国家についての新しいディスクールの登場
−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義『社会を守れ』(11)
(中山 元)

★ブーリンヴィリエのディスクールの位置
 さてフーコーはこれまでこのようにブーリンヴィリエの時代の歴史的なディスクールを分析してきた理由について、次の二点を強調する。

 まず第一に、ブーランヴィリエがこのような座標軸を設定したことで、フランスにおける歴史的なディスクールの場が確立されたということである。フーコーはこのディスクールの場は一種のエピステーメーのような位置をもつことを強調する。
   このように、すべての歴史的なディスクールに非常に緊密なエピステーメーの枠
組みが生まれた…。このエピステーメー的な枠組みが非常に緊密なものであったという
ことは、だれもが同じように考えるということを意味するものではない。逆に、これは
まさにだれもが同じように考えないための条件であり、異なった仕方で考えるための条
件、この差異が政治的に意味をもつための条件なのである。異なった主体が話し、戦術
的に対立した位置を占めることができ、互いに敵対者としての位置を占めることができ、
これによって対立が知の秩序においても、政治の秩序においても、「対立」としての意
味をもつためには、非常に緊密なこの場が存在し、この非常な緊密な場が政治的な知を
規制するということが必要だったのである(SOC:185)。

 フーコーがこの時点でもエピステーメー的な考え方をしているのは、興味深い。もちろん『言葉と物』の頃のように、知の全般的な枠組みとしてのエピステーメーではなく、歴史についてのディスクールが可能となる条件としてのエピステーメーを考えているわけだ。わたしはエピステーメーという考え方は、近代のエピステーメーのようなものよりも、こうしたそれぞれのディスクールにおけるエピステーメーを考える方がうまく使えるような気がする。

 さてフーコーは、この歴史的なディスクールの場の確立にこだわった第二の理由として、エピステーメー的な問題ではなく、フランス革命においてブルジョワジーが歴史的なディスクールにおいて占めていた位置という事実の問題を指摘する。第三身分であるブルジョワジーは、メロヴィング王朝にさかのぼっても、フランク族の侵入の時点にさかのぼっても、自分たちの主張の根拠を示すことはできない。この時代の権益者は王であるか、貴族であるかだからだ。ブルジョワジーは歴史的な自分の権利を主張することができない。

 フーコーはこの事実のために、十八世紀においてはブルジョワジーは歴史的なディスクールの場にほとんど登場しなかったことを指摘する。王や貴族とは異なり、ブルジョワジーは反歴史主義的だったわけだ。フーコーはこの反歴史主義について次の二つの事実を指摘する。
 
 まずブルジョワジーは十八世紀の前半を通じて啓蒙専制政治を好んでいたが、それはこの政治体制が歴史に依拠したものではなく、知、哲学、技術、統治に基づく「制約」に依拠していたからだという。さらに革命までの十八世紀の後半には、ブルジョワジーは反歴史的な体制(constitution)を要求することで、周囲の歴史主義から脱却しようとしたという。フーコーはこの時期の政治的なディスクールにおいて自然法と社会契約が重視されたのは、こうした反歴史主義が働いていることを指摘するが、これは興味深い。ルソーなどの体制構想の背景に、こうした歴史的なディスクールの場の形成が逆の形で作用していると考えているわけだ。

  フランス革命前と革命初期の十八世紀末のブルジョワジーのルソー主義はまさに、
権力の理論と分析の場において戦っていた他の政治主体の歴史主義に対する一つの回答
に他ならない。ルソー主義が、野蛮に訴え、契約に訴えたのは、野蛮、野蛮の歴史、文
明との関係によって規定されていたこの風景から脱却するためである(SOC:186)

★革命における歴史のイメージ
 もちろん革命とともに、革命の内部でも歴史的なディスクールが登場せざるを得ないが、それはこのようにして形成されてきた歴史的なディスクールの場に対する「反応」という側面をもつことを、フーコーは指摘する。革命のディスクールにおいて、歴史のディスクールは一八世紀までのような侵略の歴史ではなく、革命にとって特別な意味をもちうる歴史的な時期に復帰するという形を取るのである。

 一つは古代ローマへの復帰である。周知のように革命においては古代ローマのイメージとシンボルが愛用された。徳の共和国としてのローマのイメージが、新しい共和国に重ねられる。革命祭典は、ローマの祭典となる。別のイメージとして、シャルルマーニュ王のイメージがある。フーコーは一七九〇年七月一四日のシャン・ド・マルスの連盟祭の祭典は、カロリング王朝的な祭典だったと指摘する。

