メディアと身体の問題圏――今号特集をめぐって
(中山 元・二木麻里・内浦 亨)


■はじめに
【内浦】 今号の特集は「メディア――越境する身体」です。あらためて掲載論文や翻訳を読みなおしてみると、非常にさまざまな問題系に接続できるテーマであることが実感されました。そこで、一編一編を振り返りながら、問題の射程を整理していただければと思うのですが。
【中山】 今回の特集で興味深かったのは、メディアからみるか、身体からみるかという最初の視点の違いはあっても、どちらも必ず通じあうところがあるということでしたね。それはこの二つがぼくたちが社会の中で生きるための条件のようなものになっているからだと思います。ぼくたちは自分のことを〈主体〉であると思っている。しかし実は身体であることでしか主体であることができない。そして社会の中で、さまざまなメディアを使うことで、初めて身体としての主体であることができるということだと思うのです。だからこの視点からみることで、さまざまな問題にたどりつくことができるのですね。
【二木】 伝統的な心身二元論を脱する観点で興味深いですね。身体にはフレーム、主体、メディアという三点がすべて重なることになります。内浦さんも今ふれていらっしゃいましたが、メディアはほんとうにさまざまな定義が可能な概念ですね。今回はその多様な問題系を論じようという最新の学際的アプローチ、メディオロジーもとりあげられていて楽しみでした。

■メディオロジー
【内浦】 ではまず、小特集「メディオロジー」からお願いします。「メディオロジー」といえば、最近NTT出版よりレジス・ドゥブレの著作集が刊行されたり、「現代思想」誌で特集が組まれたりと、にわかに話題になっている分野ですね。中山さんは今回原さんとともに、ドゥブレ「四つのMの物語」(p.16)を翻訳されましたが、どのあたりに関心を抱かれましたか。
【中山】 メディオロジーというのは、フランスで始まった新しい学問分野ですが、実はドゥブレも言っているように、すでに先史学を含めた歴史学、人間学、社会学、文化人類学、技術史などのさまざまな学問分野で達成されてきた成果を、メディアという視点からもう一度捉え直そうという試みだといえると思います。
【内浦】 いわゆるメディア学といったものではないとドゥブレは言っているようですが、センセーショナルな新学問というわけでもない……。
【二木】 「新」とはなにか、「学問」とはなにかを考えさせられるご質問ですね。二〇世紀にはいわゆる学問の各分野がきわめて細分化され、それぞれの小領域内でともすれば、思考の方法論さえ等質化されてきたようにみえました。メディオロジーはその世紀の終わりに、あらわれるべくしてあらわれた切り口という期待感がわたしなどはあります。学問界ひさびさの大型企画(笑)といいますか。
【中山】 そうですね。このドゥブレの論文「四つのMの物語」は「カイエ・ド・メディオロジー」誌のメディオロジー特集号に掲載されたものですが、メディオロジーのスタンスをとてもうまく表現していると思います。ドゥブレが説明している試みは、とてもおもしろいと思うし、ぼくは好きですね。実はフーコーの道具の考古学の試みは、メディオロジーとつながるところがあると思います。ドゥブレは神に祈っている人間の像からは、時代はまったく見当もつかないが、チョッパーをもっている人間の像からは、時代をすぐに特定できるといっています。フーコーも同じように、ある時代に一つの道具が使われるようになるためには、どのような歴史的な条件が必要となるかを探ろうとしていました。たとえば哺乳器です。子供を抱く母親の姿からは、歴史を特定することはできませんが、哺乳器をもつ母親が初めて登場する時代は、ほぼ正確に特定できます。哺乳器が可能になるためには、人間が子供、母親、子供の養育についてどのようなまなざしをもつ必要があったのかを歴史的、哲学的、社会学的に分析するのが、哺乳器の考古学です。これはメディオロジーの方法と根本的に通いあうものだと思います。
【二木】 ブルデューのハビトゥスとも共通していますね。あの概念は、人間が社会の中で生きるためには、社会の中で身体化したものとして蓄積されている「制度」のようなものが必要だという考え方でした。そうしたものなしでは、わたしたちは行動することもできないと。
【中山】 そうですね。ほかにもメルロ=ポンティの「制度」という概念、和辻哲郎の「風土」という考え方、これらはどれも人間が社会のうちで主体として生きるためには、実は客体化された身体として存在しなければならないことを示したものです。メディオロジーもさまざまな技術的な側面から、この問題にアプローチしようとするわけです。
