カントの純粋統覚の概念とフッサールの現前性の概念である。まずカントにおいては、感性的な認識と悟性的な認識の「綜合」を可能にするのは、「わたしが考える」という純粋な意識の統一性であると考えられていた。この純粋統覚が存在しなければ、認識そのものが成立しないと考えられていた。またフッサールでは、真理の保証は意識においてありありと現前することの明証性におかれていた。

 言い換えると、カントにおいては、純粋統覚という意識の内在は、人間の認識そのものを可能にする超越論的な条件である。フッサールにおいては、意識の現前性は人間の認識の真理性を保証する条件である。このような内在を認識と真理の可能性の条件そのものとする伝統は、西洋の形而上学においては強固なものであり、レヴィナスはそのことを「哲学はたんに内在の認識であるだけでなく、内在そのものである」と表現する(DQVL:101)。

 それでは哲学はこの内在の概念と手を切ることはできないのだろうか。われわれの思考はつねに生き生きとした現前と、自己が存在し、思考するという明証性から出発して思考しなければならないのだろうか。他の思考の可能性は存在しないのだろうか。レヴィナスはこの問いを繰り返す。理性批判を理性の外部からではなく、理性の内部から、しかも西洋の形而上学のこうした伝統とは別の場所で開始することはできないのだろうか。

 その一つの可能性としてレヴィナスがまず検討するのが、神学の思考である。しかし神学的な思考は、哲学的な思考とは「手が切れている」と自称しながらも、それがコギトの明証性と「わたしは考える」という経験に依拠している限り、哲学を批判する方途とはなりえない。宗教が哲学的な存在や体験の概念に依拠して〈神〉を思考している限り、宗教は哲学に内属しているのである。そして中世以来のキリスト教神学は、神の〈存在〉問題を中心に議論を進めてきたのであり、それは哲学の亜種にすぎないことになる。いわゆる宗教的な思考は、哲学の一つのヴァリエーションにすぎない。

★無限の概念

 レヴィナスは宗教の思考において、神を〈経験〉の一つの主題として考え始めると、必ず哲学の領域に転落してしまうと考える。人間の経験の可能性の条件を考察したドイツ観念論からフッサールの現象学にいたる強靭な思考のパターンを逃れることはできなくなるのである。そこでレヴィナスが提示するのが、「無限」の観念である。

 当然ながら、ドイツ観念論以来、無限の観念は重要なテーマとして考察されてきた。しかしレヴィナスがここで提示する無限の観念とは、こうした哲学的な主題としての無限の概念ではなく、こうした考察をつねに乗り越えていく運動としての無限の観念である。

 コギトの概念を提示したデカルトは『省察』において、意識には無限の観念が含まれるが、これは人間の有限性にはそぐわないものであり、人間が自ら考え出したものとは思えないと指摘していた。人間はこの観念を感覚によって獲得したのでもなく、自分で作り上げたのでもない、これは神が外部から人間の精神に刻印したとして考えられない−−デカルトはこのように議論を進めながら、神の存在を証明しようとした。

 デカルトは無限の概念によって神の「存在」を証明しようとしているのであり、レヴィナスが批判する内在性としての哲学の営みに属しているようにみえるが、レヴィナスはこの観念が意識の志向性の概念を越えていく性質があることに注目する。神は意識の志向性によっては認識できないものであり、しかも人間の意識のうちにこの観念が内在しているということに、神と無限の観念の特異性があるとレヴィナスは考える。デカルトはそれが意識に「生得的に」含まれると考えたが、レヴィナスはこの概念が意識に刻印されているということの受動性の契機を重視する。

 この受動性とは、カントが感性に与えた受動性とは異なるものとして考えられている。カントは人間の有限性とは、感性が存在者によって「触発」されなければ認識できないことにあると考えていた。人間が認識するためには、まず存在者が存在し、それが感性に働きかける必要がある。しかしレヴィナスは、この受動性とは、経験の条件としての「触発」ではなく、「いかなる受動性よりも受動的な受動性」(DQVL:106)であると考えている。これは人間の意識の有限性を示すものでありながら、同時に人間の意識には、自己を超越している能力があることを示すものである。無限の観念は、人間の意識に「内在」するものでありながら、意識が自己の内部で完結することの不可能性を告知するものなのである。