 先年のフランス革命二百年祭で、クロヴィスの改宗がテーマになったことを思い出す。革命の初期では、封建時代の初期の王政との連想で、自由と結び付ける考え方が可能だったわけである。ミシュレは国王たちの連盟と国民の連盟が対立する中で開催された一七九〇年のこの祭典について、次のように語っている。国王の処刑はまだ一年半後のことである。
  大多数の連盟兵たちは、かの善良なる市民王に赤子の愛情をもっていた。過去と未来と、つまり王政と自由とが、彼らの感情においてないまぜられ、ごっちゃになっていた。拝謁を仰せつかった何人かは、ひれ伏し、彼らの剣をさしだし、彼らの心をさしだし…(ミシュレ『フランス革命史』桑原他訳、中央公論社139)。

 またフーコーは、祭典の数週間前にジャコバン・クラブにおいて、祭典の際にルイ一六世から王の称号を奪い、皇帝の称号を与えることが提案されたことに注目する。「命じれども統治せず」としての皇帝とすることが提案されたわけである。フーコーはナポレオン帝国において、このローマの夢とカロリング王朝の夢が重なった形で復活することを指摘する。

 また革命においては、封建制とフランク族の移住というブーランヴィリエ的なイメージを逆にとったディスクールも利用される。侵略者をその故郷に戻せと主張するわけである。シェイエスは有名な『第三身分とはなにか』の論文で、王や貴族たち、この征服者の子孫と名乗るものたちを、フランクの森に送り返せとアジるのである。これは皇帝の称号を与えるという議論よりは、わかりやすい(笑)

 フーコーは最後にゴシック・ロマンについてふれる。これはどうも同時代のイギリスのゴシック・ロマンだけではなく、革命期の歴史小説を含めて考えられているらしい。ぼくはあまり詳しくないのだが、文学史でロマン・ノワールと分類される小説のことだろうか。フーコーはこれらの小説には、封建制への嫌悪感が表現されていると考えている。封建制の時代の専制的な権力の行使への批判がこめられていると考えるわけだ。

 フーコーはゴシック・ロマンは政治小説であり、SFであると指摘している。政治小説であるのは、これが権力の濫用についての小説だからであり、SFであるのは、ゴシックについての知と封建制についての知が想像力のレベルで駆使されるからだという。SFという評価もおもしろいが、とくに革命とその後の時期においては、歴史小説が政治小説としての意味をもつ場合があることは、十分に理解できる。

★国家の新しい定義
 この時代の歴史のディスクールにフーコーが注目するのは、一八世紀において政治について理解するための原理の「戦い」が展開されたのは、歴史的なディスクールの場だったと考えるためである。政治的な原理の基本的な枠組みを形成したのは、法に関するディスクールでも、社会契約、自然状態、野蛮などについての有名な政治理論についてのディスクールでもなく、歴史に関するディスクールだったというこの指摘は面白い。

 一八世紀の政治原理については、ルソーとイギリスの政治哲学者たちのディスクール、すなわち自然状態と社会契約のディスクールが中心になると考えがちだが、フーコーはそれよりも歴史的なディスクールが重要だったと指摘するわけであり、なかなか興味深い。一九世紀の明治日本における国学−天皇論の系譜と人権思想−アジア主義の系譜の拮抗関係における歴史的なディスクール(当時はかなり過激なディスクールが展開されたはずだ)と考えあわせてみるとおもしろいかもしれない。

 閑話休題。フーコーはフランス革命以降においては、歴史を構成した戦争についてのディスクールが次第に再配置され、戦争の重要性を低下させていくと考える。そしてある内的な弁証法のもとに、戦争についてのディスクールが歴史を構成するという役割から、社会を保護するという役割に移行するという。戦争が社会と政治的な関係の存在の条件ではなくなり、政治的な関係の存続のための条件となると考えるわけだ。戦争に社会を防衛する役割が与えられたのがこの時期だとフーコーは考える。

 フーコーの講義では話が飛ぶので少しわかりにくいが、ブルジョワジーがそれまでは無縁なものであった歴史的なディスクールを自己のものとするためにはなにが必要だったか、実際にどのような視点から、歴史をブルジョワ的なものとすることができたかを考えてみようということだろう。

 フーコーは、歴史的なディスクールが内部で弁証法的な運動を遂げ、ブルジョワ的なものとなるためには、すでに貴族たちが使ってきた「国家」nationの概念を歴史的な概念としてではなく、政治的な概念として作り直す必要があったと指摘している。それによってはじめてブルジョワジーは歴史について語れるようになったというわけだ。

