ブーランヴィリエの新しさ
−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義
『社会を守れ』(七)
(中山 元)

★フランスの貴族の二正面戦略[2/18-1]
 さて、ブーランヴィリエとともに(あるいはブーランヴィリエの時代に)歴史について語る新しい主体が登場したわけだが、この新しいディスクールの登場とともに、歴史と国家についての新しい視点が確立されたとフーコーは考える。

 まず歴史については、これまでのローマの遺産を称揚する歴史のディスクールとはまったく異質なディスクール、国家の内部において、ローマの遺産を引き継いだ国家の権利と法を確証するディスクールとは異なるディスクールが登場した。

 これと同時に、国家のディスクールの内部で、しかし国家のディスクールからあふれだし、国家Etatという枠組みに入らない「国」nationのディスクールが登場した。このディスクールは、国家の内部に王権、貴族、第三身分の分裂を見いだし、それが人種的な起源をもつものであることを認めるものであり、国家を分裂させ、国家の内部にことなる「国」の存在を暗黙のうちに容認するディスクールである。

 フーコーは、このディスクールがそもそも危険性をはらみ、当時誕生していた啓蒙のディスクールと背反する要素があったと考えているようである。『百科全書』の国についての定義と比較しながら、その問題を考えみよう。

 『百科全書』では、「国」について次のように定義していた。
    これは集合的な言葉であり、国paysの特定の広がりのうちに住み、
    特定の限界のうちに囲まれ、同じ政府に従属するかなり多数の人々
    の集まりである。

 フーコーはこの『百科全書』の定義は、次の四つの要素で構成されていることを指摘する。まず第一に、多数の人間で構成されていること、第二に、この多数の人間が、特定の国paysに住んでいること、第三にこの国は国境で囲まれていなければならないこと、第四にこれらの人々が独自の法と政府に従属していることである。

 フーコーはこの定義は、当時主流であった定義、すなわち貴族は一つの国nationであり、ブルジョワも一つの国nationであるという概念を暗黙のうちに否定しようとしたものであると考えている。『百科全書』の定義は、国を国家の形式と国境という地理的な限界によって定義しようとするものであり、国の「国家的な」定義である。

 これに対して、国家の内部に異なる「国」の存在を肯定する貴族やブルジョワのディスクールは、これから迎えるフランス革命において、重要な役割を果たすディスクールである。フーコーはこの「国」nationの概念が、国民国家の形成だけでなく、ナショナリズム、人種論、階級対立論などのディスクールの重要な源泉となると考えている。

 フーコーは、フランスで17世紀の初頭に登場しはじめたこの新しい歴史のディスクールの特異な性格を理解するには、イギリスとの比較が役立つことを指摘している。イギリスでは、国家のうちに二つの「国」が存在していることは、ほとんど自明のことだった。これはイギリスの二つの法の体系の存在によって示されていた。

 一つはノルマンの「国」の法の体系であり、これはイギリスを暴力によって征服した王権と貴族たちの法の体系である。これに対立するのは、サクソンの法の体系であり、これは古代からイギリスの島に住んできた住民の法とされてきた。そして貧困な国民や、王権と貴族に対するする人々は、この法の体系に依拠して政治的なディスクールを展開することができた。

 この16世紀末から17世紀にかけてのイギリスの状況と比較すると、17世紀末頃のフランスの状況ははるかに複雑である。フーコーは、この時代においてフランスの貴族は、二つの戦線で戦うことを強いられたとみている。一つは、王権との争いであり、この戦線では貴族たちは王が権力を簒奪したことを批判する。もう一つは平民との戦いであり、平民たちは王権と結んで、貴族の権利と富を侵害しているのである。

 この二つの戦線においては、当然ながら貴族たちは異なるディスクールを武器として使用する必要に迫られた。王権の絶対主義に対しては、貴族はゲルマンやフランクの民がガリアに侵入した時点で所有していた(はずの)基本的な自由を主張する。貴族たちが王権批判に利用したディスクールの武器は、「自由」である。

