科学と哲学-一八世紀の知の空間
−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義
『社会を守れ』(九)
(中山 元)

●悲劇と権力の劇
 フーコーは歴史主義について検討した後で、悲劇の考察に入る。ルネサンスの悲劇や古典悲劇には、歴史を主題にとった悲劇が多いことは周知のことだろうが、フーコーは単に悲劇において歴史が「主題」として取り上げられただけではなく、この時期の悲劇が「法」の問題を中心的なテーマとして構成されていたと考えている。フーコーは後年にいたるまで、悲劇における法のテーマの重要性を指摘してやまない。

  ある個人がどのようにして暴力、陰謀、殺人、戦争などによって、平和、
  正義、秩序、幸福を統治しなければならないはずの公的な権力を簒奪す
  ることができるか。非正統性がどのようにして法を作り出すことができ
  るか。同時代の法の理論と歴史は、公的な権力を中断させずに連続性を
  織りなすことにつとめていたが、これとは反対にシェイクスピアの悲劇
  は、王たちの暴力的な死と正統性に欠けた王権の即位という出来事の中
  で、王国の身体が被るこの傷、いわば繰り返される傷とでもいうものに
  熱中する(SOC:155)。

 フーコーは、イギリスのシェイクスピアの悲劇、フランスのコルネイユとラシーヌの悲劇は、公的な権力の問題を儀礼において再確認し、想起する営みであると考えている。そう考えてみれば、ギリシア悲劇も同じテーマを軸として展開されていなかっただろうか。小説とノルム(規範)の問題が結び付くように、悲劇と公的な権力の問題は結び付くのである。

 ただし、イギリスの悲劇とフランスの悲劇には明確な違いがみられるのはたしかである。フーコーはフランスの悲劇の特徴を次のように指摘している。まず、フランスの悲劇で描かれたのは、古典古代の王であった。それはイギリスとは異なり、ルイ十四世をはじめてとするフランスの国王は、古代の王政の継承をうたっているからである。

 フーコーは、ネルとルイ十四世の間には、権力の種類のと王政の形式において、本質的な違いはないと考えている。王国の構造が同じであり、権力の種類が同じであれば、ローマ帝国の王政について描きながら、同時代の王政について描くことに困難はないのである。

 たしかに孤独な皇帝であったネロと、宮廷で貴族たちに囲まれていたルイ十四世の世界は異なるかもしれないが、宮廷の世界もまた権力の世界として描くことは可能であり、ローマの帝国に宮廷を想定することも不可能ではない。そしてフランスの古典時代の悲劇は、この宮廷が作り出した媒介的な空間を破壊しながら、権力の本質を描き出そうとする。

 フーコーはついでのように、ラシーヌの「情念の悲劇」について言及している。コルネイユの悲劇とは異なり、ラシーヌの悲劇は権力と人間の情熱がぶつかりあう「劇」を直接的に描きだすものではない。しかしフーコーはこの劇は儀礼を逆転させながら、破壊された儀礼を描いていると指摘する。

 ラシーヌでは儀礼、権力、主権は人間に、情熱に駆られ、怒り、復讐心に衝き動かされ、謹慎相関的な欲望に苛まれる人間に分解される。王政の核心において、王の身体が死に、分解し、そして再生する。ルイ十四世はラシーヌに、王であるという出来事の歴史、「権力であることの歌」を描くことを求めたのである。

●一八世紀の知の空間
 すでに述べたように、フーコーは悲劇論については大きな思い入れがある。、フーコーは悲劇においてあらわになる原初的な法の関係にとても魅惑されていて、晩年のパレーシア講義でも、ソフォクレスの『オイディプス王』の新たな解釈を展開しているほどである。「法と真理」というテーマは、フーコーの畢生のテーマの一つだったといっても誇張ではないかもしれない。

 ところで歴史論に戻ると、王権と歴史文書および歴史データの関係が、この十八世紀にはそれまでにない新しい政治的な意味を帯びてきたことを、フーコーは強調している。歴史的なデータとその物語は、王権の正統性を主張する武器であると同時に、ブーランヴィリエが可能性を実在したように、貴族の側から王権の正統性を疑問とするための武器ともなりうるものだったからである。王権は十八世紀末に、歴史という空間を管理する必要性を感じ始めたのである。

