秘密の共犯関係

哲学クロニクル207号

(2001/10/02)




今回は、最近注目されているアガンベンが、1978年のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義『安全保障、領土、人口』に基づいて、テロと安全保障について考察している興味深い一文を紹介しよう。9月20日のフランクフルター・アルゲマイネ紙掲載である。原文はイタリア語。911事件については一言も言及されていないが、そのメッセージは明らかだろう。ぼくはアガンベンとかなり近いスタンスをとっているので、共感できる文章だ。入手しにくいテクストなので、こっそりと原文をリンクしておく。FAZにはないしょだぜ(笑)。

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秘密の共犯関係----安全保障とテロリズムについて
(ジョルジォ・アガンベン)

安全保障が国の政治学の中心的な概念となったのは最近のことではなく、近代国家の誕生の時期にまでさかのぼる。ホッブスがすでに、安全性の保障と恐怖を対立させ、人間が社会を構成するのは安全性を保障するためであると指摘していた。しかし安全保障についての思想が全面的に開花したのは、十八世紀になってからのことである。

ミシェル・フーコーは1978年に、まだ公開されていないコレージュ・ド・フランスの講義で、重農主義の政治的および経済的な実践において、安全保障が統治の道具としては、法律と規律に対立するものとして提示されていたことを示している。テュルゴーやケネーにとっても、重農主義的な立場にあった政府の大臣にとっても、重要なのは飢饉を防いだり、生産量をあらかじめ定めたりすることではなく、その結果を制御し、「安全に」できるように、生産の発展を許容することだった。

規律を加える権力は孤立して、領土を閉じる方向にすすんだが、安全性を保障するための措置は、領土を開き、グローバリゼーションを進める方向に向かった。法律は予防し規制しようとするが、安全保障はプロセスを制御するために、プロセスのうちに介入しようとする。

要するに、規律は秩序を作り出そうとし、安全保障は無秩序を制御しようとするのである。そして安全保障の措置を実行するためには、交通、商業、個人のイニシアティブが、ある程度までは自由になっていなければならない。そのために安全保障という考え方が発展するとともに、リベラリズムの理念が理解されるようになっていったことをフーコーは示している。

わたしたちはいま、安全保障の思想が極端にまで、そしてもっとも危険なところまで発展した状況に直面している。政治が次第に中立的なものとなり、国家が伝統的な任務を次第に放棄し始めた状況において、安全性を保障することが、国の行動の基本的な原則として登場するようになった。二十世紀の前半においては、安全保障はまだ行政府の複数の重要課題のひとつにすぎなかったが、いまや政治的な正統性の唯一の基準となっている。

しかし安全保障という思想には、重要なリスクが付随している。安全保障によってしか正統性を保証できず、国の課題が安全保障しかない国家は、とても脆い組織なのである。こうした国家はつねにテロリストからの挑発をうけて、みずからテロリズム的な国家になる危険があるのである。

第二次世界大戦の後に誕生した最初の大規模なテロ組織は、フランスの将軍が設立した秘密警察組織(OAS)で、この将軍は愛国者をきどって、アルジェリアとインドシナ半島におけるゲリラ活動にたいする唯一の対策は、テロだと確信していたことを思い出そう。十八世紀の国家学(ポリツァイ学)の理論家たちが主張していたように、政治を警察(ポリス)に還元してしまうと、国家とテロリズムを分かつ境界線が消失してしまう恐れがあるのである。そして最後には、安全保障とテロリズムが単一の死のシステムを作り出し、このシステムのうちでたがいに相手と自分の行動を正当化し、正統なものと主張するようになりかねない。

これによって、国家とテロリズムという本来は対立するはずのものが、こっそりと手を結んで共犯となる危険が生まれてくる。それだけではない。安全保障を求めるあまり世界的な内戦へと突入し、すべての人々が市民として共存することが不可能となるおそれがあるのである。主権国家の間の戦争という古典的な形式の戦争が終焉している現在の新しい状況においては、安全保障はグローバリゼーションを最終的な目標とすることが明らかになっている。グローバリゼーションは地球という惑星レベルで新しい秩序を確立するという理想を暗黙のうちにかかえているが、これは実際にはすべての無秩序のうちでも最悪なものなのである。

しかしさらに別の危険性がある。安全保障ではつねに(シュミットの語った)例外状況に依拠しなければならない。安全保障措置は、社会をますます脱政治化する機能を果たす。長期的にみると、安全保障は民主主義と両立できないのである。

だから国の政治の中心的な考え方となっている安全保障の概念を作り直すことが、なによりも緊急な課題となってきた。ヨーロッパとアメリカの政治家たちは、安全保障のイメージを地球的な規模で無批判的に採用すると、災厄的な帰結が訪れる可能性があることを考えるべきだ。民主主義が自己弁護を放棄しなければならないという意味ではない。無秩序と破滅的な災厄を制御するだけでなく、その訪れを防ぐために力を合わせるべきときがやってきたのである。

現在、エコロジー、医学、軍事などのさまざまな側面で、すべての種類の緊急事態計画が策定されているが、これを予防するのための政治が欠けているのである。事態は逆なのだ。政治は、緊急事態を作り出すためにこっそりと働いているのである。民主主義の政治の課題は、人々の憎悪、テロリズム、破壊をもたらす条件が発生するのを防ぐのことである。憎悪やテロや破壊がすでに生まれてから、これをどうにか制御するのが政治の課題だと考えてはならないのである。


作成:中山 元  (c)2001