人種のディスクール
−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義
『社会を守れ』(四)
(中山 元)


★人種の戦いのディスクールの位置[1/28-2]
 伝統的な歴史のディスクールに対抗するこの反歴史のディスクールは、まずそれまでの中世のローマ的な伝統に対する異議の申し立てという形を取った。フーコーはここでデュメジルの神話論に依拠しながら、インド=ヨーロッパ語族とローマの社会構造が、主権者の第一機能、戦士の第二機能、繁栄と豊穣の第三機能に分割される形で形成されていたとすると、新しい歴史のディスクールはこのような三分法ではなく、「われわれ」と「彼ら」という二分法で形成されていることを指摘する。主権者と臣民、富んだものと貧しいもの、侵略者と被征服者との対立が、それまでの安定した社会構造を転換させる批判的なディスクールを持ち込むのである。

 フーコーはここにおいて、インド=ヨーロッパ語族の歴史性の終焉が始まると考える。これは中世のかなり遅くの時期まで続いていた「ラテン中世」的な伝統概念の終焉であり、生き延びた古代の終焉でもある。フーコーはローマが中世のヨーロッパの隅々にまで浸透した「水路」のようなものだったと、興味深い比喩を述べている(SOC:65)。そしてこの水路を溯ると、ローマにたどり着くのである。中世社会におけるローマ法の伝統から考えてもわかるように、ローマは歴史的に過去ではなく、生ける歴史であり、生ける過去だったのである。


 この反歴史性のディスクールを象徴するのが、「人種の戦い」のディスクールだった。これによってヨーロッパは、ローマのラテン的な伝統の衣を脱ぎ捨て、新しい時代に突入するのである。フーコーはこのディスクールについて、いくつかの注意点をあげている。

 まず第一に、このディスクールが被征服者による主権批判のディスクールだと考えるべきではないことである。このディスクールはさまざまな戦略のもとで、さまざまな主体によって語られた。このディスクールが批判と攻撃のディスクールという性格をそなえていたとしても、それはさまざまな方角に向かって展開されたのであり、さまざまな相手を批判の対象としていた。王権が他の王権を批判する際にも、貴族が国王を批判する際にも、大衆が既存の権力を批判する際にも、この同じディスクールが活用されることになる。
 第二は、この「人種」という概念を生物学的に考えてはならないことである。この人種という概念は、生物学的なものよりも、歴史的および政治的な伝統において、社会に成立した対立関係を名指すために使われた。この対立するグループは、言語や宗教が異なる場合があり、起源が異なる場合があり、それまでの歴史的な経緯が異なる場合がある(この状況については、セルビア内戦の状況が、新しい人種の誕生の自覚の経緯をうかがわせて興味深い)。

 第三に、この人種の戦争のディスクールは、ローマの普遍主義的にディスクールに対して、聖書的な被征服と隷属のディスクールを対置した。そしてそれぞれのディスクールにおいて、主権と普遍性のディスクールとは異なる知が形成された。フーコーは、この知が主権の知とは異なる王国を形成したのであり、これが単に主権の理論の「批判的な」機能だけを果たしたと考えるべきではないことを指摘する。貴族が王権を批判した際にも、第三身分が貴族や王権を批判した際にも、あるいは歴史性と新しい知の領域が形成されることになる。

 第四に、近代の革命のディスクールは、ローマ的な普遍主義からではなく、この「人種の戦い」のディスクールから誕生した。十七世紀のイギリスの市民革命も、フランス革命も、こうした反歴史的なディスクールから誕生したことに不思議さを考えるべきだとフーコーは指摘する。こうした革命のディスクールは、歴史的に知と伝統に対する反逆の意志に支えられていることになる。

 マルクスのWeydemeyer宛ての書簡に示されているように、マルクス主義の革命論も、フランス革命において展開されたティエリーなどの「人種の戦い」のディスクールを根拠としているのである。マルクス主義の「階級闘争」論は、「人種の戦い」のディスクールに依拠しているというのが、フーコーの診断である。これはマルクス主義の民族論を考える場合に、興味深い視点だといえよう。