 フーコーはそのためにシェイエスの有名な『第三身分とはなにか』のテクストを検討する。ここではいくつかの重要な転換が発生しているという。フーコーはまず国家の概念についておさらいをする。絶対王政では「国家」は存在しない、あるいは国王という人物の中にしか、国家は存在しないと主張してきた。

 この王権神授説は、ある領土に人々が居住して、同じ言語を話し、同じ習慣をもち、同じ法律をもって「国」を形成していることを否定するものではない。しかしそれは国家のために必要な条件ではない。国家が存在するのは、これらのすべての人々が、国王という生きた身体をもつ人物との間で関係を形成する限りにおいてのことである。この国王の身体が、臣下のそれぞれとの間に身体的・法的な関係をもつ限りにおいて、国家が存在する。

 この国王の身体という国家に対して、貴族たちがさまざまな関係を結ぶのであり、戦争と支配も、この国王の身体との関係を通してはじめて可能となる。貴族たちの描く歴史も、この視点からしか理解できない。

 これに対してシェイエスでは国家は二重の意味で定義されていることをフーコーは指摘する。一つは法的な国家etat juridiqueである。シェイエスは、国家が存在するためには、共通の法と立法府が存在する必要があると指摘する。これが彼の最初の定義であり、ここには国王は含まれない。国王の身体も統治も不要である。立法府が存在し、これが共通の法を確立するだけで十分なのである。

 しかしシェイエスのこの定義は、貴族の国家の定義よりは多くのことを要求する。ブーランヴィリエのような貴族階級の歴史家は、国家の歴史が存在するためには、特定の利害関係のもとにまとまり、共通の習慣や言語を使う人々がいれば十分だと考えていたからだ。

 ただしシェイエスのこの定義は、国家が存在するために必要な条件にすぎない。国家が存続するための条件は、法−立法機関だけでは不十分である。法が施行され、立法機関がその正当性を認められ、国家が歴史のうちに存在するためには、別の条件が必要である。フーコーはシェイエスが二つのグループの条件を考えていることを指摘する。仕事travauxと機能fonctionsである。

 仕事としては、農業、工業と手工業、商業、芸術がある。また機能としては、軍隊、教会、行政府がある(フーコーはこれを機能と装置と呼び直す)。シェイエスが国家の条件に法−立法組織だけでなく、この機能と装置を追加したことによって、国家についてのディスクールの方向性が一変するとフーコーは考える。

★国家の新しい定義の帰結
 フーコーは、シェイエスの新しい国家の定義は、これまでの国家についての分析、絶対王政の分析やルソー主義による分析とはまったく違う方向に進むものだと指摘している。

 たとえば絶対王政の国家の定義においては、シェイエスのあげた商業や農業などは国家の条件と呼べるものではなく、国家が存在することではじめて可能となるものであり、国家の効果のようなものである。またルソー主義の定義では、草原や森に済む人々が、こうした活動をするために国家を設立する。ここでは商業や農業は、国家の目的である。また軍隊や教会なども、国家の条件ではなく、国家の存続を可能になる装置である。国家が設立されてはじめて、軍隊や教会などの装置も生まれるのである。

 しかしシェイエスは国家のあとにこうした機能や装置を考えるのではなく、その成立のための条件として措定する。商業や農業を営む商人や農民が存在しなくては、そして軍隊や教会を形成する個人がいなくては、国家は歴史のうちに登場することができないことになる。国家が第三身分を生活させるのではなく、第三身分が国家を設立することができることになる。第三身分だけが農業や商業を営むからである。そして装置の機能を確保しているのは、ほぼすべてが第三身分だからである。

 シェイエスが主張するのは、このように第三身分が「すべて」であるにもかかわらず、そのことが正式に認められていない。またさまざまな法律が存在し、あるものは貴族に、あるものは第三身分に適用される。「共通の法律」が存在しない。また立法府も存在しない。法律は王の宮廷で定められるからだ。

 フーコーは、シェイエスのこの分析からいくつの興味深い結論が生まれることを示している。しかもこれは政治的な性格のものである。最初の結論は、フランスは国家ではないということだ。共通の法と立法府という法的な条件を満たしていないからである。逆に「第三身分は国家そのものである」ということになる。貴族たちは機能を果たさない。貴族たちは装置の一部しか構成しない。これに対して第三身分はこれらのすべてを備えているからである。この第三身分がすべてであるという政治的なディスクールは、シェイエスだけのものではなく、一八世紀以降の政治的なディスクールの母胎となるとフーコーは指摘する。