【内浦】 メディオロジー的研究にはいろんなアプローチがあるようですが、原さんの「シュポール/シュルファス――ジャック・デリダとレジス・ドゥブレの痕跡」(p.46)は、デリダとドゥブレの「痕跡」概念を手がかりに、メディアの物質性=身体性を徹底的に捉えなおす試みとなっています。
【中山】 原さんも引用しておられるように、デリダは「カイエ・ド・メディオロジー」誌の四号で「紙の時代」について語っています。人間が紙を使うようになってから、まだそれほど長い時間がたったわけではないのですが、ぼくたちは紙なしでは生きられない状態です。デリダが指摘しているように、ぼくたちの身元を保証してくれるのは、一枚の紙で、紙がなくなったら、現在では自分がだれであるかを証明することは困難ですね。海外にいっても、ぼくたちの安全を保証してくれるのは、パスポートという数枚の(笑)紙です。
【二木】 Vos papiers, s'il vousplaitと言われますね(笑)。「あなたの紙をどうぞ」、つまり「身分証を拝見」です。見せる紙がないと警察に連れていかれたりします。
【中山】 こわいですねえ(笑)。そういう意味では、ぼくたちは「紙の専制」のもとにあるわけです。ぼくたちは自分がメディアという「支持体」にどれほど規定されているかについて、これまであまりに無自覚だったと思います。ぼくたちの身体も認識も、メディアによって作られているという面が大きいのです。
【二木】 ヒトゲノム解析が終盤にきたというこの夏の発表を思い出します。身体も認識も、紙のつぎはデジタル・データに規定されるのでしょうか。「支持体」はメディオロジーの重要な概念ですね。それから「痕跡」。デリダの痕跡の概念は、言語学において記号や文字や、テクストといった物質性が軽視されてきたことのなかに、西洋の古くからの形而上学における伝統を見出そうとするものだったと思います。とてもおもしろい考えでした。ドゥブレの「痕跡」は、これとどうちがうのでしょうか。
【中山】 デリダの文脈では、主体も客体も、痕跡という「差延」のうちではじめて可能になるということですよね。原さんの論文は、このデリダの「痕跡」の概念をドゥブレの「痕跡」の概念と結びつけて考えようとする意欲的な論文ですね。ドゥブレはテクストでなにが言われているかよりも、テクストの「痕跡」を支えている支持体の方に注意を向けるわけです。
【二木】 するとがぜん物質が重要になってきますね。注目すべき対象がぐるりとひっくりかえる印象です。
【中山】 そういうことです。アルファベットでなにが書かれているかよりも、アルファベットの使用が西洋の文明をどのように変え、規定していったかを考えようとする。ぼくは「メディオロジー的転回」は必要だし、とても豊かな成果をもたらすものだと思います。
【内浦】 そうですね。ところで原さんは今回の論文での論証を実証するため、大がかりな実験を予定されているようです。「痕跡」を扱うための実験というのが一体どのようなものなのか、非常に楽しみですね。
【二木】 「メディアと支持体2001」という実験ですね。被験者を募っておられました。それからスポンサーも。ご成功を祈ります(http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/5693/jikken.txtを参照)。
【中山】 うんうん。どんなものか、わくわくですね。
 ところでぼくたちはインターネットという場の交流から、こうして紙の媒体にたどりついたのですが、今号では紙の媒体に掲載するために、論文をインターネットで募集するという方法を実験してみました。今回は残念ながらポリロゴスの編集方針から判断して、該当作なしということになりました。それでも応募された四名のうち、三名の方には、「論文を読む会」(通称corpora)というメーリングリストに入っていただいて、ポリロゴスのメンバーとの間でさまざまな議論と討議を行いました。一人の方はメンバーの意見に応じて論文を書き直されたほどです。紙の媒体に掲載するためにインターネットを利用し、それがまた紙の媒体へとつながれていく。これはひとつの実験ですね。原さんの実験もそうですけど、ぼくたちの実験はあるいは数世紀後には、紙とインターネットの媒体の相互的な関係のメディオロジー的な研究の材料になるかもしれない(笑)。
【内浦】 そうなるとよいですね(笑)。私も読み手として参加させていただきましたが、媒体間の相互関係というだけでなく、書き手と読み手との間の相互批評の場としても非常に充実した場だったと思います。