★生物学的な純粋性のイデオロギー[1/28-3]
 さて、フーコーが指摘するように、この人種の戦争のディスクールは、国家を批判する機能をもちながら、次第に生物学的な純粋性を維持するために、国家を利用するディスクールに転換していく。ここに「人種差別主義」が誕生するのであり、この経緯がこれからのテーマとなる。「人種差別主義は、文字通り革命的なディスクールである。ただし、その方向が逆転しているだけである」(SOC:71)。

 そのために人種のディスクールが利用したのが、医学的な正常性の概念であり、人種の純粋性の概念であった。この問題については、この講義ではあまり展開されないが、このテーマがフーコーの初期の問題意識につながっていることを指摘しておきたい。フーコーは最初期の『精神疾患とパーソナリティ』の頃から、心理学や医学がもつ「正常性」の概念に、非常に強い警戒心を維持してきたからである。

 この講義では、この問題はソ連の精神医学の問題として触れられている。人種の戦のディスクールが国家を自らの庇護者として考えるようになった時点で、二つの典型的にディスクールが誕生した。一つはナチスのディスクールであり、もう一つはこれを裏返したソ連の精神医学のディスクールである。

 ナチスのディスクールについては、この講義でさらに詳しく展開されるが、このディスクールは、生物学的な純粋性を維持するために国家の力を利用するものであった。一方では、ソ連の公式マルクス主義のディスクールは、社会主義体制を維持するために、医学的な正常性の概念を活用していた。ソ連の体制に異議を申し立てるものは、階級の敵であり、精神疾患者であり、狂者であるというのが、ソ連の公式的な見解であった。

 『精神医学とパーソナリティ』の解説でも触れたが、この時期にフーコーはソ連の精神医学の抑圧的な性格について繰り返し指摘している。ソ連の「社会主義」と呼ばれた体制にとっては、こうした批判者は、生物学的に「異常」なのであり、こうした異常者は特別な施設に監禁し、矯正しなければならないとされていた。

 ナチスでは人種的な純粋性を保護するために人種的な国家権力が発動され、ソ連では体制批判を封じるために、医学的な国家権力が発動されるのである。フーコーは、これらの「全体主義」的な権力の論理とディスクールが、近代の市民社会の国家論と、ある親近性のあるものであると考えているのであるが、そのために必要だった諸前提について、この講義では展開されることになる。

 この生物学的な純粋性の概念が、「多民族」国家において、いかに破滅的に利用されうるかという問題は、ユーゴ内線の経緯において如実に示されている。また、こうした純粋性の希求が、日本の皇道主義をはじめとして、「ナショナリズム」のイデオロギーを涵養するひとつの源泉となっていることも忘れるべきではないだろう。

★表象としての戦争[2/4-1]
 すでに指摘されたように、近代の国家形成期の社会契約論において、戦争があたかも悪夢のようにつきまとっていた。社会が可能であり、国家が誕生するためには、「万人の万人に対する戦い」が想定され、呼び求められ、ついで排除されていたのである。この悪夢は、国家の形成のあとにも「脅威」としてつきまとう。フーコーはホッブスのテクストに何度も立ち戻りながら、近代国家の形成とその戦争のディスクールの関係を考察しようとする。

 まずフーコーが最初に提起する問いは、国家に先立ち、国家が自らの前史に追いやり、神秘的な国境へと追いやるこの戦争のディスクールと、国家の関係はどのようなものかということである。第二の問いは、この戦争(のディスクール)が、国家の形成をどのようにして可能にしたかということである。

 まずホッブスの理論においては、この戦争は力の強い者が弱い者に対して行う戦争ではなく、平等な者たちの間の「死闘」として提起されていたことを思い出す必要がある。ヘーゲルの『精神現象学』の主と奴の戦いのように、どちかが勝つか、わからない平等な個人の戦いであり、存在する差異は個人の生物学的な差異だけであり、これも克服可能なものとして想定されているのである(強い者も眠れば、弱い者に殺されてしまう)。