 この「政治的なディスクールの母胎」について、フーコーは二つの特徴があると考えている。貴族的なディスクールとは対照的に、このディスクールには普遍性という特徴がある。貴族は、国王と臣下で形成される国家のうちから、貴族に固有の権利を特別なものとして取り出すが、これは貴族の血によって押印され、戦争における勝利によって確証されたものである。これは国家の普遍性を否認しながら、貴族身分の固有性を主張するものである。

 これに対して第三身分は、自分たちは他の人々とともにはじめて国家を構成することができるが、第三身分が構成する国家だけが真の国家となりうると主張する。第三身分は国家の全体ではないかもしれないが、国家の全体となりうる存在である。そしてこのような条件を備えているのは、第三身分だけである。だから第三身分だけが普遍的な国家となりうるのである。

 第二の特徴は、権利請求の時間的な軸の逆転である。これまでは、国家としての権利を請求することができるのは、合意によって認められた法、戦争における勝利によって定められた法、侵入によって定められた法など、過去のある時点で定められた法律であった。しかし今後は仮想的な未来において、権利の請求が行われる。この未来はすでに現在に到来して、現前している未来であるが、過去の事実に依拠するものではないことに注意が必要だろう。機能も装置も、過去の存在ではなく、将来の活動からその正当性を受け取るからである。

★新しい歴史のディスクール
 フーコーはさらにシェイエスの分析の政治的な帰結の他に、理論的な帰結と歴史のディスクールの面での帰結を考えている。このシェイエスの国家の定義は、古代の歴史、祖先、過去にかかわるものではなく、「国」Etatにかかわるものだということだ。フーコーは、国家というものが他の諸国との関係で定義されるのではなく、国家そのものの「力」によって定義されるようになったことに注目する。国家の威勢のようなものは、他の諸国を支配する力ではなく、国の機能と装置の本来的な力の強さから生まれることになる。

 また歴史のディスクールに関しては、これからは国の問題が歴史のディスクールに登場する。もちろんこれまでも国の問題は歴史のディスクールで繰り返し取り上げられていた。しかしフーコーは、一八世紀のブーランヴィリエのような戦争、侵略、支配のディスクールのために、こうした国の問題が一時的に歴史のディスクールの主流から姿をけしていたことを指摘する。そしてこれまでのように戦争の用語で歴史を語るのではなく、平和な市民的な用語で歴史と国家を語ることができるようになる。これからは歴史のディスクールで語られる「戦い」は戦争ではなく、国の普遍的を目指した戦い、経済制度、生産、行政に関する戦いとなる。

 この新しいディスクールにおいては、戦争や支配が忘れられたわけではない。ティエリーもギゾーも、フランスには二つの国家があり、征服した国家と征服された国家があると語るからだ。しかし同時に、過去の征服の歴史から振返るのではなく、現在という時点から振返る歴史のディスクールが誕生する。フーコーは歴史と政治のディスクールに「現在の価値の侵入」が発生したのは重要な現象だと考えている(SOC:203)。

 フーコーはこれまでの歴史のディスクールでは、現在はつねに「忘却の瞬間」だったと指摘する。過去の侵略と支配の歴史こそが重要なのであり、現在はそのディスクールの消失点のようなものだったからだ。しかしこれまでの歴史的に背景ではなく、現在の国の力を重視する新しい歴史のディスクールでは、もっとも重要で、もっとも普遍的な意味をもつのは、現在である。そして現在が過去を分析する視点となるのである。

 一九世紀の歴史のディスクールは、この過去からの視点と現在からの視点という二つの「格子」のもとに成立する。過去からの視点から語られた歴史のディスクールは、貴族的で法的なディスクールとなる。また現在の視点から語られた歴史のディスクールは、ブルジョワ的でリベラルなディスクールとなる。しかしこのディスクールは互いに独立しては成立しない。つねに相手のディスクールと相補的ななるとフーコーは指摘する。

★二つの格子
 この貴族的なディスクールの実例としてフーコーがあげているのがモンロジエMontlosierのディスクールである。この人はF. de Reynaud, comte de Montlosierで『フランス王政の樹立から現在までの歴史』という書物を1814年に出版しているらしい。この書物では第三身分を「奴隷の種族」と呼びながら、「わたしたちはあなた方の仲間ではない。わたしたちはわたしたちだけで一つの全体だ」と語っている。

