戦争と平和
−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義
『社会を守れ』(八)
(中山 元)

★ブーランヴィリエの戦争論
 ブーランヴィリエによる戦争の最初の一般化は、権利と権利の基礎についての一般化である。ブーランヴィリエ以前の一六世紀のフランス・プロテスタントの宗教戦争や、イギリス議会の国王に対する戦争では、既存の法が中断され、覆された。戦争は、新しい法状態への移行をともなったのである。しかしブーランヴィリエが主張する「戦争」は、既存の法体系の転覆を目的とするものではない。ブーランヴィリエの戦争は、法の全体を回復するものであり、一つの自然法を復活させるものである。

 しかしブーランヴィリエが自然法を信奉していたわけではない。逆にブーランヴィリエの戦略は、ローマ法由来の自然法の抽象性を暴くことにあったようである。この自然法は、法として提示されるともはや適用できないものである。ブーランヴィリエは、自然法論者の主張を「脱構築」して、その帰結を提示する。歴史的には自然法ではなく、侵略と征服という赤裸々に事態が存在するのであり、自然法はその歴史的な事態を隠蔽する役割を果たすことになる。自然法の背景には、侵略と暴力が隠されている。

 この事実の事態を隠蔽して、貴族階級と民衆階級の差異と対立をあいまいにすることは、国家の破滅をもたらすとブーランヴィリエは指摘する。ローマやギリシアの盛衰が、その証拠だということになる。ゲルマンの自由は、自然法的な事態を裏付けるようにみえるが、自由とは法の前での平等を意味するのではなく、権力を行使する自由、自分の利益を確保する自由、他者を服従させる自由にすぎない…。それは他者の自由を奪う自由である。ブーランヴィリエにとっては、自由とは平等の正反対の事態を示す。「不平等な力の関係に表現されない自由とは、抽象的な自由、無力で弱々しい自由にすぎない」(SOC:139)。

 ブーランヴィリエは、自然法的な平等の理論について、そのような平等な関係における自由は、抽象的で、仮構としての自由であり、実質的な内容をもたない自由にすぎないと指摘する。歴史の端緒においてこのような自然法的な自由が存在したとしても、このような自由は、不平等で他者を征服する自由に対して対抗することはできないとブーランヴィリエは考える。歴史の法は、自然の法よりもつねに強力である。

 ブーランヴィリエは自然法そのものが存在することを否定するわけではない。ただ、自然法はつねに現実の歴史の法によって征服された弱者の法なのである。現実の法に対する自然法は、ローマに征服されたガリアの民、ゲルマンに征服されたローマ/ガリアの民と同じような位置にある。ブーランヴィリエの最初の一般化の結論は、戦争は単に既存の体制や法の体系を一時的に転覆するものではなく、歴史をその起源から覆っているということである。そのような意味で戦争は「一般的な」ものである。

 ブーランヴィリエの第二の一般化は、戦闘の形態と組織にかかわるものである。戦を戦うのは軍隊であり、だれが軍の実権を握り、軍隊がどのように組織されるかが、その社会全体について枢要な意味をもつとブーランヴィリエは考えた。ゲルマンやフランクのような社会においては、軍隊の権力のありかが、そのまま社会のおける権力のありかを示すというわけである。

 これは近代の社会についてはそのままではあてはまらないようであるが、ブーランヴィリエは単に軍隊の形態がそのままで社会の権力構造を反映していると主張するわけではない。ギリシアにおいて重装歩兵が民主制を可能にし、それを支えたような意味で、社会の構成とその社会の軍隊の構成が密接に関係にあることを主張しているのである。

 ブーランヴィリエがあげているのは、封建社会における貴族と王の権力の関係が、貴族のもつ軍と王のもつ軍の関係、貴族が保持する軍の経済的な基盤を誰が保証するかという問題において、その社会の構造があらわになり、ある意味で決定されるということである。

 軍の構造が社会の構造を決定するわけではないが、軍の構造は社会の構造と無縁なものではなく、軍の構造は社会の構造をあらわにする重要な鏡となる。それはたとえば明治の日本の社会構造と徴兵制の関係、日本の陸軍と植民地支配の構造の関係についても言えることだろう。