 ホッブスの理論では、最初から明確な差異が存在すれば、戦争は阻止される。戦争が可能となるのは、弱者も自分が勝てる可能性があると思うからである。「差異は平和をもたらす」のである。十全な差異が存在せず、しかもわずかな差異が自然に存在する自然状態では、弱者はあきらめずに絶えず強者の隙をうかがい、強者は自分の地位に安心できず、弱者をつねに疑い続ける。

 このいわば個人の間の冷戦状態では、真の平和は訪れず、各人はつねに自分が戦に頼る用意があることを示しながら、その抑止力によって、他者からの攻撃を防ぐことになる。狡猾さや他者との同盟により、だれもがいつでも強者になりうるし、だれもがいつでも弱者に転化する可能性がある。その中では、戦の抑止力が戦を防ぐために必要であり、その抑止力が戦をつねに臨在させている。

 フーコーはこの抑止力の世界が、現実の戦いの世界ではなく、「表象の劇場」であることを指摘する。実際に戦っている人はだれもいないのであり、人々は他者の戦う意志を表象しながら、他者も相手の戦う意志を表象していることを期待しているのである。
   人々は、相互的な表象の劇場にいる。人々は恐怖の関係にあるが、こ
   の関係は時間的に無限定であり、現実に戦争のうちにあるのではない
   (SOC:79-80)。

 この自然状態では、人々は戦争をしているのではなく、たんに表象された「戦争状態」のうちにあるにすぎない。しかしそれではこの表象された相互的な戦争の状態から、国家の主権はどのようにして可能になるのか。

★ホッブスの二つの主権モデル[2/4-2]
 現実に戦争は戦われない、あるのは、戦の表象だけである。それなのになぜ主権が成立し、国家が誕生するのかという問いに対して、ホッブスは二つのカテゴリーの主権を区別していることを、フーコーは指摘している。一つは設立による主権であり、もう一つは獲得による主権である。

 この設立による主権の概念は、ホッブスが絶対主義的な王権を正当化するために利用して論理として、『リヴァイアサン』の代表的な政治理論としてよく知られている。人々はだれも他者を力で圧倒するほどに強者ではない、しかもだれもが同じではなく、人々の間に差異がある。その差異から他者を支配しようとする欲望と、他者に支配される懸念が忍び込む。これは人々の権力への欲望と恐怖が育まれ、展開される舞台である。

 欲望と恐れの表象さえ最初にあれば、この設立による主権は誕生する条件を備えている。人々は、他者に支配されないために、自ら支配する欲望を抑え、ある強力な第三者に主権を委ねるのである。人々の間の差異が小さいために、こうした欲望と恐れが生じるのだから、この第三者はできるだけ人々と隔絶した存在であり、強力な主権者として、人々の間での支配の欲望を根絶するような存在であることが望ましい。それがホッブスの場合には、君主として登場するわけである。ここには、「意志と協約と表象の戯れしか存在しない」(Soc:81)のである。

 しかしフーコーが『リヴァイアサン』と『市民について』の書物で重視しているのは、ホッブスがさまざまな表現で提示したもう一つの主権の概念、「獲得による主権」のほうである。この主権の成立過程は、設立による主権のような表象の舞台においてではなく、現実の歴史的な世界において、現実の「戦争」として展開される。

 この戦が戦われるのは、現実に存在する二つの国家の間であるので、ホッブスの理論体系では、「設立による主権」が成立していることが、この「獲得による主権」が可能となる条件と考えることができるだろう。ここには、自然状態から演繹された近代の国家像と、歴史的にすでに存在していた伝統的な帝国と国家の像との奇妙な錯綜がみられるが、ここではこの問題にはふれまい。

 ホッブスの理論で重要なのは、すでに存在していた二つの国家が現実に戦火を交え、片方の国家が他方の国家を圧倒することである。国土は敵の国家によって征服される。征服された国家の臣民は、敵国の意志に従わざるを得なくなる。ここでヘーゲルが『精神現象学』で展開した主奴論と同じような状況が発生する。