 これに対して、貴族たちは第三身分に対しては、侵入によって生じた無制限の権利を主張する。貴族たちは、ガリアに侵入したゲルマンの末裔として、侵略によって生じた絶対的な権利を主張する。平民に対するディスクールの武器は、「征服」である。

 この時期の貴族たちのディスクールはこの二方面戦略をとっていたために、かなり複雑な様相を帯びてくる。フーコーはブーランヴィリエがこのいささか矛盾した貴族の歴史のディスクールの核心を体現する人物だと考えており、ブーランヴィリエに焦点を当てて分析を進めるのである。

★ガリアの社会とゲルマンの社会[2/18-2]
 さてブーランヴィリエが記述する「侵入」という事態には、いくつかの特徴がある。第一に、ガリアに侵入したフランクは、一七世紀の頃のトロイ伝説で主張されたように、ここに幸福な祖国をみいだしたわけではない。フランク族がみいだしたのは、ローマ帝国に征服されたガリアである。

 ガリアはローマに侵略され、ローマの法律と体制を押しつけられた。これは強制された政治と法の体制である。ブーランヴィリエは、ローマ帝国はガリアを侵略した際に、まず現地の貴族たちの武装解除を目標としたと考える。これがローマ帝国に対する重要な脅威となりうるからである。

 同時に政治的および経済的に貴族の位置を低下させるために、ローマ帝国はさまざまな試みを展開した。その方策の一つとして、「平等」の概念を普及させることがあったという。庶民が自分たちの平等を主張することによって、もっと自由が拡大されると信じさせたというのである。同時にローマ帝国は貴族の殺戮を展開した。有名なカリギュラ帝の暴虐は、この文脈で理解されることになる。

 これがローマによるガリア支配の第一段階である。貴族の位置を低下させ、庶民の位置を向上させ、だれもが帝国の一員として同じような位置を占めると考えさせることである。帝国内での「平等」という理念のうらには、政治的な意図がはりついていた。

 次に第二段階においてローマ帝国は、ガリアで新しい貴族を作り始める。これはローマ帝国にとって望ましい役割を果たす貴族層であり、軍事的な力はもたず、行政的な役割を果たす貴族たちである。この貴族たちの特徴は、ローマ法を実践して、ローマとガリアの経済的な利益を確保することを目的とすること、ローマの言語(ラテン語)を習得していることにある。法の実践と言語を中心に、新しい貴族層が登場する(SOC:129)。

 フーコーは、ブーランヴィリエのこの主張には重要な戦略的な目的があったと考えている。これは一七世紀のトロイ伝説で主張されたような「アルカディア」として、回復された祖国としてのガリアのイメージを根底から覆す機能を果たす。そして当時の歴史的なディスクールにおいて夢想された伝説的な系譜を断絶する。これは現在のフランスの国王に対して、ローマからの遺産の継承を語ることができないことを告げることになるのである。これは国王に反対する貴族層にとっては、国王の神秘的に権威を打破するために有効に武器なると考えることができるだろう。

 ブーランヴィリエは次に、このローマ化されたガリアに対する新たな侵略という歴史的な事実を提起する。フランクが侵入した際にガリアの地で見いだしたのは、すでにローマに侵略されたガリアであり、ローマ化されたガリアである。フランク(ゲルマン)はこのローマ化されたガリアを再侵略する。ガリアにはもはや戦闘的な貴族が根こそぎになっていたので、ゲルマンの侵入を阻止する武力的な勢力は存在しない。

 そこでガリアは傭兵を雇うことになる。しかしこの傭兵というのは、非常にコストがかかる。そのために租税が高騰し、通貨の価値が低下する。これがガリア地方の全体の貧困化を招き、そのためにフランクの侵入が容易になる。フランクがガリアを征服できたのは、このような傭兵に存在によるところが多いことになる。