 しかし革命とシェイエスの新しい歴史のディスクールを経由したこの時期の征服のディスクールは、以前のブーランヴィリエのような貴族的なディスクールとは異なるとフーコーは指摘する。モンロジエは、フランク族の侵入という歴史的な事実に依拠するのではない。すでにそれ以前にローマが戦争と支配を持ち込んでいたし、ゴールにはゴールの支配と征服関係があったからだ。そしてこの三つの支配の結果として、中世以来の貴族と平民の身分が確立された。貴族は一つの国家を形成し、それ以外の征服された民は国家の外部にあるとされている。

 モンロジエは、王政が貴族たちがすべてを握っていたこの国家から新しい国家、新しい階級を作り出したと考えている。そして王は貴族から経済的および政治的な特権を奪うために、この階級の力を利用した。この新しい階級は、次第に不満をもつようになり、貴族たちからますますその権力を奪っていく。王と新しい階級は手を結び、貴族を滅ぼしていく。そして国のすべての力が新しい階級のものになる。そしてその結末は、王の滅亡である。

 フランス革命は、王が貴族の権力を奪っていく歴史の最後のエピソードということになる。革命は王を滅ぼしたのではなく、革命は王の目的を完成したのである。革命は王政の完成である。モンロジエによると、革命でルイの首が落とされたが、革命は王政に王冠を与える。そして第三身分は、王の正統な後継者たちである。

 フーコーが注目するのは、モンロジエがブーランヴィリエのように戦争と支配のディスクールを利用しながら、貴族の特権の正当化を試みながらも、まったく新しい要素がみられることである。それは現在が最終的な到達点、完成点と考えられていることである。貴族と王の歴史は、革命という結論から解釈され、提示されているのであり、これは一八世紀とはまったくことなるモデルに従うものだという。

 フーコーがモンロジエのディスクールと対比してブルジョワジーの歴史的なディスクールとして示しているのは、ティエリーの書物である。ティエリーは現在という時点から出発して、国が第三身分の手に譲り渡されることで、全体的なものとなったと考え、その由来を探るという視点から歴史を考察する。現在は貴族も平民も和解し、「家族が再び一つになった」瞬間である。しかしこれは革命という戦なしには不可能なことであった。ティエリーは、革命は過去一三世紀の間続いてきた征服者と非征服者の間の戦争の最後のエピソードだと考えている。そして歴史は、この対立したもの同士がいかにして結び付くかを物語るものだという。

 そして革命とともに、それまで国の実質的な全体を握っていた第三身分が、国家と国のすべてを手中にする。ブルジョワジーが国家になったのである。ティエリーは現在という瞬間は、これまで存在していた二つの身分、二つの国家、二つの階級が消滅し、主人と奴隷の対立が消滅した瞬間だと考えているわけだ。

 フーコーはこれらのディスクールにおいては、歴史的および政治的に分析において、戦争のもつ意味が限定的なものとなっていることを強調する。対立はもはや戦という性格のものではない。また複数の集団、複数の国家の関係は支配と征服を中心とするものではなくなった。中心にあるのは、国である。

 フーコーはここで、弁証法的な哲学と歴史的なディスクールの関係を重視しているのが興味深い。フーコーは一九世紀に歴史哲学が登場したことは、こうした新しい歴史のディスクールと関係があることを指摘する。普遍的な国家が登場したことが、歴史における哲学が可能となるための条件だったというわけだ。フーコーはカントに代表される一八世紀の歴史哲学は、歴史の普遍的な法則に関する思弁にすぎないと指摘する。

  一九世紀から、なにか新しいものが始まるが、これは基本的な意味をもつものだと
思う。歴史も哲学も「現在において普遍的なものを担うのはなにか」という共通の問い
を問い掛けるのである。現在においてなにが、普遍性の真理か−−これは歴史の問いで
あると同時に、哲学の問いでもある。弁証法の誕生である(SOC:211-2)

 フーコーはなぜか弁証法と哲学を同じものとして語っているが、フーコーがヘーゲルを考えているのは明らかだろう。カントの歴史哲学とヘーゲルの歴史哲学の違いは明らかであり、それが国民国家の誕生と切り離すことができないのも明らかだからだ。ただ弁証法的な思考が歴史的な思考であることの意味をもういちど考えてみるのもおもしろいかもしれない。

 ちなみにモンロジエの「その後」については、アレント『全体主義の起源』で言及されている。彼はフランス秘密警察のフーシェに生計を援助してもらい、後にナポレオンのスパイになったという(邦訳第二巻69ページ)。アレントのこの書物は、フーコーの講義を読む上で欠かせない参考資料である。


注:Michel Foucault, "Il faut defendre la societe", Seuil/Gallimard,1997
(Socと略記します)