ディスクールの戦い
−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義
『社会を守れ』(五)
(中山 元)

★王と貴族のディスクール[2/4-4]
 フーコーは、ホッブスの『レヴァイサン』のおける戦争のディスクールは、戦争と征服という赤裸々な政治的な事実と権力関係を覆いかくすかのように展開されていたと考えているが、これに関連して二つの興味深い点がある。植民地の問題と議会派のディスクールである。この二つのテーマをめぐって、市民革命以前の当時のイギリスの政治的なディスクールは、奇妙なねじれを示しているのである。

 まず植民地の問題については、フーコーは新大陸に植民地を所有する権利を主張するディスクールが、ノルマン・コンケストを歴史的な事実であり、植民の正統性を裏付けるためのディスクールとして利用されたことを指摘する。ノルマンの王がイギリスを征服し、アングロサクソンの民衆を支配してきたという歴史が、インドにおいて、そしてアメリカ大陸においてイギリスの国王が原住民を支配する政治的な正統性の根拠として提示されるのである。

 フーコーによるとこのディスクールを最初に展開したのは、エリザベス朝の政治思想家のBlackwoodだという(A.Blackwood, Adversus Georgii Buchanani dialogum, de jure regni apud Scotos, pro regibus apologia, 1581)。
  要するに、チャールズ五世がアメリカでしたことは、完全に正統である。
  間違えないでいただきたいのだが、ノルマン人がイギリスでしたことと
  同じことを、われわれはアメリカでしているからだ。ノルマン人がイギ
  リスにいるのと、われわれがアメリカにいるのは、同じ権利による。す
  なわち、植民地の権利なのである。

 ローマ教会との軋轢のうちにあって、王権神授説などで国王の独立を主張しようとするイギリスの国王側のディスクールにとっては、国内で戦争のディスクールを展開するのは危険なことであると同時に、逆に海外ではこの事実を主張することが有効であるということになる。

 フーコーは、イギリスと近代の政治理論にとって、植民地の理論が国内の政治理論に逆に影響していく事例があることを指摘する。これはヘーゲルの政治理論や、日本の太平洋戦争当時の政治理論についてもあてはまる興味深い指摘である。海外において支配するという直接的な政治的な体験が、国内における統治の理論に影響しないわけはないからである。

 もう一つは、議会側の政治理論においては、戦争と征服という事実を忘却するわけではないが、ホッブスと同じように、その効果を和らげようとする努力がみられることが特徴的である。国王がローマ教会との対立において支持基盤としようとした層に、ついてはさまざまな議論があるようだが、国内での当面は国王の直接のライバルとなる上級貴族層が、征服の事実よりも、現在の国王の政治的な正統性をまず主張することが興味深い。

 フーコーは議会派が、アングロサクソンの最後の王であるハロルドに継承者がなく、ノルマンのギョームに死の床でイギリスの支配権を与えたという「伝説」を議会派が繰り返し主張することに注目する。議会派は、重要なのは戦争によってギョームが勝利をおさめたことでなく、貴族を含むアングロサクソンの被統治者たちが、ギョームを正統な統治者として「承認した」ことの方が重要だと指摘する。

 議会派の戦略は明らかだろう。国王と同じく征服の赤裸々に事実よりも、ギョームがウィリアム征服王としてウエストミンスターで戴冠し、そのことによって国民から統治者として承認されたことが重要なのであり、この戴冠という事実によって、国王はアングロサクソンの法律の継承者となったということになる。ギョームはフランスの法ではなく、アングロサクソンの法の継承者なのである。

 この議会側のディスクールを代表する法学者として、フーコーはクックをあげている。エドワード・クック(1552-1634)は、当時の有数の法学者で、最初は国王の大権を支持していたが、その後、王と対立してコモンローを主張し、当時のイギリスらしい権謀と術策の世界で、王権と渡り合った人物である。

 クックは『権利の請願』の作成に与かったという噂もある人物だが、フーコーが指摘するのは、『正義の鏡』なる書物である。これはクックが「発見した」という文書で、アーサー王の伝統において、正義の法律が中世のイギリスを支配していたと主張する。「この書物には、王国の古代のコモンローの全体の枠組みが現れている」というのである(SOC:99)。

 この書物とコモンローの概念に依拠することで、王権と対立した議会側は、征服以前の「過去1100年間の」イギリスの伝統の優越を主張し、このイギリスの伝統を継承する国王は、この伝統に従わなければならないと主張する。フーコーは、この書物の重要性はこの点だけではなく、この理論が自然状態における人間の理性の表現とみられたことにあると考えている。

 イギリスの法学者ジョン・セルデン(1584-1654)は、この伝説の文書に基づいて、イギリスには古来、アテナイのポリスの民主政治に類似した超秩序と、スパルタの軍事政権に類似した軍事的な秩序が存在していたのであり、人間の理性にふさわしい卓越した法で存在していたことを主張する(SOC:92)。

 スチュアート朝の国王の独裁的な権力に対して、当時の法学者たちはアテナイの民主政治、スパルタの軍事秩序、神と契約を結んだユダヤの民と同じような古代的に卓越性というユートピア的な夢想にふけりながら、イギリスの古代的な伝統の卓越性を主張していたことになる。そして興味深いのは、こうした夢想が現実に政治的な力をもち始めることにある。
  ノルマンの王権が承認したと想定されているこのサクソンの法律のユー
  トピア、これが議会側が確立しようとする新しい共和国の土台となるは
  ずである(SPC:92)。