 フーコーは、このブーランヴィリエの分析について、これが数十年前まで通例であった公法の視点からの分析ではないことに注目する。以前は、フランクの侵入による主権の継承の問題、法的なシステムの問題が重視されていた。しかしブーランヴィリエが関心をもつのは、法の正統性がどのように維持され、どのように継承されたかということではない。そもそもローマやフランクの帝国が「正統」なものであるかどうかということそのものが問題ではなくなっているのである。

 問題となっているのは、ガリアにおけるローマの帝国が敗北したことの論理的あるいは政治的な理由である。一八世紀には、ローマ帝国の偉大さと衰退の問題が、モンテスキューをはじめとして歴史と政治において重要なテーマとなるが、その背景にはこのような「モデル」の転換があったことになる。
 ブーランヴィリエの分析の第二の特徴は、ガリアに侵入したフランク族の素性と、現地の農民の共同体との関係の問題である。衰退したローマ帝国に侵入して、ローマ帝国を崩壊させることのできたフランク族とは、そもそもどのような人々であり、ローマに対してどのように強みをもっていたのか。そして侵入した現地で、農民の共同体とどのような関係を結んでいたのか。

 ブーランヴィリエの分析によると、フランクの第一の強みは、ローマがガリアを支配するために根こそぎにしていた「戦う貴族」が存在していたことである。タキトゥスの記述以来、ゲルマンの民族は、戦う戦士たちの集合であり、これはガリアの傭兵とは対照的である。

 この戦う貴族たちはたしかに「王」を戴いているが、この王の機能は、平和な時期に正義の問題を解決し、異論を調停することにある。王は民事的な問題についての「判事」のような役割を果たすにすぎない。戦の場においては、戦士たちは戦の首長を選出する。これは必ずしも民事の問題に携わる王と同一人物であるとは限らない。

 このような戦士たちの社会は、「ゲルマンの自由」という概念に示されるように、非常に自由な社会である。フーコーは、この自由とは他者を尊敬することによって生まれる自由ではないことを指摘する。これは戦士たちのエゴイズムの自由であり、戦好みと征服と略奪の自由である。戦士の自由は、すべての成員の平等や寛容の自由ではない。これは征服によってしか行使されない自由なのである(SOC:131)。ここにガリアの社会とゲルマンの社会の大きな差異が存在することになる。

 ブーランヴィリエの理論を継承したフレレは、「フランク」francという語には、語源的には現在考えられるような「自由」という意味はまったくなく、ラテン語のferox(野蛮な)という意味が含まれていたことを指摘する。フーコーによると、この時期にヨーロッパの歴史の概念のうちに、「金髪の野蛮人」(ニーチェ)という新たな概念が登場したのである。

★フランクの王とガリアの貴族[2/18-3]
 このゲルマンの野蛮なブロンドの民は、ガリアに侵入した後も、その野蛮さを失わない。この民は自由であり、獰猛であり、傲慢であるため、ローマ帝国の法律に服従することをいさぎよしとしない。そしてそれぞれの部族の戦士たちは、侵入したガリアの土地の一部を占有することになる。ブーランヴィリエは、これが封建制の起源だと主張する。

 部族の王は、その部族が占領した全体の土地に対する権利を持たない。王が確保できるのは、自分が占領した土地だけであり、他の戦士たちが占領した土地は、その戦士のものであり、王はその土地に対する主権を主張できない。ましてやこれらの戦士たちは、占領した土地を以前支配していたローマの皇帝の主権などを尊重する理由がないのである。

 この時代はまだフランス史の黎明期であり、ブーランヴィリエが歴史的な事実として物語っていることは、史実というより、当時のフランスの貴族層のアイデンティティとして、自己認識の歴史的な物語として読む必要があるだろう。これはブーランヴィリエが物語る初期フランク王国の逸話にもはっきりと示されている。

 当時、ローマ帝国に傭兵として雇われながら、ガリアの地に侵入していたフランク族を結合し、フランク王国を創設したのはクロヴィスであり、481年にメロヴィング王朝が創設される。486年にはクロヴィスはソワソンでローマのシアグリウスの軍を撃破し、フランク王国はローマ帝国の支配から解放されることになる。