 軍の構造から社会の構造を決定すると考えると、これは許容できない一般化であるが、軍の組織の構造や、戦の仕方そのものに、社会の構造があらわになること、そして戦争という場面は、こうした社会の構造がその極端な形であらわになることにおいては、戦争がすべての社会の「秘密」を語るという一般化は可能だろう。

 第三の一般化は、侵略と叛乱という歴史的な事実についての一般化である。これは単に戦争にまつわる歴史的な事実がどのようなものであったかを問題とするのではなく、侵略し、征服した「強者」が現地の社会に同化することで、どのようにして「弱者」となっていったか、また征服された弱者がどのようなプロセスで征服者を征服していったかという歴史的なプロセスを問題とする。

 たとえばガリアでは、フランクの侵入者は土地を取得することによって貴族となる。これによって貴族は農民を支配し、軍を養う富を取得する、これは征服者の富であり、強みである。しかしこの強みが次第にその意味を変えてくる。ブーランヴィリエは、貴族がこのような富を獲得したことで、逆に貴族は固有の弱点をもつことになると考える。フランクの貴族は土地を取得することでそれまでの独立した軍としての強みを失い、しかも国内の戦争だけに専念するあまり、住民の支配、教育、学問などをまったく無視するようになる。

 これに対して、それまでのガリアの貴族は、所有している富をすべて奪われた。これはガリアの貴族の弱点である。しかしガリアの貴族は土地から追われたために教会に身を寄せ、ラテン語を学び、司法の知識を獲得するようになる。領地を奪われたガリアの貴族たちは、知を通じて住民に影響を及ぼすことができるようになったのである。ここにガリアの貴族と征服者であるフランクの貴族との力関係の逆転のきっかけがある。

 征服という歴史的な事件においては、ガリアとフランク、サクソンとノルマンという二つの大集団が軍をもって戦う。しかし征服が行われた後の長い歴史においては、この二つの集団は細分化し、互いに内部で拮抗し始め、それまでは「敵」であった集団の一部と提携することも辞さなくなる。

 ブーランヴィリエが注目するのは、戦争の後のこの複雑な力関係の場であり、彼はこれを別の形の戦争とみるのである。ブーランヴィリエが戦争が社会の全体を浸していると考えるのは、最初の戦争の後に続くこの微細な戦争空間に注目するからである。

 この微細な戦争においては、以前の味方もまた別の形で敵になり、以前の敵もそのままの形で敵であるわけではない。平時の社会を貫くこの戦争の空間においては、「万人は万人にとって狼」であるが、これはホッブスのような抽象的な自然状態における戦争関係ではない。征服という歴史的な事態に続く平時の社会における戦争関係であり、それが社会と歴史の内実を形成するのである。

★戦争と平和
 このようにブーランヴィリエは戦争を「一般化」することで、これまでの歴史家とは異なる視点を提示した。ふつうの歴史家の視点では、戦争は平時の社会との断絶を意味する。しかしブーランヴィリエは戦争が社会の常態を形成し、社会のうちでつねに働いている原動力と考える。平和ではなく戦争こそが、社会の一般的な状態だということになるわけである。

 ブーランヴィリエの観点からは、社会のさまざまな要素、言語、宗教、政治、風習、習慣などは、すべて戦争という事態から理解する必要がある。その根拠は、すでに指摘された三つの意味での戦争の一般化にある。社会を理解するためには、平和からではなく、戦争から出発する必要があるとブーランヴィリエは考える。

 ここで指摘しておく必要があるのは、フーコーはブーランヴィリエの主張が歴史的に正当だと考えているわけではないということである。フーコーは、ブーランヴィリエの主張は誤っていることを、逐一指摘できると主張する。フーコーが注目しているのは、社会を理解するための枠組みとなるのが戦争という概念であり、ブーランヴィリエの主張が誤っていることが確認できるのも、この概念的な枠組みによってであるということである。

 フーコーがブーランヴィリエに注目するのは、戦争という概念によって、社会の内部における力関係を解読する方法のためであり、これはフーコーがこれまで権力という概念で呼んできたものを言い換えたものに他ならない。

 このような社会の内部の力関係を政治的な概念として提示したのは、ブーランヴィリエが初めてではなく、マキアベッリがすでに先駆的な概念を提示している。しかしフーコーは、マキアベッリではこの力関係は支配者が所有する政治的な戦術として記述されており、ブーランヴィリエのように社会の内部において、社会全体に適用されるものとしては考えられていない。