 しかしこれは単に歴史学の歴史的な経緯の問題だけとしてはではなく、十八世紀の学問の全体的な傾向から考察する必要があるとフーコーは考える。フーコーは、『百科全書』に代表されるフランスの啓蒙時代の学は、知識というものを独立して考えるのではなく、それがどのような経緯で誕生したきたかという系譜学的な考察と、その知が現実の社会と経済の場において、どのような効用を備えているかという技術論的な考察を基盤としていると考えられるとみているようである。

 『百科全書』で地中の貴金属がどのようにして採掘され、それが現実の経済にどのように利用されていくかが図解されていた挿絵が思い出されるが、この時代の知の特徴は、中世のような博物学的な興味からではなく、人間が生きる経済的な空間においてどのような価値を持つかという観点から、知が考察され、構築されるようになることだろう。この時代の知についての本来の学問的な考察は、経済的および政治的な価値の考察と、不可分で切り離せないものとして登場してくるということだろう。

 フーコーのここでの議論の文脈では、歴史学も地理学や鉱物学や生物学の考察と同じように、単なる古文書の解読や、古代以来の(トロイ伝説を引き継ぐ)歴史譚についての考察ではなくなり、現実の経済的な空間において経済的な効用を備えた知として登場するようになり、王権はこの知の空間を統御し、自らの権力の正統性の強化に役立てることを、重要な課題とみなしたのである。

 フーコーは、王権がその目的のために四つのプロセスを活用したと指摘している。第一のプロセスは、このような目的のために役立たない「無益な」知を排除する作業である。瑣末な知、雑多な知を排除して、有用で価値のある知だけを、この空間の内部に残すべき知として維持する。これは逆に、知の価値を判断する基準を、現実的に有用性に求めるということであり、雑多な知を排除するとともに、知の秘教的な性格も剥奪されることを意味する。

 第二のプロセスは、これらの知を規格化し、異なる領域の知を互いに比較可能にし、異なる分野の知によって相互に検証できるようにするものである。これは地理的な境界や技術的な境界を打破し、それまでの知の「象牙の塔」としての地位を打ち破り、現実の世界における価値に基づいて相互に比較し、交換可能なものとすることを目的とする。これは知そのものではなく、知を所有する者(学者)を交換可能にすることに特徴がある。

 第三のプロセスは、これらの知を分類し、階層構造として秩序づけることによって、知の階層が形成される。この階層構造では、もっとも個別的で具体的な知が最下位におかれ、もっとも形式的で一般的な知が最高位におかれることになる。

 第四のプロセスでは、この階層構造に基づいて、知の体系をピラミッド型の中央集中構造に変形することができようになる。これによってすべての知をこの体系の特定の箇所に位置づけ、下位の知からはその具体的な内容を取り出し、それを上位の知で一般的、形式的、普遍的な形で考察できるようになる。知そのもののヒエラルキーが構成され、知の価値はこの階層構造のうちにおいて占める価値と等しくなる。

 フーコーのこの十八世紀の知の階層的な再編成についての議論は、『言葉と物』における表象空間の理論と比較してみると興味深い。『言葉と物』においては、王の位置の象徴性が重視されていたが、この講義では王権の歴史に対する具体的な戦略として、知の階層構造の形成が取り出されるところが特に興味深い。

さらにこの十八世紀的な知の体系に対する指摘は、こうした体系から排除された「マイナーな知」についてのまなざしと重なることを指摘しておくべきだろう。この講義の最初の部分で、フーコーはこうした「マイナーな知」の価値を強調していたが、それは現代でも失われたわけではないこうした知の階層的な空間のなりたちに対する批判によって裏付けられているのである。

●「科学」の誕生
 フーコーは、一八世紀に新たに登場したこの歴史的および科学的な視点は、一八世紀の知的な空間全体を貫いていたことを指摘している。『百科全書』は専制的な政治体制に対する批判としての役割を果たしながらも、「技術的な知の規格化」(SOC:161)という方向性では、王政とまったく一致していたわけである。

 ここで興味深いのは、この一八世紀的な知の規格化によって、「科学」が成立したとフーコーが考えていることである。それまでは諸科学は存在していたが、大文字の「科学」は存在しておらず、すでに指摘された四つの手続き(選別、規格化、階層化、中央への集中)によって、純粋な科学そのものが成立したとフーコーは指摘する。