【二木】 書く側と読む側が直接議論を行うのはきわめてめずらしい試みで、わたしはたまたま読む側として参加させていただきましたが、おそろしく学ぶことの多い場でした。書き手のかたにとって、みずからの論を批評検討の場に身を置くのは厳しいものであったにちがいないのですが、どなたもじつに立派な実り多い討論を展開されました。ご参加に心からお礼を申し上げます。

■キルケゴールのメディア、ベンヤミンのメディア
【二木】 メディオロジー小特集につづいて、それぞれ独自の切り口によるメディア論あるいは身体論が掲載されていますね。これがまことに個性的です。
【内浦】 中塚さんの「キルケゴールの伝導体」(p.100)は、キルケゴールその他を自在に引用しつつ、それ自体がまさに伝導体としての文章というような……。その中で「翻訳」のテーマをめぐって、ベンヤミンが援用されます。このあたり、山口さんの「モザイク的思考、あるいは文字の画像化――メディア理論のコンテクストにおけるベンヤミン」(p.114)も絡めて、どういった問題系を引き出すことができるでしょうか。キルケゴールもベンヤミンもメディアと身体の関係を考える際、不可欠な思想家だと思われますが。
【中山】 中塚さんの伝導体という概念はおもしろいですね。というか、伝導体という概念を中心に、さまざまな著者たちのさまざまな概念を、磁石のように引き寄せてくる手つきがおもしろいと思います。その中ではとくに、翻訳を「王者のマント」と語ったベンヤミンがぼくは好きですね。
【二木】 あれは印象的でした。中山さんが今年上梓された『思考の用語辞典』(筑摩書房)の「翻訳」の項に解説がでてきましたが、裏切ることによって豊かになるというイメージがすばらしいと思いました。翻訳前の原作の段階では、内容と形式は一体化しているとベンヤミンはいうのですね。翻訳はオリジナルの言語というもとの衣服をはぎとり、それにべつの衣服をかぶせてしまう。けれど、このあたらしい衣服は王様のマントだと。ふわりとマントをはおって、王者の聖なる身体はくつろぐ。わたしはずっと、翻訳は言葉をつたえる僕というか、使徒のような姿と思っていたのですが、それとはおよそことなるイメージが斬新でした。
【中山】 使徒であるというと、たとえばデリダの訳者はデリダの使徒となっているみたいで変ですけど、翻訳が、原テクストがあって、それを裏切らずに忠実に別の言語に移すのではなく、新しいものを作り出す営みだという意味では、神の言葉を何度でも新たに語り続ける使徒と似ていないわけではないと思います。翻訳においては、翻訳者の夢と物語も同時に語られるといったらいいでしょうか。
【二木】 ……物語としての翻訳ですか? アレントの物語の概念のような?
【中山】 そうですね。人間が自分の一生をみずから認識し、他者に認識させるためには、物語を語らなければならないとアレントは指摘していました。ひとの一生は物語においてしか 「識る」ことができないと。みんなが自分の物語を語り、それが大きな物語として紡がれることで歴史が作られていく。すると、歴史というのは物語の痕跡の集まりだということになりますね。
【二木】 その「痕跡」は一見わかりやすいようで、実はむずかしい。もう少し説明していただけますか。
【中山】 たとえば山口さんの論文でも指摘されているように、この痕跡を読み解くことが、アレゴリーの営みですね。アレゴリーとはあることにかこつけて別のことを言うことですが、ベンヤミンは、人々の物語の痕跡を空間のうちに読み取れると考えたのでしょう。ぼくは照明の歴史に関心をもったことがありますが、街路がガス燈で照明されるためには、いったいどのような社会と歴史の条件が必要となったのか、パサージュが生まれるためにはどのような物語があったのかを考えるのは、まさにアレゴリーの営みですし、道具の考古学とメディオロジーの営みだと思います。ベンヤミンの『パサージュ論』や『ボードレールにおける帝政期のパリ』などは、メディオロジーの論文としても読めると思います。
【二木】 ああなるほど。そうしてみると、ベンヤミンはやはりたいへんなひとですね。一度離れて他をさまよって戻ってくると、より深くそう感じます。『複製技術時代の芸術作品』も、メディアのもつ意味を深いところで考察した先駆的な論文で、あまりにもよく引用されますが、わたしはインターネットなどのデジタルメディアをさまよって戻ってきた時、ようやくあのすごさが少しわかった気がしました。
【内浦】 キルケゴールはいかがですか?