 ブーランヴィリエの戦争の概念は、国nationのレベルで働く一般的な概念であり、帝国とも国家とも異なる国の概念が登場した近代の初頭において、初めて重要な意味をもち始めた概念である。フーコーは、この概念が可能となったのは、国家の内部において国、階級、人種などの概念が成立し、このような政治的な概念の枠組みで、政治と歴史について理解できるようになったことによると考えている。

 一世紀あとにクラウゼヴィッツが、戦争とは別の手段による政治の延長だと言ったとすれば、ブーランヴィリエはすでにこの時代において、政治とは別の手段による政治の延長だと主張していたことになる。フーコーは、歴史と政治を理解するための基盤となる視点を提出したのが、フランス革命における「ブルジョワ階級」であるという一般的な視点を批判しながら、この戦争論において、すでに歴史の新しい味方が登場していることを強調する。

 マキアベッリを引き継ぐブーランヴィリエの政治・歴史的な視点によって、はじめてホッブス的な自然状態とは異なる歴史的な政治理解が可能となったとフーコーは考えているわけである。

★歴史と権力
 さてフーコーは、ブーランヴィリエとともに生まれたものが、それまでにない一つの歴史的・政治的な場であったと考えている。ブーランヴィリエは国家と異なる「国」ナシオンの概念を提示することによって、これまでの正統的な歴史の概念とは異質な場の可能性を示したということになる。

 すでに指摘されたように、ブーランヴィリエの国の概念には、国家の正当性を顕彰するための歴史とは異なる歴史と、その歴史を担う主体の概念が含まれていた。これは十九世紀のミシュレにおいて、国民の歴史として描かれた概念に近い。国家の歴史とは異なる「埋もれた歴史」、国家権力とは異なる場で展開された歴史、あるいは国家権力と正統性を争って敗退した歴史の場の可能性が生まれたということになる。

 またブーランヴィリエが提示した歴史の概念には、新しい権力の概念についての萌芽的な考え方が含まれていた。フーコーは、ブーランヴィリエは、権力をすでに確立された国家において支配者が所有する力のようなものではなく、国のさまざまな集団とその内部での「関係」とみなす視点を提示したと指摘している。権力の「実体論的な」概念とは異なる「関係論的な」概念の萌芽が、ブーランヴィリエにみられると考えるのである(SOC:150)。
  分析の軸を移動させ、重心を移すことによって、ブーランヴィリエはあ
  る重要なことを達成した。まずブーランヴィリエは、権力の関係的な性
  格とでも呼べるものの原則を定義した。権力とは所有物ではなく、勢力
  ではない。権力とは一つの関係にすぎず、この関係が働く項の間におい
  てしか研究することができず、研究してはならないものである(SOC]150
  )。

 このような権力についての視点からは、歴史とは王の歴史でも、人民の歴史でもなく、王と人民という項の間で形成される力の関係の歴史だということになる。このブーランヴィリエの権力論には、これまで人民と王政の関係を考察する際の唯一の視点であった主権論的な観点からの離脱がみられるとフーコーは指摘する。

 ブーランヴィリエは国の歴史を考察するためには、権力という力関係の戯れと支配の歴史的な事実を考察する必要があると考えるのである。歴史に対するまなざしが、法的な主権論から、権力という現象が演じられる現場での力関係へと移行してきたことになる。

 この現実の力関係を重視するという視点は、特にブーランヴィリエだけにみられるものではない。すでにマキアベッリが、君主に対する忠告という形で、この現実的で合理的な視点を提示していたことが想起される。しかしフーコーは、マキアベッリの視点は、あくまでの現実の政治における戦術としての意味を持つもので、それが歴史的な考察となっていなかったことを指摘する。マキアベッリには歴史書はあるが、それは歴史において王と政治の教訓を引きだすためであり、歴史そのものにこの新しい権力論の視点を導入したものではない。

 これに対してブーランヴィリエは、歴史とはこの力関係と権力の戯れそのものであり、歴史は政治の教訓を引き出すテクストではなく、現実にこの力関係が演じられる舞台そのものだと考えたとフーコーは強調する。ブーランヴィリエが考察する歴史的な事象は、当時の王国における政治の実務担当者が考察していた事象と異なるわけではない。しかし王の指揮下にある政務担当者は、それを国家の管理の合理性の原則として理解し、提示していたのに対して、ブーランヴィリエはそれを王国の中における歴史を理解するための原則そのものとして提示する。