 そして純粋な科学の誕生とともに、哲学の役割の一部が消滅する。哲学はこの純粋な科学の内部ではもはや機能しなくなる。これは、デカルトやライプニッツの遠望していた普遍学としてのマテシスについてもあてはまる。科学が哲学とマテシスを引継ぎ、固有の領土を確立するとともに、哲学ではなく科学が、「知の規律を定めるポリス」(Ibid.)としての役割を受け継ぐのである。

 ニュートンにおける「自然哲学」から近代の科学的な思考への変遷をあとづける科学史的な考察は多いが、フーコーのこの記述も、この重要な転換についての興味深い論点だと思う。古来から哲学はさまざまな学の中枢にあり、学そのものでもあった。アリストテレスの「哲学」がどのような構成だったかを考えてみても、そのことは明らかだろう。

 そして近代的な科学の誕生のプロセスは、哲学の領土から、さまざまな学が次々と誕生するとともに、それまでの哲学の役割を奪っていくプロセスでもあった。数学が、天文学が、物理学が、化学が、自然科学の固有の学問分野としての領土を確立するとともに、哲学はこれらの領土から締め出されるのである。

 これは自然科学だけにあてはまることではなく、法律などの「人間科学」についてもあてはまるものである。ヘーゲルはすでに一九世紀の初頭の「自然法論」において、このことを指摘していた。自然法という理念は哲学的な概念であったが、法学の分野が独立した学として認められるようになるとともに、哲学はこの領域について口をはさむことを拒まれるたのである。

 フーコーはこれによって知の領域にいくつかの重要な変化が生じたことを指摘している。一つは、現代的な意味での「大学」の登場である。中世以降の大学の歴史は、カントの『学部の争い』にみられるような神学と哲学の争いの歴史とみられることが多いが、フーコーが指摘するように、哲学と科学の争いとみることもできるはずである(最近のフランスの教育当局の哲学に対する姿勢はその一つの帰結とみることもできるだろう。これについてはデリダの活動を想起されたい)。

 ただしフーコーは、これを理念の争いとみるのではなく、大学と新たに登場した純粋な「科学」の内部での手続きが必然的に生んだ帰結だと考えている。一八世紀以降の四つの手続きにしたがった知の規格化が、学の選別と階層化の帰結として、哲学を諸学の中の一つの学として位置づけ、この習得の手続きを定めるとともに、これを学ぶべき特権的な場として、大学を確立する。

 だからこの大学で哲学が医学や法学に優位を占めるか、それとも哲学が科学の「はしため」となるかどうかは、それほど重要ではないことになる。近代的な科学の誕生によって促された大学の質的な変容によって、哲学がこれまでの伝統的な領土を奪われ、一つの学科となることは、必然的ななりゆきと考えるべきだからである。

 フーコーが指摘している第二の変化は、これによって発語の真理性を保証するものが、その発語そのものではなく、ディスクールの内的な分節、発語する主体の位置、発語の場に移行したことである。『言葉と物』で指摘されていたように、科学が科学として登場するとともに、中世的な博物学のような発語の場そのものが消滅し、どのように分節された場において、どのような主体が、どのような文脈とまなざしで語るかが決定される。そしてある発語の真理性を保証するのは、発語そのものではなく、この発語の場になるのである。

 この真理性についての視点は、フーコーのコレージュ・ド・フランスの開講演説で述べられてことを反復したものである。真理の場についての議論は、カンギレームの議論を引継ぎながら、『知の考古学』でもすでに指摘されていたものである。さらに科学的なまなざしについては、『臨床医学の誕生』で詳しく指摘されていた。

 フーコーはこの講義では、こうした視点を引継ぎながらも、それが歴史に対する見方の変動と軌を一にしていることを明らかにしようとしているのである。知の枠組みに対する歴史的な変化が、歴史そのものについての見方の変化と重層していることを指摘するフーコーのこの見方は興味深い。

 ハーバーマスは『近代の哲学的ディスクルス』において、同じ歴史的な文脈において、哲学はもはや諸学の基礎づけを行う能力を喪失しており、科学に奉仕するという傍流的な地位に甘んじる必要があると指摘していた。しかしフーコーは、哲学的なディスクールと科学的なディスクールのランクづけには、それほど興味を抱いていない。フーコーが重視しているのは、両方のディスクールを支える分節そのもの、両方のディスクールの真理性を保証する場の権力性だというべきだろう。フーコーがこの講義で、マイナーな知の重要性を繰り返し指摘していることは、こうした視点からも考えるべきだと思う。