【中山】 伝達の不可能性のうちにコミュニケーションの可能性をみたキルケゴールの「間接的伝達」の概念はするどいと思います。彼の「躓きの石」という概念は、逆説的な弁証法そのものでありながら、ジャーナリズムという新しいメディアに対して、もっと別なメディアの可能性を探るもののようにみえます。基本的に一対一の関係を一対多と多対一の関係に転回したインターネットというメディアを、キルケゴールだったらどう評価するかとか、考えてみるとおもしろいですね。

■メディアと従順な身体、反抗する身体
【内浦】 野村さんの「アジアにおける身体リズムの改造――平均寿命延長のためのメディア戦略」(p.139)では、アメリカニズム=文化帝国主義を実現する身体改造手段としてのメディアが分析、批判されます。また、清水さんの「身体の近代――消費社会における都市と学校の身体、そしてスポーツ」(p.158)でも、日本近代における体育教育を通じた身体改造が戦争と結びついていくさまが、細かに描写されていました。
【中山】 野村さんと清水さんの論文は、メディアと身体の問題を考える上で重要な視点に立っていますね。明治以降の日本人の身体がどのように形成されていったかというのは、『監獄の誕生』のフーコーの指摘を待つまでもなく、ぼくたちにとっては必須の問題ですが、清水さんはスポーツという視点から、日本人の身体の改造がどのように行われていったかを考察したものです。江戸時代の日本人は行進することもできなかったとよく言われますが、集団で行動することを教え込むことが、兵舎でも、学校でも、工場でもいかに重要な課題であったかは、よく想像できることです。
【二木】 近代日本において従順な身体とはどのようなものであったのかは、これからの大テーマと思います。明治以前は身体検査、身体測定という概念もなかったわけですが、そもそも優生学や、その理念にもとづく身体測定は、発祥地のイギリスでも一九世紀後半に生まれたものです。日本はいきなり当時の「最先端」の手法を自国に移植してしまうのですね。
【中山】 日本の資本主義の成功は、この近代における日本人の身体改造にかかっていたといっても間違いではないと思います。その意味でぼくたちの身体と、この身体に埋め込まれたふるまいの作法は、明治以来の数世代をかけて作られた作品(笑)といえるわけです。
【二木】 おじぎしながら同時に握手したり(笑)。和洋混交の所作なども、分析したら興味深そうです。
【中山】 はは。清水さんの論文は、この労働する身体、学ぶ身体、戦う兵士の身体を分離することはできないことを、具体的な資料を引きながら説き明かしてくれます。とくに興味深いのは、この身体は同時にスポーツする身体、ダンスする身体でもあったということですね。
【内浦】 なるほど。そして野村さんの論文は、この労働する身体がアジアにおいてどのように実現されるかを探るものです。
【中山】 日本ではすでに身体の記憶になってしまっているプロセスが、アジアの諸国において、メディアを戦略的な手段としていかに実現されるかというのは、興味深いテーマですね。野村さんはマスメディアで作り出される生活スタイルの幻想が、労働から消費へと連鎖する近代的な生活様式を埋め込むために戦略的に使われていることを指摘しています。消費を増やすには平均寿命を延ばすのが効率的な戦略だという指摘も、もっともだと思います。消費の習慣のついた身体は、資本主義の社会にとって貴重な財となるわけです。経済学、衛生学、人口統計学は、最初から手を取り合ってきたのですよね。
【内浦】 一方、小倉さんの「サイバースペースにおける闘争と『主体』」(p.173)では、インターネットをはじめとしたデジタル・メディアのもつ両義的な作用が分析されています。つまり、一方で主体を資本の論理に巧妙にとりこんでしまう側面がありながら、なおかつそれに対する闘争の可能性を組織するということですね。このようなメディアの両義性は、一体どのように考えればよいのでしょうか。
【中山】 そうですね。小倉さんの論文を読んで改めて考えさせられたのは、インターネットというメディアのもつ両義的な意味ですね。インターネットのマイナスの側面については、ヴィリリオがさまざまな視点から警報を鳴らしているのですが、それではインターネットのもつ危険性を強調し、それから離れていればいいのかというと、それではぼくたちを締め付けるものの力が強まるのを手をこまねいてみていることになります。小倉さんの論文は、インターネットがぼくたちのための手段となる可能性について、何度も考えさせてくれます。

■アントナン・アルトー
【内浦】 湯山さんの「失われた身体を求めて――共感覚はメディアをアレンジメントする」(p.194)では、アルトー、そしてドゥルーズにおける重要な概念である〈器官なき身体〉をめぐって、「共感覚」という機能が再検討されます。医学論文などもとりいれた刺激的な論考でしたが。