 人間の意識はカントが示したような有限なものであり、触発されるという受動性においてしか、経験をすることができない。しかしこの受動性は同時に人間の意識が「開かれている」という契機を示すものである。人間の意識はみずからに閉じていることができない。それは他者から作用を受けるようにつねに開かれているのである。これは意識の自発的な作用として行われるのではなく、受動性の極致として、「いかなる受動性よりも受動的な」ものとして生じるのである。

 それはあたかも「外傷」でもあるかのように、人間の意識に刻み込まれている。レヴィナスはここに人間の意識の構造の秘密があると考える。それは有限であることにおいて、有限性そのものにおいて、一つの無限性への方向性、〈外部〉への方向性を示しているのである。これは意識の内部に内在する〈超越〉である。

 これは意識が、自己の権能において支配できないものを抱えていることを示すものである。意識のうちに「痕跡」のように残された「外傷」は、意識を認識の志向性として機能させるだけでなく、ある必然的な運動として、他者に向かって開く。これは「意識の事実」という明証性と共時性の光を越えた運動である。レヴィナスはこの意識の構造を隔時性[ディアクロニー]という言語学の用語で呼ぶが、これは意識がつねに共時性以前のものを含んでいることを示すものである。

 意識には記憶によって溯ることのできない「痕跡」が書き込まれている。これは意識が無意識の闇を抱えているということではなく、意識の構造そのものが、現前以外の要素、現在以前のある「古さ」を含み込んでいるということである。これは起源に溯るという方法によって到達することができるものではない。これが意識の構造そのものとしてある以上、それは時間を溯ることで辿り着くことができるものではないからである。

★「身代わり」と「責任」

 この無限の観念は、人間の精神に書き込まれた痕跡であるが、レヴィナスはその証拠を人間の「欲望」にみいだす。レヴィナスの欲望という概念は、欠如を充足するものとして考えられたプラトン的な欲望ではない。世界を享受し、欠如が充足された主体がさらに他なるものに向かってゆく「形而上学的な欲望」である。

 レヴィナスはこの欲望という存在様態は、世界の表象という志向性の哲学では捉えられないものであると指摘する。知解可能性が世界の表象と認識だけを目的とするものだとすると、人間が他者を求める理由が明らかにならないとレヴィナスは考える。人間は認識しようとするだけでなく、存在を越えて、自己と異なるなにものかを絶えず欲望する。この欲望のありかたをレヴィナスは超越と呼ぶ。これは有限性な人間に書き込まれた「聖なる喜劇=神曲」なのである。

 この欲望の「対象」となるのは、かつて一体だった分身であり、人間はかつての一体性を復元しようと熱望するというのが、プラトンの『饗宴』で喜劇作家のアリストファネスが提示したエロス論である。しかしレヴィナスが提示するのは、エロスなき愛であり、他者に対して主体がすでに責任を負っているという事態であった。

 ここで確認しておく必要があるのは、レヴィナスにおいては責任とは、自ら「負う」という雄々しき行為ではなく、主体のうちにすでに書き込まれてしまっているものだということである。主体が主体として存在しうるということは、その主体にすでに他者に対する責任を負わされるという事態が成立しているということだとレヴィナスは考える。その事態をレヴィナスは「身代わり」と呼ぶのである。

 「身代わり」や「人質」という概念は、誤解を招きやすい。この二つが同時に成立するのが、ハイジャックにあった乗客や。テロリストに人質に取られた人々に対して、身代わりとなるという「英雄的な」行為であろう。無垢の人々の「身代わり」として、人質になることを申し出るのである。しかしレヴィナスが考えている概念は、このような「英雄的な」行為ではない。主体は自律的な主体として成立しうるのではなく、すでに他者に責任を負った主体として成立してしまっているのである。