 フーコーは、「ノルマンの軛」とは、このような背景においては国王と上級貴族の両方にとって、自己の政治的な正統性を保証する役割を果たすものであることを指摘する。そしてそのためには、国内においては戦争という権力的な関係を隠蔽することの方が重要だったのである。そしてこの対立しながら提携しあう国王と貴族の政治的にディスクールに対して、戦争という事実を新たに突き付けるディスクールが下から誕生してくる。

★歴史的な政治理論の復権[2/4-5]
 対立しあいながら、同じ土俵の上で戦争のディスクールを隠蔽することに利益をみいだしていたこの二つの勢力に対して、第三のディスクールが登場する。これが市民革命当時の「プチブル」の派閥を代表する水平派やディガーズたちである。

 議会派のユートピアに対抗して市民革命派が提示するのが、戦争と征服という歴史的な事実である。これが最初の出発点である。この視点からみると、国王はサクソンの法律を継承したのではなく、国王は(そして貴族は)それを詐取しているのであり、イギリスの法律は「腐敗」しているのである。「法は罠である」(SOC:93)。法は、王権という権力の正統性を保証するものではなく、国王が国民を支配するために利用している「道具」にすぎない。リルバーンは、法律というものは、征服者が作ったものであり、法的な装置全体を破棄しなければならないと主張する。

 そして市民革命派は、ノルマンの法律だけでなく、現在の支配体制の構図そのもの、すなわちノルマンの王と、それを支えるイギリスの貴族たちの「化かし合い」と「盗み」の体制そのものを破棄することを求める。この視点からみると、この政治と所有権の体制は、依然として征服者が支配している体制であり、略奪者が国民の財産を横領している体制である。

 さらにディッガーズは、現在の体制は「戦争の継続」に他ならないと主張する。法、政府、権力は、戦争が露出したものであり、国民と権力者は、戦争状態にあると考えるのである。征服したのはノルマンの王であるが、富んだ者たちは、自分の利益のためにこれを利用している。そして教会もまた、自分の利益のために征服者である国王の権力を利用しているのである。貴族と教会の裏切りに抗して、「叛乱」が呼び求められる。これは隠蔽された戦争を露にすることである。

 フーコーはここから、法と権力をめぐって、水平派とディッガーズのさまざまな理論家の間で、多様な模索が行われることを指摘する。ある者はノルマンの法を廃して、サクソンの法に復帰することを主張する。またある者は、サクソンの法そのものもやはり略奪の手段ではないのかと問い掛ける。これらの理論的な思考は断片的なものにとどまり、理論的に体系化されることはなかった。しかしフーコーは、ここにあるいは権力の理論の模索がみられると考えている。
  (すべての種類の法律と権力は)自然法と主権の構成という用語ではな
  く、相互の支配の関係として、無限の運動として、歴史的に無限のもの
  として分析する必要がある…という考え方が、はじめて形成された(SOC
  :95)。

 フーコーは、法や権力を二つの勢力の間の対立として考える思考方法は、ギリシアの昔から中世の時代を通じて存在していたことを確認しながらも、ここにおいてはじめて、これが社会の内部の対立の問題としてではなく、国民性の問題として、「言語、出身国、祖先の習慣、共通の過去の厚み、古代の法律の存在、古い法律の再発見」(SOC:95)の問題として提起されたことに注目する。

 そしてこの二分法的な権力概念が、革命の原理として提示される。国民が叛乱を起し、革命を進める権利があるのは、社会の状態に不満だからではなく、革命が歴史的な必然性として、ある絶対的な権利として要求されるからである。フーコーは、この原理こそが、ホッブスの『レヴァイサン』に正面から対抗する政治的な原理であったと考える。ホッブスのこの書物の隠れた意図は、このディスクールに対して、王権と既存社会の権利を主張することにあったとみるのである。

 権力を歴史的に分析する視点は、ホッブスのように権力を哲学的・法的に分析する視点とは異なり、征服と暴力と抑圧という歴史的に事実を赤裸々に示してしまう。ホッブスの政治哲学は、この歴史的なディスクールを抑え込むことを一つの重要な目的としていたとフーコーは考える。

 興味深いのは、フーコーがこの「政治的な歴史主義」が西洋において二度にわたって抑圧されたと考えていることである。最初は十七世紀のホッブスの時代であり、この時代には権力の哲学的な思考によって、水平派の戦争の理論が抑圧された。もう一度は十九世紀のことであり、この時代にはマルクス主義の唯物弁証法が政治的な歴史主義を抑え込む。

 この十九世紀の政治的な歴史主義についてはいずれ検討されるが、フーコーのこの書物の目的の一つは、マルクス主義的な理論によってよく見えなくなっている戦争のディスクールと歴史的な政治理論を、既存の観点とは異なる視点から浮き彫りにすることにある。


注:Michel Foucault, "Il faut defendre la societe", Seuil/Gallimard,1997(Socと略記します)
Copyright 1998 by Gen Nakayama