 ブーランヴィリエが繰り返し物語り、その後も何度も語り継がれたフランスの歴史の有名な逸話として、「ソワソンの花瓶」の物語りがある。これは、ソワソンの戦いに勝利したクロヴィスが、戦利品の分配の場においてある花瓶に目をつけ、「これは俺がもらおう」と言ったところ、一人の戦士が立ち上がってこう反論したという−−「あんたにはその花瓶を取る権利はない。あんたは王かもしれないが、戦利品はみんなで分配するものだ。戦で獲得したものに対して、あんたは絶対的な権利を持っていない。王だから先に取れるという権利はないのだ」。

 この逸話(の前半部)が物語るのは、ガリアに侵入したフランク族は、戦士の共同体であり、王はその中の「第一人者」にすぎず、専制的な権力を所有していなかったということ、あるいはそのような認識がフランク王国において存在していたということである。クロヴィスはこの伝統に反論できない。王は絶対的な権力を主張する正統性の論拠をもたないのである。

 ブーランヴィリエが分析する第三のテーマは、このようにガリアの地に侵入したゲルマンの貴族たちが、どのようにしてその富と権力を失い、王政の権力に服従するようになったかという歴史的な経緯である。ブーランヴィリエはまずゲルマンの王の性格から素描する。

 フランク王国の王は、戦士の共同体の首長にすぎず、王の権力は戦の間しか有効ではなかった。そして平和な時代においては、王は子供に権力を継承することはできず、王はそのたびごとに選び出された。しかし王国が存在し続けることによって、やがて王の権力がその血によって継承され、「王朝」が形成されるようになるのは自然ななりゆきである。

 この変化を象徴するのが、「花瓶」の逸話の後半部である。この後半部では、花瓶に手を触れることを禁じられたクロヴィスは、このことを根にもち、閲兵式でこの戦士を見掛けた際に、手斧で脳を一撃して殺し、「ソワソンの花瓶をよく覚えておけ」と言ったという。軍事力を維持し続けたクロヴィスは、この絶対的な権力で民事の問題も解決するようになる。「絶対王政は、軍と規律の権力が民事的な権利も組織し始めた時点で始まるのである」(SOC:135)。

 しかし王政は単に存在しつづけるという事実だけに基づいてその絶対的な権力を形成したわけではない。平和な共同体では、やがてゲルマンの戦士ではなく、ガリアの民の中から傭兵を雇うようになる。しかしここで奇妙な連携が成立する。王の権力と、ガリアの貴族たちの同盟である。

 ゲルマンが侵入した時点で、ガリアの地でもっとも不満を抱いていたのは、租税が現物納になって負担が軽減した農民たちではなく、貴族層であった。ブーランヴィリエは、ゲルマンの戦士たちの共同体と農民たちの共同体の関係は友好的なものだったと指摘している。豊かなガリアに侵入したゲルマンは、武器以外になにも所有しない。農耕に携わるのはガリアの住民であり、ゲルマンは戦士の機能を果たすために、一定の貢納を要求するだけだという(SOC:133)。

 この貢納は軽いものではなかったが、ローマ帝国の租税と比較すると重税ではなく、現物納ですむという利点があり、農民たちは平和の代償として、喜んでこの貢納を支払ったという。これと比較するとガリアの貴族たちは、土地をフランクの戦士たちに奪われ、富を失っていた。そして土地を失った貴族たちに庇護を与えるローマ帝国も消滅していた。このため貴族たちは教会に身を寄せていた。

 貴族たちは教会の階層の中にすみかをみつけ、信仰のシステムによって住民の間で影響力を行使し始め、ラテン語の知識を身につけ、ローマ法を学び始める。このローマ法は絶対主義的な性格のものであり、フランクの王たちが同盟者とその権力の理論的な支柱を探している際にみいだしたのが、この教会に避難していた貴族たちだったのである。教会はラテン語の知識、ローマ法、司法の実践によって、絶対王政の重要な同盟者となった。