●国家体制と体質
 さて、これまでフーコーはかなり道草しながらも、18世紀の初頭の政治的なディスクールの場において、歴史のディスクールが一般化され、政治化されてきた状況を分析してきた。この3月3日の講義では、フーコーはこの歴史的なディスクールの問題を、フランス革命の時期に焦点を当てて考察しようとする。

 フーコーによると、このフランス革命の時期において、歴史的なディスクールに二つの顕著なプロセスが確認される。一つは、すでに確認された一般化のプロセスがさらに進行し、それが政治的なディスクールの戦術的なレベルにまで浸透したことである。本来は貴族層が自己の政治的なアイデンティティを確認し、王政に対して対抗しながら独自の政治的な地位を確立するために利用した歴史的にディスクールが、だれでも利用できる「戦術的な道具」(SOC:169)となったのである。

 第二のプロセスは、この歴史的なディスクールが政治的な場における三つの戦いの場に分節されて、三つの異なる戦術に分岐するプロセスである。一つは国民性についてのディスクールであり、これはフランスの国家と国民としての継続性と連続性に重点をおくものであり、言語という側面を中心とする。これは文献学を戦いの場とする。第二のプロセスは社会階級を焦点とするものであり、経済的な支配が議論の的となる。これは経済学を戦いの場とする。第三の方向は人種を焦点とするものであり、生物学的な特殊性と選択に重点をおく。これは生物学を戦いの場とする。

 フーコーが自ら指摘しているように、これは「語ること」「労働すること」「生きること」という三つの領域であり、『言葉と物』において分析された近代のエピステーメーの「系譜学」の三つの主要な領域そのものでもある。近代的な学と概念が登場したこの人間学のの諸学において、歴史的なディスクールがさまざまに織り上げられていくことになるのである。

 しかしそれではなぜこの近代のエピステーメーにとって枢要な分野において、歴史的なディスクールが「武器」として、「戦術的な道具」として活用されるようになったのであろうか。ここでフーコーは、ブーランヴィリエが果たした役割に再び注目する。

 ブーランヴィリエはフランスの国家の統一性のうちに、征服者と非征服者、フランクとガリアという対立する視点を持ち込んむことで、自己の階級的なアイデンティティを確認するとともに、政治の場における基本的な対立の構図を持ち込んだ。この対立は貴族と王の対立という現実的な性格をそなえていると同時に、それがはるか昔の歴史的な「史実」であり、それは想起することによってしか現実のものとならないという仮構的な性格をそなえていた。

 フーコーは、18世紀のフランスにおいて、この歴史的なディスクールによって自己のアイデンティティを確立するという方式が、政治の場にある新しい視点を導入することになったと考えているようである。それは現実の政治、あるいは現実そのものを、さまざまな諸力の対立と拮抗の場とみるという視点であり、政治を生物体のアナロジーで理解する可能性を提供するものだったようである。

 ギリシアの昔から、人間の身体をさまざまな要素の拮抗と調和と考える見方が伝統的であった。ヒポクラテスは、人間の病は体液のバランスの崩れによって発生すると考え、人間の体液を血液、粘液、黒胆汁、黄胆汁の四種類に分解して考察した。疾病論は人間の体液論であり、同時にどの体液が支配的であるかに応じて、人間の体質(constitution)論ともなる。

 フーコーはブーランヴィリエの役割は、政治体制をこのようなさまざまな力のバランスと、力の変動の変化としてみる視点を導入したことにあると考えている。政治体制(constitution)は、明文化された憲法(constitution)によって決定されるものであるが、この憲法や体制を構成するのは、その政治体の歴史的な背景であり、その国家の「体質」(constitution)だということになる。モンテスキューが指摘したように、一つの社会はその社会に固有の憲法を所有するが、ブーランヴィリエが果たした基本的な役割は、政治と法の理解にこのような対立する諸力の均衡という視点を持ち込んだことにあるといえるだろう。

