歴史のディスクールの新しい主体
−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義
『社会を守れ』(六)
(中山 元)

★トロイ幻想とゲルマンの正統性[2/11-1]
 さて、2/11日の講義ではフーコーは、イギリスから一転してフランスに目を向ける。イギリスにアーサー王の伝説があったように、フランスにもフランク王の伝説がある。トロイの王子プリアヌスの息子が、炎上するトロイから逃れ、フランク族の王の手引きで、ゲルマンの地に逃れ、やがてフランスを建国するという伝説である。

 日本のジンギスカン=義経伝説を思い出すが、偽Fredegaireの『フランク族の歴史』(727)からロンサールの『Franciade』(1572)まで纏綿と続くこの幻想的な伝説が、民衆の思いをかき立てたことは、想像に難くない。フーコーが特に注目するのは、ルネサンスの時期までフランスで語り継がれたこの「トロイ伝説」では、ローマ帝国の征服の歴史とローマの文化が完全に脱落していることである。

 というよりもフーコーは、ローマ法の伝統を継いだフランスにおいて、このトロイ伝説が語られたことに、ローマは不在によってその存在を刻印としていると考えるべきだと指摘する。ギリシアの伝統を引き継いだローマに対して、フランスがトロイの伝統を引き継ぐことは、ローマとは別の血脈において、フランスがローマと対等な位置に立つことを宣言することになる。

 この幻想の中では、ローマはギリシアの伝統の継承においては「長兄」としての位置にあり、フランスはいわば腹違いの弟のような位置にある。そしてローマ帝国が滅亡した後では、弟が本来の権利をもって、ギリシアの遺産を引き継ぐことができる。フランスの王の権利は、ローマ皇帝の権利と、その正統性において違いはないことになる。

 同時にこのフランスの正統性の主張は、当時の「西ローマ帝国」の体制下においては、別の意味を持ちうる。フランスの王が、ハプスブルク王朝の支配下におかれる根拠はなく、フランスの国王は「西ローマ帝国」の皇帝とまったく同じ権利を所有していることになるからである。

 この問題が単に「西ローマ帝国」に対する正統な権利の主張だけでなく、当時の誕生期にあったフランスの絶対王政の正統性の主張ともかかわるのは明らかだろう。ローマは、西ローマだけでなく、ヴァチカンの権力も意味するからである。ガリカニズムを強めていた当時のフランスにおいて、今王の権力の正統性の主張は、ローマ教皇に対する正統性の主張と切り離すことができない。

 フランスの絶対王政の成立にいたる政治的な理論の歴史については、一般に宗教戦争の影響を重視する傾向が強いようである。1572年のサン=バルテルミの虐殺による「暴君討伐論」の抬頭、これに対抗するリーグの形成、王国の分裂を警戒しながら、王権のもとでの統一を求める「ポリティーク派」の三巴の中で、アンリ四世の「改宗」による王権の統一という政治と思想の歴史的な経緯がよく語られる。

 しかしフーコーがここで重視しているのは、宗教戦争の影響よりも、このトロイ伝説に現れたフランクの王の持つ歴史的な含意である。トロイ伝説では、フランスを建国する王は、ゲルマンを経由して、ゲルマンがガリアに侵入することで、フランスの王となった。

 ここでは歴史的には二つのことが含意されている。一つは、ゲルマンとフランスの王は、同じ民族であり、ゲンリンがローマの帝国を侵略し、滅ぼしたということである。この文脈では、「帝国」ローマに対抗するゲルマン民族の同一性、フランスとドイツの民俗的な同一性が強調される。


 もう一つは、このローマの帝国を滅ぼしたゲルマンとフランスの王は、ローマ帝国と同じ権利を所有しているということであり、単なる侵略者ではなく、野蛮なゲルマンが後期なローマを滅ぼしたわけではないということである。ここではローマ帝国の「弟」としてのフランスとローマの権利上の同一性が強調される。

 これに対して、同じくトロイ伝説に依拠しているF.Hotmanが『Fraco-Gallia』(1573)で展開し、弟子のE.Pasquieが『Recherches de la France』(1560-67)で提示した議論は、「戦争」と「侵略」という歴史的な事実に依拠しながら、フランスという一つの国家の内部に存在する「二つの国家」の伝統がどのようにして和解し、引き継がれるかを問題とする。これは宗教戦争のポリティーク派の政治理論が目指した王権による統一とは、異なる見地から、王権の正統性を確立しようとする試みと考えることができる。

 フーコーは、宗教戦争から生まれた理論は、つねに「一つの信仰、一つの法、一人の王」という原則に従って議論を進めており、一つの国家のうちの二つの伝統と、そのせめぎあいについては考察することができなかったことを指摘する(SOC:105)。宗教戦争の理論は、国家の統一を目指すものであり、国家の分裂を前提とすることはできないからである。