フランスの貴族の真の戦場[2/18-4]
 権力と富をもつ貴族から法服貴族へという運動はすでにローマ帝国、ローマ帝国の支配下でのガリアで発生していたが、ここでも同じ動きが発生する。そして近代のフランスでも同じような運動が反復されることになろう。ブーランヴィリエがフランク王国の例で指摘しているように、この運動で重要な意味をもつのが、言語の知識と法律の知識だと考えることができる。フランク王国では、ラテン語が国家の言語、知識人の言語、法の言語となったのである。

 しかしここで大きな「ねじれ」が発生する。貴族たちが外国の文明、ローマの遺産を相続することによってある権力を引き継ぐと同時に、貴族たちは別の権力を喪失していったのである。ここにブーランヴィリエの主張の重要な論点がかかってくる。これは、上位にある優越した文明を受け継いだ土着の文明と国家には、ある程度普遍的な問題であり、「ねじれ」であるといってもいいだろう(中華の文明を引き継いだ日本の文明、西洋の普遍的な形而上学を受容した日本の哲学についても、同じことがいえるかもしれないのである)。

 それは、貴族たちが上位の文明の言語(ラテン語)を語ることによって、一つの権力を確立することができたとしたら、同時に貴族たちは別の領域での戦線から「逃亡」していることになるということである。フーコーは、ここにおいて、王と教会が貴族たちに対しては、同じ「罠」を用意していたと指摘している。

 王は貴族たちに法律の言語をゆだねた。教会は貴族たちに信仰の言語をゆだねた。そして貴族たちは、このラテン語という「知」の領域に自分のすみかをみいだすことによって、一つの「無知」に追いやられる。貴族たちは自分の本来の権力のありかである国内の領地から、目を背けてしまうのである。

 ブーランヴィリエは、十字軍がこの趨勢を象徴する事態だと指摘している。イエルサレムの復興を目的とした十字軍は、貴族たちが教会の教えに従って、「来世」だけを重視し、地元の領土について無視するようになったことを象徴的に示すものだというわけである。そして貴族たちが中東で戦っている間に、王と教会は貴族たちからその領土と権利を蚕食していたのである。

 ブーランヴィリエがこうした王と教会の「罠」に対抗するために貴族たちに求めるのは、自らの知を取り戻すことである。ブーランヴィリエは、真の戦いの場は中東ではなく、国内に、社会の内部にあることを訴える。これはもはや「武器によってではなく、知によって」闘われる闘いである(SOC:137)。これからは、歴史の神秘化を避け、みずからの真の歴史を想起し、「歴史の主体」となること、それ以外の方法では、この不可視の闘いに勝利を収めることはできないとブーランヴィリエは訴える。

 フーコーは、ブーランヴィリエが訴えたこの新たな「歴史の主体」の創設のテーマが、18世紀から現代にいたる重要な問題を提起すると考えている。ブーランヴィリエはこの歴史論において、「戦争」のテーマを正面に出したが、この戦争という概念が、社会の一般的な分析にとって、非常に重要な視点を提供するからである。

 フーコーは、ブーランヴィリエがこの戦争の視点を提示するにあって、戦争について三つの一般化を行ったことを指摘している。ブーランヴィリエはまず法の基礎に対して一般化を行い、侵略の事実に対して一般化を行い、最後に侵略に関連した叛乱について一般化を行った。

 戦争は一時的な事態ではなく、社会の根幹にある一般的で普遍的な事態なのである。戦争に対するブーランヴィリエの最初の一般化は、法と法の基礎についての一般化であり、第二の一般化は、戦争の形態についての一般化であり、最後の一般化は、侵略と叛乱という歴史的な事実についての一般化である。

 フーコーは、ブーランヴィリエの戦争論の核心が、この三つの一般化にあると考える。それではブーランヴィリエのこの一般化は、どのような意味をもったものだろうか。

注:Michel Foucault, "Il faut defendre la societe", Seuil/Gallimard,1997(Socと略記します)