 それは「挨拶」という日常的な行為にも顕著に示されている。人は他者と出会うと挨拶をする。それはわたしは他者に対して無害であることを表明するためである。人が他者に対して自由で自律的な存在であることからは、このような挨拶の必要性は導かれない。人は他者に対して、つねにある責任を負わされた立場におかれているのである。

 ミシェル・フーコーであれば、この状態を〈力〉という概念で提示しただろう。人はすべての他者との間で、ミクロな力関係を結んでいるのであり、人間関係とはこの力の網の目で形成されているのである。この網の目においては、人々の間柄は、中立的なものでも中性的なものでもない。人は自由な人間として他者に対峙すると考えるのは幻想にすぎないのである。

 レヴィナスはこの事態をaccusatifという表現で示す。accusatifとは、対格という文法用語であるが、この用語でレヴィナスは主体の受動性を強調しようとしているのである。これをコギトという動詞形との対比で考えてみよう。コギトcogitoという語は、考えるcogitareという動詞の原型の直接法現在一人称単数形を示す。コギトという概念には、「わたしという主体=主語が考える」という意味を含んでいる。ここでは「わたし」は主格で示され、思惟する主体であることを示している。

 しかしレヴィナスは、人間のありかたを顕著に示しているのは、神に呼ばれた時にアブラハムが答えた「わたしはここにおります」me voiciという表現だと考える。呼ぶのは他者(神)であり、それに対して主体が答えるのである。この主体は主格ではなく、対格accusatifで示される。

 accusatifという語は、accuser(告発する)という動詞から派生した語であり、主体はここでは告発された客体として登場する。レヴィナスにとっては、主体は思惟する主格ではなく、告発され、非難され、責任を負わされる客体として登場するのである。しかもいかなる過ちを犯したわけではないのに、告発される客体であり、責任を負う主体として。

 このようにしてみると、主体と主体の関係は相互的なものではないことがわかる。わたしは他者に対して、告発された対格として登場する。私はつねに他者から責任ある者として、告発されているのである。レヴィナスはこの状況を〈顔〉という概念で提示する。他者は〈顔〉をもつ存在であり、その〈顔〉がわたしを「告発する」のである。

 これと同じように、他者はわたしに対して、告発された対格(直接目的格)として登場するはずである。逆に互いに相手よりも低いものとして登場することで、いわば対当な関係が存在するかのようにみえるのである。二つの主体は同じ平面において対当な関係で存在しているようにみえるが、実は個々の関係においては異なる平面に存在する。

 だから理論的には、わたしは他者に対して〈顔〉であるのだろうが、それはわたしの側から言い出す筋合いのものではない。わたしに明らかなのは、他者が〈顔〉をもち、その〈顔〉がわたしを責任あるものとして告発しているということだけである。この非対称な相互性(変な表現だがお許しいただきたい)の構造を示すために、レヴィナスは「彼・性」という奇妙な概念を提示した。他者との関係において、他者に直面した主体は、他者を二人称で呼ぶ。ここでは二者関係が成立しているようにみえる。しかしすでに述べたように、平等で対当なようにみえる一人称と二人称の関係は、高さの異なる次元にある。

 この平等な二者関係の重要性を強調したのは、マルチン・ブーバーであった。『われと汝』という著書で、ブーバーは人間が他者との間で結ぶ関係を「われ−汝」関係と[われ−それ」関係に分けていた。人間は他者に対しては、つねに正面から直面し、相手を「汝」として捉える必要があり、人間と人間の関係を人間と物との関係である「われ−それ」関係にまで貶めてはならないことを訴えた。これはカントの目的の王国の概念、他者を手段としてしようするのではなく、目的として扱うことを求めた定言命法の概念と類似た考え方である。