 これに対してHotmanが目指すのは、フランスの国家に内属する「二つの国家」の伝統を指摘しながら、ポリティーク派とは逆の方向から、フランスの王政の権利を確立しようとすることである。Hotmanは、カエサルがゲルマンの民に仕掛けた戦争と、ゲルマンの民がローマ帝国に仕掛けた「解放戦争」の歴史を想起させる。そしてフランスにおける本来の主権者は、みずから王を選びだしたゲルマンの民であり、ゲルマンの法である。

 これは使いようによっては危険な議論となるのは明らかである。しかしHotmanはディッガーズのような意味での人民主権を主張するのではない。ゲルマンの民とその法の正統性を主張することによって、ローマ教皇の支配の正統性を否定することを目的とするのである。フランスの王は、ローマ教皇から派遣された王であるよりは、ゲルマンの民の王だからだ。

 フーコーは、Hotmanの議論でフランスの王が批判されているようにみえるとしても、ここで批判されているのは、ローマ教皇とその司祭たちの権力であり、ゲルマンの民で含意されていることは、ドイツで始まった宗教改革の運動であると指摘している。

 この議論は、戦争と侵略という歴史的な事実に依拠しながら、カトリックとは反対の方向から、王政の権利を制限しながらも、同時に王政の権力の正統性を主張しようとする議論だと考えることができる。

★ガリアの民[2/11-2]
 このゲルマンの民の議論は、カエサルの『戦史』に描かれた民主的な政治体制と戦の名残りを残し、つねに危険な民主制と自由の匂いを漂わせている。このため当時のフランスの政治理論では、これを回避するための論拠が求められた。そのために使われたのが「ガリア中心主義」の理論である。

 Hotmanの議論では、ガリアは「質料」のようなものであり、ゲルマンがこれを活性化したとされていた。しかし十七世紀からは、ガリアが歴史の原動力となり、ゲルマンはガリアの延長であり、挿話のような地位を占めるにすぎなくなる。P.Audigierは『フランスとその帝国の起源』(1676)で、ガリアがヨーロッパのすべての民の「父」の位置にあるとまで主張するのである。この奇妙な歴史理論によると、ガリアはゲルマン、ヴァンダル、ゴート、トルコ、タタール、ペルシャ、ノルマンのすべての民の起源となるのである。

 このようにして、Hotmanの主張を裏返しにした理論が登場する。たしかにゲルマンはガリア地方を侵略した。しかしゲルマンはもともとガリアの民であり、ゲルマンは祖国に戻りたいがために、ガリアに侵入したにすぎない。これは戦争でも侵略でもなく、「放蕩息子の帰還」にすぎないのである。フーコーはこの「おとぎ話」が目指したのは、戦争という事実を消滅させることにあったと考えているわけである。

 同時にこのガリア中心主義には、いくつもの政治的な効用があった。この寓話は、フランスの領土をカエサルが定めた「自然の」境界に回復しようとする含意を含み、これはリシュリューとルイ十四世が目指すものと一致していた。また、これによってローマ帝国との対立という要素が一掃され、人種的な差異やローマとゲルマンの対立という要素が意味を持たなくなる。さらにガリアをヨーロッパのすべての民の起源とすることで、フランスの王政が他の王政よりも「普遍性」をそなえていることを主張できるようになる。

 このガリア中心主義の議論が、戦争の意味を消滅させようとするものであるのは明らかであり、ほぼ同時代のイギリスの政治理論とおおきな共通性をそなえている。イギリスではノルマン・コンケストの意味が拭いさられたように、フランスではゲルマンの二重の戦争(ローマとの戦争と、ガリアとの戦争)の意味が、消滅させられるのである。

 ただフランスとイギリスには重要な違いがあった。イギリスにおいては「征服」という事実はごまかしようのないものであり、「二つの国家」は現実的なものであった。これに対してフランスでは、国民の基底とする部分は、それがゲルマンと呼ばれようと、ガリアと呼ばれようと、基本的な同じ材料で編み上げられていた。

 しかしフーコーは、この民の同一性のディスクールに、やがておおきな裂け目が生じることを指摘する。ブーランヴィリエが登場するのである。

★貴族の二つの対抗知
 ブーランヴィリエについては、川出良枝のモンテスキュー論にも詳しい紹介があり、国民論における位置についてはかなり明らかにかになってきたが、ここで平凡社の百科辞典から簡単に紹介しておこう。

