エマニュエル・レヴィナス「一神教と言語」
(中山 元訳)

 これは1959年の冬の講演記録Monotheisme et langageの全訳である。この文章は、"Difficile Liberte"(1963) に収録されながら、邦訳(『困難な自由』)には含められていない。これはレヴィナスにおける宗教と哲学の関係を考察する上で貴重な示唆を与える文章なので、ここに翻訳を掲載する。
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 ユダヤ人、キリスト教徒、イスラム教徒は長い間、歴史的に協力し続けてきました。それには、地中海の周囲に配置されてきたという地理的な近さがあり、世界のさまざまな地域に進出しているという共通性もあります。均質的な構造の現代の世界において、アナクロニズムを嫌うこの現代の世界においては、好むと好まざるとにかかわらず、事実としてユダヤ人、イスラム教徒、キリスト教徒の間に共同性が形成されているのです。深刻な誤解によって分離し、ときには対立することがあったとしても。

 好むと好まざるとにかかわらずです! しかしどうしてこれを「好まない」ということかありうるでしょうか。どうしてこの共同性が、それを構成する人々の〈意に反して〉成立するということがありうるのでしょうか。

 この霊的な家族はどれも、世界に普遍主義というものを教えました。その教え方について、時に意見の対立があったとしてもです。われわれの本質的な運命は、友人であることです。

 一神教は、〈神なるものの算術〉ではありません。それぞれの宗教が、歴史的な伝統の多様性を維持しながら、人間同士を絶対的に〈似た者同士〉として見るという〈才能=贈物〉であり、これはおそらく自然を超越したものでしょう。これは〈他なるものへの愛〉と人種差別への反対を訴える一つの潮流なのです。

 それだけでありません。これは他者に対して、会話に参加することを強制するものです。会話によって、他者はわたしと結びつけられるのです。これは極めて重要な点です。周知のようにギリシアの論理学は、人々の間の和合を確立しました。しかしそれには条件があります。対話の相手が話すことに同意する必要があります。相手を話に参加させる必要があるのです。プラトンは『国家』の最初の部分で、他者を議論に参加することを強制できる者はいないだろうと語っていました。そしアリストテレスは、沈黙する人間は、矛盾律の論理法則を永久に拒絶することかできるだろうと語っています。

 一神教とは、〈一なる神〉の言葉ですが、これはまさしく、聞かずにいられない言葉であり、応じずにいられない言葉です。これは会話に入ることを強制する言葉なのです。ギリシアの普遍主義は人間性のもとで機能し、人間性をゆっくりと統一へと進ませるものですが、これに対して一神教は世界に対して、〈一なる神〉の言葉を響かせたのです。わたしたちの目の前で、均質な世界が、恐れと苦悩において次第に形成されつつあります。この均質な世界はすでに、経済的な協力を通じた連帯を形成しているのですが、この連帯を促進したのは、わたしたち一神教徒なのです。

 この地球を通じて、人種と国家を通じて、連帯が事実として存在していますが、この連帯を形成したのは経済的な力の戯れではありません。実際はその逆なのです。一神教には、人々を互いに我慢のできる存在にする力があり、他者に応答させる力があるのです。そしてこの一神教こそが、連帯のすべての経済的な可能性を提供したのです。

 まず最初にイスラム教が、この人間性の構築の主要な動因の一つでした。その任務は困難で、壮大なものでした。はるか以前から、この宗教は、生まれの種族の範囲を超越しています。イスラム教は三つの大陸に拡がりました。そして無数の人種と国民を結びつけたのです。イスラム教は、普遍的な真理は局地的な特殊性よりも好ましいものであることを、誰よりもよく理解していました。タルムードのある寓話では、「聖史」の稀有な後継者の一人として、イスラムの象徴であるイスマエルの名をあげているのは偶然ではありません。この名前は、後継者たちが生まれる以前につけられ、明らかにされていたのです。これらの後継者が世界において果たす役割が、創造の業のエコノミーにおいて、永遠のもとに予見されていたかのようです。

 この[予見の]実現の偉大さと、統一の営みに対するこの神の協力は、すべての個々の統一の目的であり、その正統性の根拠なのであり、ユダヤ教はこれに従い続けてきました。ユダヤ教では最高級の詩人で神学者であるイェフーダ・アレヴィはユダヤ人でしたので、当然ながらユダヤ教にこの分野での最年長者としての権利を与えているのですが、それでも彼はアラビア語で文章を書き、イスラムの使命を称揚していました。

 この認識は、ユダヤ人と呼ばれる価値のあるすべてのユダヤ人において生き続けています。というのも、ユダヤ人の定義の一つは、現在における懸念と戦いのために、〈高きもの〉についての対話、すなわち人が人に語りかける言葉を始める用意のある人間であるということです。しかしとりわけ、ユダヤ人であるとは〈高きもの〉についての対話が、現時の戦いや懸念以上の決定的な重要性をもつ人のことです。ユダヤ人が最初のメッセージをもたらした任務を、かくも偉大な形で遂行した他の宗教の人々の中に、ユダヤ人のこうした素質が反響をみいださないということは、考えられないことです。

 このため、ユダヤ人学生が開催した会合において、すなわち聖職者と聖職にある方々が開催した会合において、イスラムについてのユダヤ教の姿勢を表明しながら、発言しようとするのです。中世にヨーロッパを通じて普及していたギリシアのテクストは、アラビア語に翻訳されたものを、ユダヤ人がさらに翻訳したものでした。わたしたちには、中世においてヨーロッパ文明に共通に貢献したという記憶が伝えられています。今日においても、外交辞令も修辞的な要素も抜きで、まだ言葉の力を信じられるからこそ、この記憶がわたしたちの気持ちを高揚させることができるのです。自らの契約を否認することなく、ユダヤ人は言葉に対して開かれ、真理の効率の高さを信じているのです。

 敬虔な誓いと高邁な言葉ですね! この苦悩する世界において、だれもが言葉を失っていること、もはや誰も言葉を信じることができないことは、わたしも認識しています。言葉を失ってしまうのは、発言を始めた人が、同時に自分の語る内容に背いてしまうのを目撃せざるをえないからです。対話者たちを精神分析と社会学が狙っているのです。神秘を否認しながら、ふたたびなにかを神秘化しようとするかのようです。

 しかしわたしたちユダヤ人、イスラム教徒、キリスト教徒、わたしたち一神教徒は、呪縛を破るためにここにいるのです。真意を歪める文脈から身をもぎ放す言葉を語るために、言葉を語るものにおいてふたたび始まる言葉を語るために、身を聳えたたせる言葉、身を振りほどく言葉、預−言としての言葉を語るために、ここにいるのです。

Copyright 1996, Gen Nakayama