●原始人と野蛮人
 この体質という概念が、政治において重要な役割を果たすようになるのは、考えてみると、少し意外なところがある。この概念を人間の体質という側面に近付けると、人間の体質は(たとえば粘液質であったら)変えようがなく、健康というものは、その体質にあった生活や食事をすることにあると考えられがちだからである。

 しかしフーコーは、ブーランヴィリエがこのconstitutionの概念に、力の変動としての周期性の概念(revolutionという天文学の古い概念)を導入して以来、革命と憲法が重要な結び付きを確立したと指摘する(SOC:173)。ブーランヴィリエはこの結び付きの意味を考察するなかで、歴史の新しい意味をみいだそうとする。

 これについては、ルソーの自然の概念が同じような意味をもっていたことに注目する必要があるだろう。自然状態と自然人という概念は、既存の国家体制(constitution)の批判(と転覆)の視点として、人間の自然な状態と自然性を提起するものであった。そしてこの「自然」という概念は、人間の原初の状態であると同時に、将来実現されるべき理想の状態でもあるという二重の役割を果たしていた。

 ということは、ルソーの自然の概念には、歴史の周期性の概念、すなわち以前の状態が再び到来するという天文学的な概念が含まれていることを意味する。ルソー自身は「自然に帰れ」とは言っていないと思うが、ルソーの自然状態の概念には、ルソーが手本にしたイギリスの政治哲学における自然契約とは明らかに異なる性質の歴史性の概念が含まれていると思う。同時代人がただしく「誤解」したように、ルソーのこの概念には、人間の歴史の原初に好ましい状態があり、それが回帰することが望ましいという理想的な価値が含まれていたはずである。

 これに対してブーランヴィリエの歴史性の概念は、このような自然契約の哲学と「自然人」の概念を模索するものではないようである。ブーランヴィリエはこのような意味での原初的に歴史に立ち戻ろうとするのではないことは、ブーランヴィリエのガリア論から理解できるだろう。

 さらにブーランヴィリエは、経済学の分野から生まれた自然人の概念、たとえば労働と交換の主体としての(歴史的な社会性を抽象した)自然の人間の概念にも批判的である。
  ブーランヴィリエとその後継者の歴史的・政治的なディスクールが望ん
  だのは、歴史的・法的な原始人、森から出てきて契約し、社会を創設す
  る原始人の概念を排除すると同時に、物々交換を行う「ホモ・エコノミ
  クス」としての原始人の概念である(SOC:173)

 フーコーは、一八世紀から一九世紀の法律、人間学、経済学、政治哲学の分野のディスクールで重要な役割を果たした自然人の概念は、「交換する人間」だったことを指摘する。自己の労働の産物と他者の労働の産物を交換する人間、自己の生存の保証のための自己の自由を交換として差し出す社会契約の人間、労働の代償として教養を積む人間学的な人間。これらはいずれも自然で抽象的な場において、自己の利益のためになにかとなにかを交換する人間の像を基礎としている。一八世紀以降の社会における自己理解において、この原始人の像は重要な役割を果たしてきたのである。

 この原始人の概念は、実は非常に仮想的なものであることに注意しよう。現実の社会において、この原始人は存在しえないし、してはならないものである。現実の世界において存在しうるのは、野蛮人である。原始人sauvageは、交換して社会を形成した瞬間に、社会人に変わる。社会の中での原始人というのは、基本的に社会哲学では認められない。

 これに対して野蛮人barbareという概念は、文明化された社会と文明化されない社会が同じ時代において共存することを想定する。野蛮人は、文明にあこがれるか、文明を軽蔑する。「破壊しようとするか、同一化しようとする文明がなければ、野蛮はない」(SOC:174)のである。原始人は自然と社会の境界で登場するが、野蛮人は文明と非文明の境界で登場するのである。

 この一八世紀になって、ヨーロッパの地平が広がるとともに、新しい「原始社会」についての知識が増えはじめる。その代表が、南米から連れてこられた「人喰い人種」だろう。この小さなカニバルたちをめぐって、一八世紀のヨーロッパではさまざまなディスクールが展開され、ルソーの原始人の再来のように言われたりもしたのだが、フーコーが指摘するように、原始人が現実の社会に登場しうると考えるのは、実はおかしなことだろう。


注:Michel Foucault, "Il faut defendre la societe", Seuil/Gallimard,1997(Socと略記します)