 ブーランヴィリエ(1658-1722)は、ノルマンディーの貧乏貴族の出身で、スピノザ批判や占星術の議論を展開した。主著は、『フランス旧政体に関する歴史的覚書』(1727)や『フランス貴族起源論』(1732)であり、『フランスの状態』(1727-28)は、地方長官をつとめた頃の覚書で、17世紀末のフランスの社会状態についての貴重な証言である。

 ここでの議論に関連して重要なのは、ブラーンヴィリエが歴史的な著作において、フランスの国民が貴族と庶民の二つの血に分かれていることを主張したことである。イギリスでの同じような議論を思い出させるかのように、ブラーンヴィリエは貴族の起源をゲルマンの「貴き血」にみいだし、第三身分はガロ・ロマンの隷属民の末裔であると主張する。

 この項目の筆者の二宮宏之氏は、この人種起源論がゴビノーの人種不平等論の先駆的な形態であるとを指摘しているが、この人種起源論によってブラーンヴィリエは、貴族による統治の正当性を主張し、絶対王権を批判する。

 フーコーは、ブラーンヴィリエをはじめとする貴族階級の歴史家たちがこの時期に目的としたことは、王が体現しているとされる知と権力の由来を問い直すことにあったと考えている。この時代の貴族が目指すべきであるのは、王の好意を獲得することではなく、行政組織を通じて王に与えられ、王に帰属すべきものとされていた知、統治の正統性を根拠づけることのできる知を復活することにあったというのが、ブラーンヴィリエの論拠だったという。

 この統治の根拠となるべき知は、当時の王政において統治の要となる知と対抗する必要があった。フーコーは、貴族層は王政の二つの知に対抗する必要があるったと考えている。一つは法的な知である。これは貴族にとっては敵対的な知であり、貴族からその権利と財産を奪ってきた知である。フーコーはこの法的な知は「循環的な知」savoir circulaire(SOC:114)であると指摘している。

 王が顧問に法について尋ねると、そこにみいだすのは王権の権力を保証し、強化する知であり、王権が貴族の権力と富を奪うことを正当化する知である。そして王権がこれに依拠することで、さらに司法的な知の根拠が強化されることになる。王権と司法は、互いに循環的に相互を強化していくことができるのである。

 この自己完結的な知に対して貴族層が提示した対抗知は、歴史的な知であった。この歴史的な知は、権力の外部に超越しようとする知、権力の背後を暴こうとする知、権力の内部に入り込もうとする知である。この歴史的な知は、王政の由来を明らかにしながら、王のために貴族が流してきた血を物語る。この知は、その時点で有効とされている権力が成立する背景において、王家がどのような不正、濫用、裏切り、不実を犯してきたかを暴き出す。「歴史は裏切られ、屈辱にまみれてきた貴族の武器となる」(SOC:115)のである。

 貴族層が対抗すべきもう一つの王政の知は、官僚的な知である。この王家の管理官の知は、貴族たちから富と権力を齧りとってきた知であり、貴族層にとっては、法的な知と同じように憎むべき知である。主として経済の領域で活用されるこの知は、法的な知と同じように循環的な性格をそなえている。王はこの知に依拠することで、国家の財政的な基盤を確立し、国民の服従を獲得し、王に対する幻想を確保することができる。逆にこの知は王家の役にたつことによって初めて自己の立場を確立し、知としての資格を強化することができる。

 この王家の執事の知に対して貴族層が提示する対抗知は。やはり歴史的な知であり、富についての歴史的な知である。これは王国の経済について語るのではなく、貴族の富がどのようにして奪われ、貴族が貧困化し、破滅していったかを明らかにする知である。これは王とブルジョワが協力しながら、貴族の富を不正に簒奪して歴史を物語る。王国の経済は、不正と詐欺と盗みで成立していることを示すのである。

 フーコーは貴族がこの二つの対抗知を提示しながら抵抗した試みには、わずかな時代的なずれがあることを指摘する。最初の法的な知への対抗が中心的に行われたのはブーランヴィリエの時代、17世紀の後半から18世紀のはじめにかけてである。経済的な知への対抗が激化したのは、18世紀の半ばの重農主義の時代である。フーコーは、この対抗知の中心となったBuat-Nancay伯爵は同時に、重農主義者でもあったことを指摘している。

★ブーランヴィリエの歴史のディスクール
 ところでこの二つの知に対して貴族層が提示したのは「歴史的な」知であったが、これはどのような性格のものだっただろうか。ここで「歴史」について考えてみる必要があるだろう。

 中国の「歴史」の由来を考えてみても明らかなように、「史」とはまずなによりも、王朝が自己の正統性を確認するために利用するディスクールとして登場した。フーコーは、これまでの「歴史」とは、権力が自らについて語る歴史であったことを指摘する。権力が権力となった経緯、権力がその正統性を誇るディスクール、それが「歴史」であった。しかしブーランヴィリエとともに新しい種類の「歴史」的なディスクールが登場する。