 征服者が征服した民を殺戮してしまえば、問題は生じない。しかしそれでは国家の征服ではなく、領土の拡張になるだけであり、征服した国家にとってそれほど有益なことではない。そこで、征服された民が生存を許されたとすると、原則的に二つの事態が可能となる。征服した国家を打倒するために立ち上がり、もう一度(多分最後の)生命を賭けるか、征服した国家の中で、貢ぎ物をしながら、征服した国家のために生きるかである。

 ホッブスは、ここで協約による主権とは別の主権が誕生することを指摘する。征服された民は、敵の国家の打倒ではなく、自分を征服した国家のために生きることを選んだのだから、征服された民は、この敵の国家の一員となることを選んだのであり、この国家を主権として認めたことになる。

 この主権は、協約による設立の主権のように、表象の舞台だけで形成されたものではなく、生命を賭した戦いの結果として、自らの命を守ろうとした敗者が、生存のために承認した主権である。ここで働いている原理は、表象ではなく、恐怖である。

 イギリスの国家が、ノルマン・コンケストの結果として誕生したことを考えること、ホッブスがここで歴史的な国家の成立の経緯を考えているのは明らかだろうが、ここで興味深いのは、ホッブスがこの獲得による主権に、これとは異質な別の主権モデルを提示して考えていることである。普通の政治哲学の理論では、これは獲得による主権のモデルに含められるが、フーコーはそれを分離して、母親モデルと呼んでいる。誕生した幼児が母親(と父親)に従属する、母親の意のままになることは、一つの主権の状態が成立しているとホッブスが考えていたことに注目するのである。

 ホッブスは、ここでも基本的な原理が恐怖であると考える。幼児は、自分の死の恐怖のための母親の主権に従うとされているのである。ホッブスは、この母親の主権と獲得の主権は、いずれも死の恐怖に直面した弱者のやむをえざる選択という意味では、同じ性質のものだと指摘している。

 幼児と母親の関係が、征服者と征服された民の関係と同一だと考えるのは、いかにもホッブスらしくておもしろいが、ホッブスがこの幼児の例を出したのは、ロックの批判したような国王を父親と同一視するようなフィルマー流の王権神授説の理論を擁護するためというよりも、対立する二つの主要なモデル、すなわち設立によるコモンウエルスと獲得によるコモンウエルスにおいて共通して働いている原理を取り出すためだと考えることができるだろう。

 一見するとまったく対立するようにみえるこの二つの主権の原理は、幼児が死の恐怖に駆られて(とホッブスは考える)泣き叫び、母親の援助を求め、母親の主権に服従するのと同じように、恐怖をもった主体の意志によって合意のもとに成立しているという点で共通していると考えるのである。
  協約の場合でも、戦の場合でも、両親/幼児の関係でも、どこにも同じ
  系列が発生する。意志、恐怖、主権である。この系列が、暗黙的な計算
  によって発生するか、暴力の関係によって生じるか、自然の事実によっ
  て生まれるかは問題ではない(Soc:83)。

 ここでフーコーは、主権が成立するには、この意志、恐怖、主権という系列が必須であり、この系列においては、主体が同意していることが重要であることに注目する。この同意という観点からみると、戦争そのものは重要な意味をもたない。戦争は、主権が成立する三つのきっかけのうちの一つであり、主権の成立の系列においては、ひとつの偶然的な要素にすぎないからである。

★『レヴァイアサン』の隠れた意図[2/4-3]
 フーコーはこのように、ホッブスがあくまでも「戦争」を付随的で偶然的な要素としようとするところに、ホッブスの戦略的な姿勢をみる。ホッブスはなぜ主権の成立のプロセスにおいて、戦争があったかどうかは、取るに足らないことであり、偶然的なことであると強調するのだろうか。

 フーコーは、ホッブスが戦略的に排除しようとしたのは、「政治闘争において歴史的な知を機能させようとするあるやり方」(Soc:84)であったと考えている。具体的には、イギリスの歴史における征服の事実が歴史的なディスクールと政治的にディスクールにおいて利用されることと、特別な目的での利用の仕方を排除することを、『レヴァイアサン』は目的としていると考えるのである。