【中山】 湯山さんのこの論文はさまざまな問題を考えさせる刺激的な文章ですね。盲人と視覚と触覚の関係の問題は、近代の経験論では重要な問題となり、モリヌークス問題といわれる重要なテーマ系を形成しました。そして奥行きをみることができるということ、ものをみてその対象が網膜の像でありながら、ぼくたちはそのものを奥行きのある空間に配置するということの謎が考察されました。人間の行動の可能性はこの奥行き認識にかかっているし、視覚的な認識は人間の行動の経験に基づいているわけです。だからこの身体の共感覚の問題はとてもおもしろいテーマだと思います。
 それと、ギブソンはアフォーダンスという概念で、人間の空間認識と身体の関係を考察しましたが、ぼくはこの問題は人間の〈器官なき身体〉の問題であるとともに、ぼくたちを貫いて成立している社会的および風土的な身体の問題だと思っています。メルロ=ポンティはそれを「肉」という概念で表現しようとしたのですが、他者とのコミュニケーションもこうした大きな身体の存在を考えないと、なかなか理解しにくいものだと思います。
【内浦】 手話やオノマトペについても取り上げられていました。
【中山】 そうですね。たとえばオノマトペと痛みの問題もおもしろいです。外国にいって医者にかかってこまるのは、痛みの性質をうまく言えないことだという話をきいたことがあります。患者がたとえばキリキリ痛むとか、むかむかするとかいう語るオノマトペの表現は、医者にとっては大事な診断のための手段です。外国では言葉の壁があって、なかなかうまく言えないとか。手話におけるオノマトペでは、メディアとしての言語がついに身体と同じものとなるという指摘には、考えさせられました。
【二木】 さきほどの日本近代論とつながってきますが、オノマトペは翻訳上でも大課題ですね。おそらくもっとも身体的な言語表現のひとつで、抽象概念から非常に遠いところにある。
【中山】 翻訳できない(笑)。
【二木】 翻訳できない。そしてその身体と言語の間にあった紙一重の乖離を、手話によるオノマトペはとりのぞいてしまうというのですね。湯山さんの論文のスリリングな箇所のひとつでした。
【内浦】 さて、中山さんは今号で小特集「アントナン・アルトー」を担当されました。アルトー本人の作品のほか、フーコー、ブランショ、ドゥルーズの関連テクストを訳出、掲載しましたが、これらについては中山さんによる詳細な解説と論考「道化、木乃伊、舌語――アルトーの西洋文明批判」(p.257)がありますので、ここでは簡単に振り返っていただけますか。
【中山】 ドゥルーズはアルトーからこの〈器官なき身体〉の概念をもってきたのですが、アルトーは詩において、演劇において、映画において、メキシコの儀礼において、そして病においてまでも、メディアと身体の関係を生きていたのだと思います。アルトーの身体に、西洋の文明のもつ根本的な歪みが集中するような印象があります。アルトーは大きな欠落、大きな謎のような存在です。今回の論考ではアルトーの西洋文明批判に重点をおいて、メディアと身体の問題はあまり取り上げられなかったのがちょっと残念です(笑)。

■おわりに
【内浦】 あと、「リソース探検――メディアと身体のリソース100」(p.274)は、現在インターネットで読めるさまざまなリソースと論文を約百件、この二つのテーマを軸に集めたものです。これは中山さんのサイト「ポリロゴス」(http://nakayama.org/polylogos/media-resources.html)でも、リンク集として掲載してありますので、本書とあわせてぜひご活用いただければと思います。
 また、二木さんの「豚飼いと洗濯女と、サーチエンジンが歌う朝」(p.135)は、インターネットのサーチエンジンがもたらす世界観を〈言語球〉としてとらえ、それがわれわれの思考に及ぼす影響について書かれたエッセイです。これらはインターネットの現在の可能性をうかがうものとしても、これからのインターネットの方向性を示すものとしても読むことができるのではないでしょうか。
 以上、ざっと今回の掲載論文やエッセイ、翻訳などを振り返ってきましたが、メディアと身体をめぐっては、すぐれて現代的な問題が含まれているのですね。それと今回、特に単独では取り上げられなかったにも関わらず、やはりフーコーが重要なポジションを占めていることが分かりました。今日取り上げたすべての問題系に関わってきそうですね。
【中山】 ほんとにそうだと思いますね。今回の論文で示されたさまざまな視点は、まだまだ広げて、深めていくことができると思いますし、また関連したテーマで掘り下げてみたいなと考えています。
 あと、次の号の特集ですが、〈ドゥルーズ、デリダ、レヴィナス〉という三人組(笑)を考えています。刺激的な思考を展開する三人の思想家について、次の号でもぜひ皆さんの論文をお寄せいただきたいと思います。
【二木】 横綱三人、揃い踏みですね。だれか一人でいいのですよね?(笑)
【中山】 はい。もちろん巴戦でも歓迎ですけど(笑)。というわけで、よろしくお願いします。
【内浦】 ありがとうございました。