 このブーランヴィリエの歴史のディスクールには、二つの新しさがあったとフーコーは考えている。一つは、歴史を語る新しい主体が登場したことである。これまでの歴史とは異なる位置にあるものが、「私」として語り始める。そして語る主体が変化するとともに、語られる内容も変化する。これまでの歴史のディスクールのように、現在の制度の正統性を語るのではなく、制度よりももっと古い場所、制度よりももっと深い場所にまで、言葉が降りていくようになる。この新しいディスクールが物語るものが「国」nationである。

 この「国」という概念は、国民国家が成立した現代のわれわれからみると、どうもわかりにくいところがある。フーコーはこれは当時のディスクールにおいては、「社会」societeとも呼ばれたことを指摘している。「社会」がいつ、どのような経緯で誕生したかというテーマは、この文脈とは別にさまざまな興味深い論点を含んでいるが、ここではそれには触れず、フーコーの指摘する社会の概念について考えてみよう。

 「社会」とは、一つの共通の風習や法によって結び付けられた人々やグループの集まりであり、これがnationとしての顔をもつことになる。当時の国は、ある領土の支配によって規定されるものでも、一つの帝国への従属によって規定されるものでもない。「国nationは国境をもたず、定義された政治の体系をもたず、国家Etatをもたない」(SOC:117)のである。

 フーコーは、19世紀のナショナリズムの基本的な概念、人種的な国家、階級国家などの概念が登場するのは、法・政治的な「国家」Etatの概念からではなく、この社会的な由来の「国」の概念からであることを指摘する。そしてブーランヴィリエを初めとする貴族がこの時点で語り始めた言語は、この国の言語なのである。

 このように歴史について、歴史の中で語る新しい主体が登場したために、歴史のディスクールにおいて、これまでまったく無視されてきた新しい分野が登場することになるとフーコーは指摘する。新しい主体が登場することによって、歴史の新しい客体が形成されるのである。

 そして、それまでの歴史では、隠すべき問題とされてきたこと、帝国と国家においては「悪」と見なされてきたこと、浪費と収奪の歴史、詐欺と忘却と無意識の歴史、隠された利害とさまざまな利益集団の歴史が語り始められるのである。「これはもはや権力の栄光の歴史ではなく、権力の暗黒面、悪意、裏切りの歴史である」(SOC:118)。

 そしてこの新しい歴史のディスクールは、一つの新しい「パトス」を伴う。このパトスは、権力の栄光を語る場合のパトスではなく、その裏面について物語るフランスの右翼的なディスクールに特徴的なほとんどエロティックなパトスである。フーコーは、このディスクールは、国家の表側の理念によって分節されているのではなく、国家に対する陰謀やクーデターの情念に浸されたディスクールであると指摘する。

 フランス革命の十年前にBuat-Nancay伯爵はルイ16世が不正であり、野蛮であり、「怪物」であると非難していたが(Les Maximes du gouvernement monarquique pour servir de suite aux elements de la politique, 1778)、このようなディスクールが可能となったのは、この新しい歴史の主体が登場し、新しいパトスをもって、新しい歴史的な対象について語ることが可能となったからである。そして十年後には、フランス革命でほとんど同じ語彙と文脈で、国王が非難されることになるのである。

 王権は、この新しい歴史のディスクールの登場に対抗し、こうしたディスクールを自らの歴史のディスクールに取り込むために、さまざまな試みを展開しし始めた。1760年には、『財政図書館』が設立され、王の閣僚たちに、さまざまな覚書や必要な情報を提供しはじめる。1763年には、フランスの歴史と公的な権利を研究するための公文書館が設立され、1781年にはこの二つの組織が統一され、「行政、歴史、公法の法令図書館」が設立される。

 このようにして国王の閣僚のうちに歴史を担当する閣僚が誕生し、この組織が中世や中世以前の多量の歴史文書の収集を開始する。ティエリーやギゾーなどの歴史家は、後のこの歴史文書を利用して研究を進めるのである。

 フーコーはこの背景には、歴史的な知が、国王の行政的な知と法的な知に対抗する武器となっていたことが重要な意味をもっていることを指摘している。国王はこの新しい歴史的な知を「植民地化」することを望んだのである。

 しかし同時にこのようにして蓄積された歴史的な知が、神的な意味を帯びていた国王の権利の至高性を揺るがす効果をもったのも明らかである。国王がみずからこうした歴史文書を収集したことは、後のフランス革命における第三身分の権利の主張を裏付ける逆説的な効果も発揮することになるのである。

注:Michel Foucault, "Il faut defendre la societe", Seuil/Gallimard,1997(Socと略記します)