 ホッブスはこの書物で、たとえ征服があったとしても、やはり契約は必要になるのだし、結局は契約という手段によって征服者を承認しない限り、主権は成立しないのだということを、暗に訴えかけようとしているのだとフーコーは主張する。「万人に対する万人の戦争」という、あたかも戦争を普遍化するようなホッブスのスローガンは、実は現実の歴史における戦争という事実を、政治のディスクールから排除するために必要であったのだという議論は、非常に興味深い。

 当時の市民革命期のイギリスにおいて、それではホッブスはどのような戦争のディスクールを警戒し、それを排除しようとしたのだろうか。フーコーはこの時期に底流となっていた戦争のディスクールには「二つの声」があったと考えている。片方の声は次のように語る。「われわれは征服者で、お前たちは被征服者だ。われわれは外国人かもしれないが、お前たちは召使だ」。もう一つの声はこう答える。「おれたちは征服されたのかもしれないが、そのままではいない。ここはおれたちの国だ、でていくのはお前だ」。

 これはすぐに分かるように、政治の戦いにもう一度征服の事実を持ち込んで、国を分裂させる議論であり、ホッブスは当時の政治論争の中で底流となっていたこの声なき声の議論、表だっていわれることはないとしても、つねに意識の裏にある議論を警戒したのだということになる。

 フーコーはこの影のディスクールの背景には、二つの現象があったと考えている。一つは、君主制と貴族制に対するブルジョワジーの政治闘争の未熟さであり、もう一つは、ノルマン・コンケスト以来の国内の対立という歴史的に事実である。1066年のヘイスティングの戦い以来のこの「征服」の事実は、イギリスの歴史に明白な刻印を残していた。フーコーはこの刻印が特に、法律に明白に示されていたことを指摘している。支配者から押しつけられた法律はフランス語で書かれ、現地の法の審級と国王の法の審級の対立はつねに存在し続けていたという。

 この「外国の言語」で書かれた法律に支配されたイギリスでは、法廷においては外国の言語で主張を展開しなければならなかった。この事態はたとえば太平洋戦争の後で、日本の憲法が英語で書かれて、高裁より上の裁判所では、英語で審理が行われる状況を考えてみればわかりやすいだろう。フーコーはこの事態を「言語の苦しみ」と呼んでいる。11世紀はまだ近代的な英語の成立期であり、戦後の日本における英語の「押しつけ」と同一に考えることはできないが、それがイギリスの政治と歴史に「怨恨」を残したのはたしかだろう。

 フーコーは、中世のイギリスを通じて、「自分たちの法律が欲しい。自分たちの言葉で書かれた法律、下から、地方から生まれ、国王の法に対抗する法が欲しい」という願望が底流のように流れていたことを指摘する。フーコーはこれが国民の中に、伝説的に語り継がれた物語として何度も浮上していることを指摘している。ヘイスティングの戦いでWilliam征服王に敗れたハロルド王の帰還の神話、ロビンフッド伝説など、この種の話には事欠かない。
 最近のハリウッド映画にまで引き継がれているこの神話や「聖なる王」の伝説は民衆に対しては強力な力を発揮するのであり、ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』など、イギリス文学でも重要な役割を果たしていることをフーコーは指摘している。これに対抗するために、ノルマンの王の宮廷を中心に展開されたのがアーサー王伝説であり、このテーマもハリウッド好みのテーマである。この伝説はノルマンの王たちが、イギリスの土着のケルトの伝説から取り上げたテーマを加工しながら、貴族と王の宮廷のイメージを向上させる目的で作り上げられたものだとフーコーは指摘する。

 法と伝説。この二つの両極的な側面に示される「征服」の事実と、戦のディスクールの持つ力は、市民革命の時期には国王、貴族、新興のブルジョワジー、そして政治の舞台に登場し始めた民衆の間で切実に感じられていたはずであり、それはあるいは民族的な対立にまで拡大する可能性を秘めていた。フーコーは、ホッブスの『レヴァイアサン』が、この脅威に対する「壁」(Soc:86)を構築することを目的としていたとみているのである。

注:Michel Foucault, "Il faut defendre la societe", Seuil/Gallimard,1997(Socと略記します)
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