 しかしレヴィナスは、このような「われ−汝」関係には陥穽があることを指摘する。「われ−汝」関係のもっとも典型的な極は、「母−子」関係と、エロス的な恋愛関係である。ここでは二人の主体が正面から向き合い、他者との間で強い人間関係を結んでいる。しかしこの二者関係は閉ざされた関係であり、他の第三者を拒否するものである。二者関係からは、つねに第三者が排除されているのである。

 レヴィナスは、二者関係においてつねに第三者が排除されるという事態は、第三者に対して暴力を行使するものであると指摘している。これは肉体的な暴力ではなく、わたしとの間で親密な人間同士の関係を結ぶことを望む第三者の願いを踏み躙るものとしての暴力である。レヴィナスはこれは人間関係においてもっとも原初的な暴力であると考える。

 ある意味では、このような暴力は不可避なものであり、社会とはそのようにして成立するものである。しかしレヴィナスが主張したいのは、二者関係というものはこのような第三者を排除するものであり、この関係を至高のものとしてモデル化してはならないということである。それが〈顔〉のメッセージである。〈顔〉とは、他者と「直・面すること」、他者と顔−顔の関係を結ぶことであり、二者関係の極である。しかし同時に〈顔〉が語るのは、わたしが他者との間で二者関係を結ぼうとすると、第三者を排除することになるということでもある。だから〈顔〉は同時に、この排除された第三者の存在を告げるものである。

 レヴィナスはその事態を「彼・性」という概念で提示する。〈顔〉の背後で、「彼・性」が自らの存在を告知するのである。レヴィナスにとっての〈倫理〉の意味は、この〈顔〉の「彼・性」を認識することにある。人間の関係が、倫理的な関係であること、これを示すのが、神曲の意味である。「神曲=聖なる喜劇」とは、喜劇として人々を笑わせるものでありながら、その告げるメッセージのために笑いは喉で詰まってしまうのである。

★他者の〈近さ〉

 この他者の「彼・性」のために、わたしは他者に対して責任を負うのであるが、レヴィナスはこの他者に対する責任というものは、〈近さ〉として感受されると指摘する。他者とわたしの間には、「超越論的な統覚では埋めることのできない差異」が深淵のように口を開いているのである。そしてわたしの他者に対する責任とは、この差異に対して無関心でいることができないという事態にある。他者はこの〈顔〉と「彼・性」のために、わたしにとって気掛かりになる存在であり、そのために「近しい」存在なのである。

 レヴィナスがこの近さの問題を考察する時にしばしば登場するのが、カインの逸話である。周知のように旧約聖書においてカインは、弟のアベルを殺害しながら、父親のアダムにアベルの所在を問われると、「われ知らず、われあに弟の守者ならんや」と答えた(創世記四章九)。わたしはアベルの子守でもないのに、アベルがどこにいるか、どうして知っているでしょうかと。

 レヴィナスはこのカインの冷たさは、責任というものを自由と契約のモデルで考えることに始まると指摘している。このモデルでは、自由な主体が他者の面倒をみることを契約した場合に、はじめて他者に対する責任が生じると考える。そして契約を結ばない限り、同じく自由な他者がどのように行動しようと、いかに苦しもうと、わたしは知らないし、いかなる責任も負わないということになる。

 カインは本来近しい存在である弟に対して(みずから殺害しておきながら)このように語ったために、「冷たさ」があらわになるが、レヴィナスはこのような自由と契約のモデルで考える限り、つねにこうした冷たさが本質的なものとなることを指摘する。レヴィナスにとっての責任とは、他者の〈顔〉がわたしを告発することを認めることであり、他者の告発を無視することができないこと、他者が自己にとって重要な意味をもつ存在であることを認めることである。

 他者に告発されたわたしは、法廷に立たされた被告のように、いかなる者にも「身代わり」を頼むことはできない。わたしが責任を負うことは、他者では代位できないことであり、ここでわたしは「選ばれた者」となる。この逆説的な「選び」の概念は、ユダヤ教的なものとしてだけでなく、倫理的なものとして考える必要がある。責任を負うことは、弟の面倒をみること、弟の人質となることであり、そこに「近さ」がある。そしてレヴィナスは、そこにはじめて自由の可能性が築かれると考える。