 フーコーはブーランヴィリエのこの戦略は、王の宮廷における統治機構とは異なる権力の可能性と、歴史の可能性を提示し、王国の中で自己の権力の所有の可能性を忘却していた貴族層に対して、政治と統治に対して新しい視点を提供することを目的としていたと考えている。これは力関係という政治の場において、新しい視点を提示するだけでなく、この力関係そのものを揺り動かす意味をもつものである。

 自己の権力の可能性に目覚めた貴族層は、王国において新しい政治的な勢力となりうる。マキアベッリの歴史とは異なり、ブーランヴィリエの歴史は教訓を与えるだけでなく、権力の場を攪乱し、修正する役割を果たす可能性があるのである。

★歴史主義について
 さて、このような歴史的な視点は、後に歴史主義と呼ばれるようになった立場とはどのような関係にあるのだろうか。フーコーは、十九世紀以降は、哲学も人間科学も政治学も歴史学も、歴史主義と呼ばれることを嫌悪し、歴史主義批判を展開したことを指摘しながら、この問題を考察する。歴史主義は、学問の汚点のように考えられてきたのだが、それはなぜか。

 フーコーが指摘するのは、この歴史主義と呼ばれて嫌悪されたものが、まさしくブーランヴィリエが切り開いた戦争としての歴史の視点と重なるということである。戦争とは、歴史的な学問によってその限界を定めることも、土台を確定することも、制限を課すこともできなかった事態である。それは戦争がこの歴史という知を横切り、これを規定する事態だからであるとフーコーは考える。戦争と歴史との分かちがたい結び付きが、歴史学を可能にするとともに、歴史主義の根拠となっているというのである。

 ここでフーコーが考えている歴史主義とは、ヴィーコ以来の歴史哲学の伝統や、ディルタイ以来の解釈学につらなる伝統とは異なるものと考えたほうがいいだろう。どちからというとポパーの批判した歴史主義に近い性質のものだろう。しかしポパーの歴史主義批判が、ヘーゲルの歴史哲学や、それに依拠したマルクス主義の「人類史」の批判に向けられていたのに対して、ここでフーコーが考えている歴史主義は、人類史というよりも、現実の権力関係とその歴史的な背景を、歴史的な考察の土台とする「泥臭い」歴史観のようである。

 こうした歴史観は、たとえば日本の近代の歴史論には顕著にみられたと考えることができるだろう。徳富蘇峰や竹越与三郎などの歴史書は、価値からの「超越」を(一応)目指すようにみえる戦後の歴史学とは異なる「泥臭さ」にみちているが、フーコーが考える歴史主義も、このような性質の理論だろう。

 フーコーは、歴史についての「プラトニスム」が、このような現実の権力関係との結び付きを「脱色」し、抽象化することを目指しており、抽象的な歴史学、権力関係に関わらないと自称する歴史学は、みずからの出自に盲目であると指摘する。このように歴史学において、「知と真理が、秩序と平和の審級に属する」ものであり、暴力、無秩序、戦争の側には属さないと考える思考方法は、十八世紀における知の「規律化」disciplinarisationの帰結だという(SOC:154)。

 フーコーは、この規律化が行われた歴史学では、知が現実の権力関係との値に結び付きをもつことは許しがたいと考えることに対して、その出自を洗い出しながら、「歴史主義者であろうとする」(Ibid.) ことにつとめようとする。

 たしかに考えてみると、明治期の歴史家のように、その時代の自己意識を過去「二千五百年」の歴史として捉えることの方が、無色の「歴史学」を自称する学問よりも、時代の空気を反映しているし、その時代のアイデンティティを明確に刻印している。日本では「歴史」というものは、奈良時代の無化しから、そういうものとして考えられていた傾向が強い。

 そう考えてみると逆に、「学問」を目指して、その時代の権力関係から自己を解きほぐそうとする戦後の歴史学も、明確にその時代の空気を示しているといえるのかもしれない。戦後の「無色の」歴史学が、その「プラトニズム」によって伝えようとしたメッセージは何だろう。ここにはまだ考えてみるべき問題がある。

注:Michel Foucault, "Il faut defendre la societe", Seuil/Gallimard,1997(Socと略記します)