 これはいかにも逆説的な自由の概念である。人間が能動的に、あるいは主体の権能として自由であるのではなく、近さにおいて、受動的に責任を負うという受動性の極から、自由という能動性が可能になると考えるのである。この主体はすでに他者に対する負い目をおわされた存在であり、もはや志向性において事物を認識する権能としての主体から遠くかけ離れた場所に来ている。主体の核が分裂し、主体の中心に「灰と埃」(アブラハム)しか残っていないような主体。しかしレヴィナスは、ここから新しいアイデンティティが始まると考える。これは社会における個人の平等から考え始める政治哲学の対極にある考え方である。

★存在の彼方へ

 さて、それでは哲学とはどのような営みだっただろうか。世界の知解可能性を志向性という意識の構造に求めた認識の現象学は、レヴィナスが考える主体の受動性の極を明らかにすることができない。この受動性とは、無限に他なるものを求める欲望であり、自己を絶えず超越してゆく運動であり、意識の〈光〉の様態を嫌うものである。レヴィナスがここまで明らかにしてきたのは、これは責任であり、他者の身代わりであり、人質というありかたをするということだった。この運動は、存在の彼方へと赴く運動であり、存在論によっても把握することができない。

 レヴィナスにとっては、西洋の哲学の営みを代表する現象学と存在論という二つの理論は、人間の倫理的なありかたを明らかにする上では、役立たないものだった。しかしレヴィナスは、そのことで哲学を否定しようとはしない。哲学を否定するという行為では、「哲学をしないことも哲学である」というアリストテレスの言葉と、デリダの批判を免れることはできない。レヴィナスが試みるのは、哲学という知解可能性の一つの方法の根源に、もっと深い意味での知解可能性を模索することである。これがレヴィナスにとってのユダヤ教の意味であった。

 ユダヤ教とその聖典である聖書は、レヴィナスにとっては人間が他者との間で結ぶ関係について、認識と光の哲学とは異なる次元の知解可能性を教えるものである。レヴィナスがこれまで「責任」という概念で展開してきたのは、この新しい知解可能性であり、新しいアイデンティティである。

 これを象徴するのが「預言」という概念である。通常の預言という概念は、シャーマンのように、神が人間に憑いて語った言葉として考えられる。この預言の概念には、必ずしも未来の予言の意味を含まないが、レヴィナスの予言の概念には時間的な意味が含まれていると考えることができる。しかしそれは未来のことを予言するという意味ではなく、すでに過去において未来のことが「語られていた」のであり、それを未来において語り直すという意味においてである。

 わたしは責任を負った者として、他者の〈顔〉に顔を向け、そして他者に対して言葉を発する。挨拶という行為に象徴的にみられるように、言葉を発するという行為は、倫理的な行為である。しかし一度語られた言葉は、すぐにその倫理的な意味を失ってしまう。つねに言葉を語り直すことで、その倫理的な意味を再確認しなければならない。語られた内容は、つねに語り直されねばならないのである。

 レヴィナスは哲学という営みも、この語り直すという行為の一つであると考える。それは責任と倫理についての「語り」であると同時に、他者に対する倫理的な営みを実行することそのものでもある。だから哲学を認識と存在の理論に限定するのではなく、倫理的な営みとして考えるとすると、現象学や存在論を批判することは、そのままで哲学的な営みとなる。これはデリダが批判するような意味では、哲学や理性を否定することではないのである。これは語られたことをつねに語り直すという倫理的な性格をそなえたすぐれて哲学的な営みなのである。

 レヴィナスはこの文章では、『超越と知解可能性』と同じ観点から、哲学の批判の意味と倫理的な関係の意味を考察してきた。人間の倫理的な関係を考察することは、現象学や存在論などの哲学を批判することではあっても、哲学の営みそのものを否定することではない。レヴィナスにとっては、それはさらに深い意味での哲学であり、別の知解可能性なのである。